大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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三芳の名所めぐり その1(日田市)

 このシリーズでは三芳地区の名所旧跡をめぐります。三芳地区は大字日高・求来里(くくり)・田島からなります(住居表示済の地域を含む)。地域を代表する名所としては、大原八幡宮(大原さん)があげられましょう。ほかにも大原の枝垂れ桜、正風寺跡、元大原神社、求来里喜平さんの観音様など種々あり、宝篋印塔や磨崖仏などの文化財も点在しています。

 本当は大原八幡宮から始めたかったのですが、適当な写真がありません。それで、今回は正風寺跡の磨崖仏、舟場の観音様・水天宮、三芳百年祭の記念碑、刃連町(ゆきいまち)の白髭大明神を紹介します。今回の目玉は、舟場の観音様の坪に立っている宝篋印塔です。それはもう素晴らしい、見事なお塔です。

 

1 正風寺跡

 大字求来里は求町(もとめまち)の公民館は、正風寺の跡地です。公民館の建物の左側の小山には、お地蔵様やお弘法様、お薬師様などがお祀りされています。磨崖仏もあり、日田では稀な事例です。

 道順を申します。国道210号大部三叉路から横道を上り、突き当りを右折してさらに上ります。上の道に出たらまた右に行き、次の角を左折して広域農道(標識あり)を進みます。ここからは2車線の立派な道です。天領大橋のところに舟場の観音様があります(次の項で紹介します)。道なりに行き、「止まれ」に出たら左折して、次の角を右折します。道なりに下って、信号機のある辻を右折します。しばらく行くと、左の田んぼの中にポツンと求町公民館が建っています(駐車場あり)。

 公民館敷地の左に小山があり、その裾に龕をこしらえてお屋根をかけ、仏様がお祀りされています。左の坐像がお弘法様、右の立像がお地蔵様です。お参りをしたら右の小道を上ります。

 少し上ると、大岩に龕をこしらえて磨崖仏が彫ってあります。こちらはお薬師様です。龕の左側に、仏様のお顔だけが薄肉彫りで残っています。これは脇侍でしょう。残念ながらお顔以外は風化摩滅が著しく、確認できませんでした。右側に至っては痕跡の確認も困難です。大岩の崩落防止のためでしょう、ワイヤーを格子に張ってあるので景観を損ねていますが、安全のためなので致し方ありません。

 小規模な磨崖仏ですけれども、細かいところまですこぶる良好な保存状態です。磨崖仏としては、これほどよう残っている事例は稀であると存じます。下部の蓮華坐も丁寧に彫ってあり、瓢箪型の龕と仏様の姿がよう合うて、さても優美なことではありませんか。

 さらに進めば磨崖碑も確認できました。大型で、上部には三尊形式の梵字が残っています。写真はありませんが、磨崖碑はほかにも2基あります。

 この像も磨崖のような気がしましたが、定かではありません。さきほどのお薬師様に比べますと、頭部の傷みが著しく何の仏様か分かりませんでした。でも、衣紋の細かいしわなどはよう残っています。

 正風寺跡でお参り・見学したのは以上です。わたしが気付かなかったものが、ほかにもあるかもしれません。上の方に行くと道がやや荒れ気味です。でも距離は知れているので、ここで紹介した分については容易に行き着くと思います。正風寺には、雪舟が訪れたという伝承があるそうです。お隣の山国町にも、雪舟庭という名所があります。雪舟が来たのは、同じ時期のことかもしれません。

 

2 舟場の観音様(偏光院)

 正風寺跡から、もと来た道を後戻ります。天領大橋のすぐ手前、右側に小さな公園があります。その駐車場に車を停めたら道路を渡って左側から小道を下り、橋の下をくぐります。ちょうど橋の上を車が通って、たいへん大きな音が響いて腰を抜かしそうになりました。

 橋の下をくぐって少し下れば、正面に堂様が見えてきます。こちらが偏光院で、すぐ下に玖珠川の渡し場があったので舟場の観音様と呼ばれています。

 小坪には藤棚がありますので、花の時季は特によいでしょう。ここは高台の上なので見晴らしもなかなかのものです。石造物が種々ある中で、特に目を引くのが宝篋印塔です。日田市内ではこの種の宝篋印塔がいくつも残っており、実際に今回の日田めぐりでも数基見つけることができました。その中で最初に出合うたのがこちらの宝篋印塔で、今まで見たことのなかったタイプなのでたいへん興味深く、想像以上に立派な造りに感激してしまいました。これは素晴らしい。

 この宝篋印塔見学をはじめ、今回の日田めぐりについては日田んもんさんによるブログ「こちらは北部九州にある盆地「日田」です」(外部リンク)がたいへん参考になりました。日田んもんさんによる分かりやすい説明で日田の名所、文化財、史蹟などがたくさん紹介されていて、わたしの興味関心のある事柄ばかりなので以前から興味深く拝見しており、いつか行きたやと思うところが増えるばかりでした。今回その一部ですけれども探訪できて、喜びもひとしおです。

