大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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八坂の名所めぐり その1(杵築市)

 杵築市八坂地区の名所旧跡をめぐるシリーズです。探訪が不十分なので、少しずつ書き進めていきたいと思います。初回は道順によらず、地区内のお弘法様に関連する名所のうち立石山の霊場(新四国)、熊丸の阿弥陀堂、宮脇の新四国と風の神様、五無田の霊場を紹介します。このほかにも野添の大師堂、平田(ひらんた)の霊場など数々ありますが、これらは適当な写真がありませんので後回しにします。

 

○ 八坂地区の今昔

 八坂地区は暴れ川であった八坂川に翻弄される時代が長く続きました。この地域は八坂川を境に川北・川南に大別されます。すなわち大字本庄・八坂が川北、大字日野・中・相原(あいわら)が川南にあたります。増水により沈み橋が通行不能になり川北・川南間の交通不便も度々であったばかりか、大水が出て低地一帯の農作物・家屋の度重なる被害は平成半ばの河川改修まで頻発しておりました。かてて加えて藩政時代には宮原(みやばる)を境に杵築領・日出領が入り乱れておりましたので何かと不便を託ちましたし、特に元禄時代の日出領側では六公四民というとんでもない重税に凶作が重なり難渋を極めた由、盆口説「阿南清兵衛」により今に伝わっています(最後に全文を紹介します)。このような背景によりことさらに信心深かったのか、八坂地区は石造文化財の宝庫で、その質・数ともに北杵築地区に比肩すると思われます。

 今は立派な橋がたくさんかかり、河川改修もずいぶん進み、交通不便や浸水の心配は解消されました。度重なる浸水被害に喘いで山手に集団移転し人口が激減していた旧広瀬部落にも、新しい家屋が増加しつつあります。戦後、四国や広島からの開拓団によりあちこちに拓かれたみかん山も、規模を縮小しつつありますけれども新しい品種への切り替え等により成果を上げていますし、広瀬・新庄の集団営農も発展しているようです。生活様式が様変わりし路傍の石造物や山中の霊場などは少しずつ信仰が薄れてきていますが、お参り・見学をいたしますと昔の方の暮らしが思われて、今の世の中のありがたさを感じずにはいられません。

 

1 立石山の霊場

 立石山の霊場は宮原(みやばる)(註)の山手にあるお弘法様で、堂様の並びの大岩の上に子安大師様、その下は寄せ四国の様相を呈しています。今は残念ながら荒れ気味ですが、昔は近隣の信仰を集めてお参りが多かったようです。
註:宮原は大字本庄・八坂に跨る通称地名です

 先に道順を申します。杵築駅から県道644号を市街地方面に進みます。コミュニティバス平尾台団地入口」停留所のところを左折して少し行くと、右に駐在所があるところで左にカーブします。30年ほど前にこの辺りから参道を歩いてお参りに行った記憶があるのですが、今は入口が全く分からなくなっています。杵築郷土史研究会『郷土誌杵築 忘れられた神々と野仏 第五集』(平成3年)の当該項目の地図を見ると、確かにその道筋が載っています。現状では竹藪でとても進入できませんので、別ルートを試みました。本来の参道入口を通り過ぎて、車で平尾台への坂道を上っていきます。住宅地のかかりを右折して浄水場方面に進み、空港道路を跨ぐ手前、右側のガードレールが意味ありげに途切れていました。おそらく霊場への入口に違いないと考え、路肩に邪魔にならないように駐車して歩いていくと、無事行き当たりました。

 ここから入ります。下草を刈られており、人が歩いた形跡がありました。この車道は空港道路の開通により付け替えられたものです。車道の擁壁の下に沿うてずっと歩いていくと、右側に大きなお弘法様の後姿が見えました。

 もしかしたら…の心持ちで歩いたものですから、この後姿を目にしてほっといたしました。霊場は右側の崖下にあります。崖の上を横切って一旦通り過ぎ、段差が低くなったところから竹につかまって下りどうにか回り込むことができました。特に危険を感じるほどではありませんでしたが、滑落すると大怪我をしそうな高さがありますから雨上がりはやめておいた方がよいでしょう。

 無事堂様の前に着きました。「立石山弘法大師」とあります。この「立石山」という地名は聞いたことがありません。平尾台の裏山はいちめんみかん山で、そのあたりの地名は高尾と申します。もしかしたら裏山自体を「立石山」と呼ぶのかもしれませんが、地名というよりは山号のようなものではあるまいかと推測しています。格子の中には色鮮やかなお弘法様とお地蔵様が並んでいます。ありがたくお参りをいたしました。

