大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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伊美の名所めぐり その6(国見町)

 久しぶりに伊美地区の記事を書きます。今回は別宮社周辺の名所旧跡を取り上げます。別宮社は壮麗なる社殿の建築や数々の石造文化財、境内の環境など何から何まで素晴らしく、みなさんに参拝をお勧めいたします。姫島に遊びに行くとき、連絡船を待つ間に参拝するのもよいと思います。

 

27 伊美別宮社

 標識が充実していますし、国道213号のすぐ近くなので道案内は省きます。広い駐車場がありますので、車のときも安心して参拝できます。

 まず目に入りますのは、見事な石橋を伴う参道です。通常は通行止めになっておりますので横から回り込むことになります。太鼓橋のアーチがたいへん美しく、しかもおばしまの造りも凝っており、さすがは社格の高い神社の参道であると感じます。正面から見ますと若干よがんでいるような気がしますけれども、これは傷みというよりは、元々でしょう。

 境内から振り返った様子です。たくさんの木が育っていますけれども、境内がたいへん広いのと手入れが行き届いているので、鬱蒼としておらず明るく開放的な雰囲気です。特に秋も深まりて空が高くなった時季など、たいへん気持ちがようございます。幅広の参道の両脇にはたくさんの石灯籠が並んでいます。

 狛犬の上に火袋の乗った石灯籠は、国東半島のうち北浦辺の各地に残っています。こちらや、下黒土(真玉町)の身濯神社のものが特によう知られています。夫々個性がございまして、こちらは狛犬の珍妙な表情が心に残ります。また、奥に写っている灯籠の猫脚の高さにも注目してください。不勉強で石灯籠には明るくないのですが、ちょっと注意して方々の灯籠を見比べて見ますと興味関心が湧いてまいります。

 適当な写真がないので省きますが、この先の神門が素晴らしく立派な建築です。まして社殿は言うまでもありません。

 由緒書の内容を転記します。 ※読みやすいように句読点を補い算用数字に適宜改めています

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別宮社由緒

一 祭神
 品陀和気命応神天皇
 帯中日子命(仲哀天皇
 息長帯比売命神功皇后

二 境内社
 金毘羅社、宮重社、今熊社、伊美崎社

三 創建の由緒
 当別宮社は元宮幣大社石清水八幡宮の別宮であり、前県社である。人皇第五十八代光孝天皇の御宇(仁和2年)、領家小深田民部大輔盛勝は領主片見貞信の命を受け、山城国男山石清水八幡宮の御分霊を奉持し、隋神司官藤原朝臣桐畑左京大輔盛重と共に周防の国祝島を経て8月16日、伊美浦に着御、暫時野田村の仮宮に安置。その年10月14日、聖地入江島に社殿を造営し伊美郷鎮護の守護神として奉祀した。

四 祭祀
 歳旦祭   1月1日
 豊穣祈願祭 4月8日
 大祓祭   7月30日~31日
 例大祭   10月13日~16日
 新穀感謝祭 12月8日
 式年大祭  山口県熊毛郡上関町祝島
       海上渡御 毎4年
       (重要無形文化財

平成20年記 別宮社社務所

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西比利亜出征
記念
昭和十二年十月納

 西比利亜はシベリヤです。このような石造物は地域の歴史の一端を伝える大切な文化財です。また、後付の価値ではありますけれども平和祈願のモニュメントとしても意義深いものであると思います。よしやこの先傷んで更改するときが来たとしても、境内に大切に保存されることを願います。

 鳥居の神額には「金毘羅宮」と「瑜伽宮」が併記してあります。1基の石祠に複数の戸があって、別の神様があわせてお祀りされている事例は近隣でもしばしば見かけます。金毘羅様と瑜伽様、いずれも瀬戸内沿岸部の一円で広く信仰され、国見町も例外ではありませんでした。

 国見町にはお恵比須さんの像がたくさん残っています。お恵比須さんはどこの漁村でも絶大なる信仰を集めましたが、国見町ほど丸彫りの石造が残っている例は県内では稀であると存じます。これまでにも複数紹介してまいりましたが、別宮社のものは大きく立派な造りです。福々しいお顔の表情が素晴らしい。こちらを基点に、町内のお恵比須さんめぐりをするのも楽しいと思います。