 塔身が2階建てになった、たいへん豪華な造りの宝篋印塔です。笠の隅飾りが装飾性を極め、異様に大きく発達しており、この特徴から江戸時代の造立であろうと推量しました。宝篋印塔の特徴である階段状の装飾はなりを潜め、全体的に縦のシルエットを強調した造形はたいへんスマートで、かつ、華奢になりすぎずどっしりとした重厚感が感じられます。残念ながら相輪が破損しており、その残欠を横に置いてあります。それ以外はほぼ完璧な状態を保っており、野ざらしかつこれだけ複雑な造りのお塔としては驚くべき保存状態であるといえましょう。上の塔身には四面に梵字を浮彫りにしてあり、堂々たる字体であるとともにその彫り口が角を立てずに丸っこく仕上げてありますので、優美な雰囲気です。上下の請花はごく浅く仕上げてあります。下の塔身は正面に梵字、あとの3面には碑文を彫ってあります。

 見れば見るほど素晴らしい。これほどのものが、こともなげに地域の堂様の坪に立っていることに驚かされます。興味関心のある方にはぜひ見学をお勧めいたします。

享和三癸亥秋
遍照金剛豪潮誌
八万四千之内

 碑文の末尾のみ抜粋しました。やはり江戸時代の造立です。碑文により、この塔は豪潮律師によるものであることが分かります。豪潮さんは寛延2年、熊本県の出身で、16歳より比叡山で10年以上に亙る修行の末、国許に戻り、己を律して僧侶としての厳しい生活を続けました。貧しい人々の救済等により大衆はもとより、諸国諸大名からも崇敬された高僧です。54歳より、万霊供養・国家安寧・武運長久・五穀豊穣などを願うて全国に宝篋印塔を8万4千基建立するために諸国を巡りました。日田市内には豪潮さんの宝篋印塔が十数基残っており、地域内にこれだけたくさん残っているのは稀なことのようです。造立の経緯が興味深いし、宝篋印塔のデザインの変遷の過程を垣間見ることができます。

 石祠の中は、その像容からお弘法様であると思われます。衣紋は細やかな縞を千鳥にして、美しく朱を入れてあります。左奥には多種多様な仏様が一堂に会し、めいめいの台座には文殊菩薩、釈迦如来などとその尊名と奉納された方のお名前を記してあります。

観音堂境内
水天宮
復旧世話人
昭和四拾八稔一月

 日田盆地は、度々の大水や台風の被害に見舞われています。船場の観音様も何らかの災害被害を受けたのでしょう。

 観音様から下る道が2つあります。すなわち正面階段と、堂様の裏手から屈曲する掘割道です。後者の道を歩いてみました。

 坂道の途中、右側に小さな穴が開いています。これは防空壕なのか、貯蔵庫なのか、はたまた何らかの信仰に付帯するものなのか判断が尽きませんでした。

 

3 舟場の水天宮

 観音様から下ったところ、道路と崖の間の狭隘地に水の神様がお祀りされています。

 道路端にて写真を撮れませんでしたが、鳥居もあります。石祠は堅牢なる基壇の上にお祀りされており、シメがかかっています。玖珠川の治水を願うて、この場所にお祀りしてあるのではないでしょうか。または、先ほど申しましたようにかつて付近にあった渡し場にも関連があるのかもしれません。

法華経一部一石塔

 「一部一石」という言い回しは珍しい気がします。

 

4 三芳百年祭の記念碑

 今度は三芳地区の公民館を目指します。一旦上の公園まで戻って車に乗り、回り道して水天宮のところまで下ります。市街地方面に少し行って、歩道橋のところを右折した正面に公民館があります。その敷地脇に記念碑が立っています。

 碑文を転記しておきます。

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三芳百年記念碑

会所山を始めとして 郷土の山河は長い歴史を蓄えて来た
明治二十二年 市町村制施行により旧日高 求来里 田島の山村が合い併ったこの地を 先人はいみじくも三芳と名附け 芳気豊かな風土を培って来た
爾来 百星霜を積んだ郷土の足跡を偲び 先人の芳躅を展けゆく未来へ継承するため 玆に地区民挙って三芳百年を祝うものである

平成元年十一月吉日
三芳百年祭実行委員会

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 碑文にある会所山(よそやま)は大字日高と田島を隔ての丘陵で、日田の鎮守であります久津媛神社をはじめ会所宮、環状石なども見られ、いわば日田の元起こりというべき場所です。

 

5 刃連町の白髭大明神

 三芳公民館の右の道に入り直進すれば、道路左側に白髭大明神の碑が立っています。ここは刃連町(ゆきいまち)のうちです。この地名は町村制施行以前の村名を、住居表示の町名に取り入れたものです。たいへん難しい読みですが、このような歴史的な地名を残すのは好ましいことです。


白髭大明神

 すぐ横には白髭大明神の由来を記した小さな立札があります。けれども、この碑自体の由来は何も分かりませんでした。これは推測ですが、昔この場所に白髭神社があったのかもしれません。それがどこかに合祀され、跡地に碑銘を立てたのではないかと考えます。

 

今回は以上です。次回は東有田地区の名所を少し紹介します。

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