 堂様のところから左に行けば、さきほど後姿を見たお弘法様が大岩の上に立っています。その下にはたくさんの仏様が寄り集まっています。台座正面には「○番」と札所の番号が、側面には奉納された方のお名前が彫られていました。上本庄や友清に多い苗字の方が多く、この霊場が宮原およびその近隣の方々の信仰を集めていたことが分かります。

 立派な線香立て・花立てが用意されていますが、もう長いことお参りをした形跡がありませんでした。昔、このように竹が生い茂っていなかった頃は、きっとこの辺りでお接待を出したり、御詠歌をあげたりしていたことでしょう。

 右側にはたくさんの仏様が密着するように集められています。こちらは台座がありません。おそらく昔は、山中に点在しており新四国霊場として、札所巡りができるようになっていたのでしょう。それが、今ではこの場所に下ろされて寄せ四国の様相を呈しているわけです。その事情は不明ですが、もしかしたら空港道路の開通により旧来の巡拝路が失われてしまい、その過程でこちらに下ろされたのかもしれません。

 こちらが本来の参道です。ここから下っていけば駐在所のところに出られるはずですが、こんな始末なのでどう考えても通り抜けは困難です。

 本来の霊場入口には笠の壊れた灯籠が1基立っています。

 もう一度お弘法様の下に返りますと、一番札所の真後ろにも小さなお弘法様が建っていることに気付きました。一番から三番と小さなお弘法様は、元からこの場所にあったものと思われます。いずれも状態がよく、優美な造形で、蓮華座の部分などたいへん凝っています。ところが奥に写っている、山中から下ろされたと思われる仏様は傷みが進んでいますし、作りもやや簡略化されているように感じました。

 大岩の中腹にも札所の仏様が安置してあります。この状況では転落が懸念されます。粗末にならないように、安定のよいところに下ろした方がよさそうな気がしました。

 この3体も崖の中腹で、とても近寄れません。でも山から下ろしたのであればわざわざこんな場所に置かないと思います。もとからこの場所にあったのでしょう。

 大岩の上の方にもたくさんの札所が並んでいます。枯葉が堆積していましたので掃除をしたかったのですけれども、この場所に行く通路がとても狭く転落が懸念されましたので諦めました。

 優しいお顔の子安大師様、なんとありがたいことでしょうか。この山中にあっては維持管理に難渋され、今の状況になったと思われます。地域の内外によらず、少しでも多くの方が気にかけてお参りをされますと、今以上の荒廃を少しは防ぐことができるかもしれません。

 

2 熊丸の阿弥陀堂

 県道を杵築駅方面に戻り、中山石油のところを右折して山手に進みます。「阿蘇神社」の立札のある辻を左折すればほどなく、阿弥陀堂がございます。駐車する際、隣接する民家の出入りの邪魔にならないように気を付ける必要があります。

 阿弥陀堂は熊丸や野添の方の信仰を集めており、いつも掃除が行き届いています。阿弥陀様だけでなく西国三十三所四国八十八所も同時にお参りできますので、その霊験あらたかなること著しく、今なおお参りが絶えません。

 堂様の中には阿弥陀様とお弘法様を中央に、その両脇には西国三十三所のお観音様が寄せられています。

四国八十八ヶ所お砂の塔

お砂踏み
履物を脱いで塔の廻りを三回歩いてお蔭をいただきましょう 合掌

 そう古いお塔ではないと思われます。この地域は昔から四国八十八所の信仰が盛んで、戦前までは宮脇の新四国を巡拝される方も多かったそうです。

 堂様の裏手には、宮脇の新四国の札所がずらりと並んでいます。これについては後ほど、別項を設けて説明します。

 右の塔は庚申塔で、猿田彦の銘があります。五輪塔も数基見られるほか、左の御室の中には牛乗り大日様などもお祀りされていました。

 大正11年西国三十三所の写し霊場を開いた記念の碑銘です。

 

○ 宮脇の新四国について

 熊丸部落のうち、山手の土居を宮脇と申します。昔、宮脇には新四国霊場が開かれていました。地域のお年寄りに聞き取った結果、以下の内容が分かりましたのでここに記しておきます。

阿弥陀堂を1番札所として、宮脇の道路端や民家の坪などに点在する札所を巡拝していき、青柳池のあたりから山に登ったところの大きなお弘法様を打ち止めとしていた。昔は御詠歌を流しながら巡拝する人もいた。

・あるとき、道路端にあった仏様(何番札所であったかは失念した由)が盗難に遭った。それを契機に、個人の坪や堂様で祀られている札所以外は、全てを阿弥陀堂の坪に下ろした。なので88体全てが阿弥陀堂に並んでいるわけではなく、今も数体は元の場所(民家の坪や堂様)に残っている。