 お稲荷さんにはたくさんの鳥居が連なっています。その並びにもたくさんの石祠が並びます。元々この場所にお祀りされていたのか、近隣から移されたのかわかりませんけれども、めいめいにシメをかけて鄭重にお祀りされてあります。

 さて、別宮社には文化財に指定されている年中行事が3つあります。

 説明板から引いて、3つの行事を紹介します。

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県指定無形民俗文化財(昭和48年3月20日指定)
別宮社神楽
所在地 大分県国東市国見町伊美
所有者又は管理者 伊美別宮社里楽師

 流鏑馬神事の前日14日、別宮社の宵宮祭が行われる。中庭で練楽が奉納され「伊美別宮社里楽師」達による神楽が始まる。
 別宮社の神楽には、岩戸神楽24番、夜戸神楽12番、三番神楽1番と無言の舞1番とがあり、また祝島で舞う八重垣と梓弓の2番がある。神楽歌は概ね古今集風のものが多く、神懸歌なども古今集の歌を取り入れている。また、一番神楽の出立ちの唱詠は和漢朗詠集によるもので、この神舞の成立年代にも関わりを持っている。

 

県指定無形民俗文化財(昭和56年3月31日指定)
別宮社流鏑馬
所有者又は管理者 伊美別宮社

 伊美別宮社の流鏑馬は、平安の昔、この地に鎮座されたとき、競馬であったことが文献に残されている。鎌倉時代武家社会となるとそれが馬上で弓矢を射る流鏑馬の形に変わってきた。豊後に鎌倉武士(大友氏)が入り日田の大蔵氏が北浦辺の伊美郷に安堵して別宮社に流鏑馬を奉納したのが始まりではないだろうか。文献によれば、宝永2年(1705)には流鏑馬神事が恒例になっていることがわかる。
 行事は9月1日より始まり、矢矧祭りなどを経て毎年10月15日に実施される。3つの的に矢を射かけ、異なった所作を6回行い、周りの観衆の拍手に競って馬は走り、それに乗る射手は鹿皮の袖をまとい、烏帽子姿の派手な姿には未了される。

 

県指定無形民俗文化財(昭和43年3月20日指定)
別宮社神舞行事
所在地 大分県国東市国見町伊美
所有者又は管理者 伊美別宮社
年代 仁和2年(886年)伝

「家人は帰り早来と伊波比島 斎ひ待つらむ旅行く吾を」
「草まくら旅行人をいはい島 幾代経るまで斎ひ来にけむ」
万葉集

 山口県祝島と伊美とは別宮社を通じて古代から深い繋がりを持っていた。
 仁和2年(886)、山城国石清水八幡宮の分霊を勧請のとき、桐畑盛重、小深田盛勝が供奉しての帰路、風待ちのために祝島に立ち寄った。このとき祝島には3戸の家があったが、島の人は神を祀ることや農耕の道を知らず、病弱な人ばかりであった。宮司はこの島に荒神と大歳神を祀らせ、麦の種を渡して農耕の技を教えた。その後、祝島は人家も増え、人々は健康に暮らし、次第に繁栄するようになった。
 これを機会に別宮社から4年ごとに新幣を奉持して海上を渡御し大祭が執り行われることになり、このとき奉納される神楽が「神舞」と呼ばれるようになった。神舞神事は、一口で言えば神舞を奉納する祭りであり、古代の恩に感謝し、別宮社の御神霊にお供物をもてなし、神舞を奏してお慰めする神事である。また、祝島への御神幸には、御神霊と側近奉仕の宮司・祢宜と別宮社里楽師を欠かせない。

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 さて、今度は本殿から御旅所の方向に少し進んだところの石造物を紹介します。見落とさないように気を付けてください。

