大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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片山の磨崖種子と庚申塔(日田市)

 光岡(てるおか)地区、大字友田は片山部落にあります磨崖仏(磨崖種子)と庚申塔を紹介します。光岡地区や朝日地区など、日田市西部には気になっている場所がたくさんあります。ところが遠方にてなかなか探訪できておりません。それで、ひとまず片山磨崖仏・庚申塔を単独の記事で書いておき、ほかの名所を探訪でき次第シリーズとしての体裁で書き換えようと思います。

 

1 片山の磨崖種子

 光岡小学校前から西に行き、花月川べりの道を進んでいきますと2車線の道路がほんの短い区間、日田英彦山線と民家・崖に挟まれて離合困難になります。この離合困難の区間の崖に磨崖種子が彫られています。車は、その区間を抜けてすぐ、右側の路肩に停めるしかありません。民家の出入りや離合待ちの車の迷惑にならないように気を付ける必要があります。

 岩壁にかなりの大きさの梵字が彫られています。矩形に彫り込んで浅い龕をこしらえ、その中に梵字を彫っていますので対岸からでもよう分かると思います。これほどの規模の磨崖種子は滅多に見られません。道路から数段の階段を経て写真下に写っている案内板の前辺りに上がり、そこから道路に沿うた通路を右方向に行き、石段を上がって左に折り返せば梵字のすぐそばに寄ることができます。右下に写っている石祠はお稲荷さんです。

 説明板の内容を転記します。

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日田市指定史跡
片山磨崖仏

 「バク」と読み釈迦如来を現わした梵字、字の大きさは縦2.1m、横1.8mで市内最大のものである。
 願主の沙弥圓阿は誰であるか不明だが康永元年(北朝年号 西暦1342年)後醍醐天皇勅願寺である、岳林禅寺日田郡司大蔵永貞によって完成されているので、康永3年(1344年)に岳林禅寺の霊域の西端に大蔵永貞かそのゆかりの者が願主となり造られたものと推定される。
昭和50年3月28日指定

昭和51年3月 日田市教育委員会

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 説明板では「磨崖仏」となっていますが、種子(梵字)自体が仏様を表しているのですから、これも適切な表現です。ただ一般に「磨崖仏」と申しますと刻像をさすと思われますので、この記事名および地の文では「磨崖種子」としました。

 右の石段を登り詰めたところには奥行きのある龕をなして、その中には3体の仏様が安置されていました。その隅には五輪塔か何かの部材が置いてあります。梵字の直下には小型の五輪塔が立っていました(写真はありません)。おそらくその付近にあった五輪塔のうち壊れてしまった塔の残欠を、龕に納めたのでしょう。粗末にすることなくきちんとお祀りしてあって、立派なことではありませんか。通路の清掃も行き届き、近隣の方々の信仰の篤さが覗われました。

 

2 片山の庚申塔

 磨崖種子の崖上に堂様がございます。その参道の途中で庚申塔を数基見つけました。車を置いたところから崖に沿うて石段が伸びているのですぐ分かります。「道幅狭し、スピード落とせ!」の看板のすぐ裏です。

猿田彦太神

 猿田彦大神ではなく「太神」になっています。このような用字はあまり見た覚えがなかったのですが、検索してみたら他県においても同様の事例があることが分かりました。この塔は自然石ではないものの、銘を彫った区画が向かって右に偏っているのが気になります。なんだかバランスが悪いような気がしませんか。

向かって左から 藤吉明神/猿田彦太神/猿田彦尊余◇

 まず「藤吉明神」が何のことやら皆目わかりません。庚申様とは関係がないような気がします。中央は「猿田彦太神」、赤い顔料の色がよう残っています。「猿」は異体字で、「土」の下を「糸」の脚を衣にしたような字形でした。右は「猿田彦尊余」の下にもう1字あるのですけれどもその読みが分かりません。銘を彫った区画の上部が波形模様をなしており洒落ていますし、その上部には別の区画に日月を浮き彫りにするなど中央の塔よりも手の込んだ造りになっています。

 

今回は以上です。最近はシリーズの体裁で更新するばかりになっているので、このように短い記事はずいぶん久しぶりでした。やはりただ1ヶ所のみの単独の記事よりは、複数の名所を順々に紹介していく、ある程度の長さのある記事を書く方が好きです(骨は折れますが)。日田の名所旧跡をたくさんめぐって、はやくシリーズ展開したいものです。