・戦争が激しくなるまで、旧の3月20日には「遊山」と称して、部落中で山のお弘法様にお参りに上がっていた。めいめいにお寿司をこしらえて重箱に詰め、子供もお年寄りも、山道を歩ける人はみんな登った。その頃はお弘法様のところが今のように木が茂っておらず、原っぱになっていてたいへん見晴らしがよかった。お寿司やおかずを交換したりして、春の一日を楽しんでいた。21日は堂様でお接待を出して、近隣からのお参りで賑やかだった。春のお彼岸をみんな楽しみにしていた。

・今はもう山のお弘法様まで登る人はいなくなったが、元の場所に大きなお弘法様が麓を見下ろすように立っているはずである。空港道路ができて昔の山道は通れなくなったが、青柳池の先から林道を進めば途中まで車で上がることができる。そこから風の神様の方に歩いて、さらに登ったところです。

 

3 青柳の風の神様

 山のお弘法様の話を聞き、ぜひお参りしたやと思いまして道順を教えてもらい、新年早々捜しにいきました。お話の中にあった「風の神様」は無事見つけることができましたが、そこから登ったところにあるはずだという「大きなお弘法様」は残念ながら見つけることができませんでした。それで、ひとまず風の神様のみを紹介します。

 阿弥陀堂そばの辻から山手に進み、宮脇を抜けて空港道路の下をくぐります。右に青柳の池を見て、少し行ったところから左に分かれる林道に入ります。

 ここから左の林道を進みます。途中まで車で行けるとのことでしたが現状は荒れていてとても四輪では無理でしたので、この手前の路肩の広いところに駐車して歩きました。

 この写真などまだよいうちで、倒木や舗装の破損など、どう考えても自動車では通れそうにありません。昔はこの林道に沿うてみかん山があったそうですが、今は一面の竹藪です。

 林道はこの先で行き止まりです。その手前より右方向に僅かに踏み跡がありますので、山に入っていきます。その先で踏み跡が二股になっていますので、右方向に登ります。

 このように山道は荒れ放題で、どこが道やら見わけもつかぬような場面が多々ありました。迷わないように気を付けて進みます。

 風の神様に着きました。「風神宮」とあります。今や信仰も絶え、斜面の土に埋もれ気味の状態になっていました。昔は台風除けの祈願も真に迫ったもので、近隣の方々の信仰を集めていたことでしょう。お参りをしまして、はてお弘法様はどこぞやと辺りを見回しましたが全く見つかりません。この少し手前から山頂方向に踏み跡がありましたので、急傾斜を登ってみました。

 行けども行けどもお弘法様は見当たりません。三角点周辺は台地状になっており、木が茂っておりますので見通しが利きませんでした。

 こんな状況です。辺り一面を右往左往してずいぶん捜しまわりましたが、とうとう見つけられずに日も暮れてきたので、諦めて山を下りました。また冬になったら挑戦してみようと思います。

 

4 五無田の霊場

 大左右(だいそう)の山手にあるお弘法様の霊場です。庚申塔もあります。以前書いた記事を参照してください。

oitameisho.hatenablog.com

 

○ 盆口説「阿南清兵衛」

 冒頭にて言及しました、阿南清兵衛さんの口説の全文を紹介します。六調子や三つ拍子、またはヤッテンサンの節で今なお盛んに口説かれています。

〽頃は元禄四年の昔 阿南清兵衛惟雪さんは 聞くも慕わし義侠の名主 当時日出領八坂の村は  高は千石免六つなれば 上の運上極めて重く 農家立ち行き甚だ難儀 時に秋作不作の年は 家財道具を取り片付けて 子供年寄り引き連れ立ちて 長の年月生まれし里を 他国他領と見知らぬ空に 流浪するのが不憫さ故に 慈悲で義衛の清兵衛さんは 後の祟りも頓着せずに 御領主様へと免下げ願う 時に名君俊長公は 江戸に参勤おわするからに 名主郡代呼び寄せられて 事の子細の吟味をなされ 郡代殿には切腹なされ 名主様には牢屋の噂 後にとかれて国へと帰り 御役はがれて尾羽打ち枯らし 移り百姓で徳野が原に 暮らす義人の艱難辛苦 よその見る目も哀れさ余る まして病の床にと就けど 医者も薬もままにはならぬ 誠こもれる妻子の看護 相も空しく痩せ衰えて 今はこうよと見えたる間際 我の亡骸大儀寺埋けよ 遺書も細々往生遂げる これが元禄八年二月 十日余りの七日に当たる 後の村人義人の徳を 永く忘れで伝えましょうや もしも忘れちゃそれこそすまぬ

 

今回は以上です。山のお弘法様に行き当たらなかったのが返す返すも残念です。これからも、地域の方に教えていただいた内容をできるだけたくさん入れ込んでいきたいと思います。