河野珠石先生筆塚
湯川秀樹

 筆塚と申しますのは書や絵画の先生の供養塔で、門徒による建立が一般的です。河野珠石は明治・大正の頃に活躍した画家です。物理学者の湯川秀樹と、どのようなゆかりがあったのでしょうか。

 この国東塔は、有銘のものの中では岩戸寺の国東塔の次に古いものです。ずんぐりとした塔身が印象に残ります。反花は大らかな表現ながら、よう見ますと二重花弁になっているなど手が込んでいます。請花はありません。首部がよう目立ち、笠の形状などにも古式の面影が感じられます。造立はなんと正応3年(1290年)で、730年以上も前です!明治の神仏分離廃仏毀釈の折に解体・放置されていたものを後年復元したという経緯があり、残念ながら基礎以下は後補でありますので全てが造立当初のものというわけではありません。けれども反花以上は元のままであり、特に相輪や火焔などの保存状態のよさは驚異的と言えましょう。みなさんに見学をお勧めいたします。

 説明板の内容を転記します。

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県指定有形文化財(昭和33年3月25日指定)
石造宝塔(別宮社国東塔)
所在地 大分県国東市国見町伊美
所有者又は管理者 別宮社
年代 正応3年(1290)

 明治初めの廃仏毀釈の折取り壊されていたものを昭和初期に復元した国東塔である。基礎の3重は後補し、台座は複弁8葉の反花のみで、塔身は中央部に多少の膨らみをもつ円筒形で首部に奉納孔がある。笠は照屋根、軒口は薄く、軒返り隅に至って急に反転している。露盤の4面は2区に分かれ、各区分内に格狭間を刻む。塔身には崎の銘文が刻まれており、釣り合いのとれた優秀作である。総高4.76mを測る。

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 説明板に銘文の記載もあるのですが、読み取り困難による空白ないし推定箇所が多いのと、国東市のウェブサイトの当該項目との相違点も多々あるので、引用は控えました。一点補足しますと、明治初年の取り壊し以前、この塔は神宮寺の境内に立っていたとのことです。

 今度は本殿から東に進み、陰陽神と今熊社に参拝しましょう。お恵比須様やお稲荷様のところからなおも東に行けばすぐ、3基の鳥居の先に鞘堂が建っており、その中に陰陽神と今熊社が並んでお祀りされています。陰陽神は縁結び・安産祈願などの信仰篤く、近隣在郷はおろか遠方からの参拝者も多々あります。

 説明板の内容を転記します(より読みやすいように少し改変しましたが内容は同じです)。

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陰陽神由来略記

 人皇第58代光孝天皇仁和2年、山城の国男山石清水八幡宮の御分霊をこの地に勧請の砌、随伴した随神司官藤原朝臣桐畑左京大輔盛重は、爾来この地に在住し神明奉仕の傍ら、特に医術に長じ庶民の難病を療した。その功績は多大で、歿後、別宮社創祀功労神として今熊宮に奉祀された。それ以来、縁結び、子授け、安産、諸病平癒の神として広く崇敬され、女性は頭髪、男性は男根を彫刻して献納祈願することになった。
 現在の陰陽の神は献納男根の最大のもので、台石が女陰となっている。願主は伊美随一の名石工に命じ、現物の模写等数多の秘話や逸話を残して完成された逸物であるが、一時は風紀紊乱の謗りを受けて、土中埋没や海中投棄等されたが、その行為者は悉く局部の激痛や高熱に苦悶する等の神罰に遭い、恐懼その非を悔いて此所に復座奉鎮したものである。

平成13年10月1日
伊美別宮社社務所

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 非常に精巧な造りです。これだけ立派にお祀りされておりますのも、信仰の篤さの証左でありましょう。造立時のエピソードなどは、『国見物語第二集』に掲載されている江原慈喜平さんによる記事「珍宝神様」に詳しいので、説明板の内容の補遺としてその内容をかいつまんで記しておきます。

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・女性の信者は頭髪または陰部の絵を描き、男性は桐材で男根を彫刻し、何歳男とか午年生まれとかヒツジ歳の男と書いて献納したので、社殿に溢れ神社当局は年に1度、正月7日に焼却清掃することが例になっていた。
・漁師はその清掃の前夜に密かに男根の桐材を盗み出して、2つに割って網のアバ(うけ)に使用すると大漁があるという信仰があった。
・石造の陰陽神は明治17年に鎮座した。その1~2年前に資産家某が性病に罹り、平癒祈願のため久保田鶴松に依頼して造らせたものである。鶴松は自身のそれをよく観察してこしらえた。なお、久保田鶴松は友安の天満社の石造や、下岐部の胎蔵寺山門前の仁王像も制作した名工である。
・大正の中ごろ、本社の大祭に参向した県官がご神体を足蹴にかけ土中に埋めさせた。その夜、旅館で局部が腫れ上がり激痛に堪えず、復座させると激痛がおさまった。其の後に就任した警官も同じ理由で海中に投棄、社殿まで破棄させたが、原因不明の高熱に苦悶し、海中より引き上げ、海岸松林の恵比須様の境内に遷座した。
終戦後に現在地に遷座した。祝島の氏子衆より資金および資材の寄進を受けて、昭和48年に社殿を建設した。

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神社境内ノ美化運動ニ協力シテ下サイ 伊美老人クラブ

 物珍しさから面白半分に見学に来られる方も多いと思いますけれども、老人クラブの方など地域の方々により大切にされている信仰の場でありますから、このことを忘れずに行動したいものです。

 

27 本城の庚申塔

 陰陽神様のところから細い通路を通って東側の車道に出ます。浄化センター入口のすぐ右側に、人が1人歩ける程度のコンクリ舗装の細道があります(権現崎の尾根筋の車道につながっています)。この道を辿って上り坂にかかるあたり、右側に庚申塔が立っています。

 このように道よりも少し高い場所なので、あまり草がしこる時季だと見えづらいかもしれません。特に難しい場所ではなく入口さえ分かれば何のことはない場所なので、適切な時季に、別宮社参拝のついでにでも見学されてはいかがでしょうか。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 この塔は自然石の前面のみを整形したもので、どっしりとした印象を受けます。上の方には日輪・月輪を浅く彫りくぼめて、その縁に沿うて線彫りにて瑞雲を表現してあります。主尊と童子の収まる区画の上部は、幕が下がったように優美な曲線を描きます。主尊は平板な彫りで、その彫り口は角を立てていますのでくっきりとしています。一方で蛇や羂索などの丸っこい部分も一列に角が立っており、やや簡略的な感じもいたします。お顔の表情は見えづらくなっておりますけれども、合掌と相俟ってか何となく優しそうな印象を受けました。足を広げて立ち、衣紋の下部が非常に角ばった表現になっているところなど、特徴的な表現が多々見受けられます。
 童子はお顔の表情も何もさっぱりわからず、こけし人形のようになっています。風化の所以か、元々簡略的な表現であったのか定かではありません。髪型が非常に珍妙です。主尊と童子の足元は波形の曲線になっていて、これが猿の区画とを分かちます。通常この境界線は直線か、せいぜい段違いになっている程度です。波型になっているのは珍しいと思います。猿はその波形にうまく沿うように収まり、正面向きで見ざる言わざる聞かざるの姿勢をとっています。鶏がだんだん見えづらくなっているのが惜しまれます。

 

○ 新民謡「国見小唄」

 別宮社の唄い込まれている新民謡に「国見小唄」という唄があります。この小唄は昭和30年に、当時の伊美町と熊毛村が合併して国見町(旧)が発足した記念に作られました。当時はよく唄われたそうですが、昭和35年に竹田津町と合併し今の国見町になった頃から下火になったようです。新たに竹田津地区の文句を作って付け足すなどして、再度の普及されればと思います。

新民謡「国見小唄」
〽国見おとめの心も燃えて ほんにそうだよ宵から参る
 九月火祭り 九月火祭り伊美の宮 サーサヨイヨイ 伊美の宮
〽春にゃ逢いましょ菜の花月夜 ほんにそうだよ桜のかげで
 両子おろしに 両子おろしに花が散る サーサヨイヨイ 花が散る
〽沖の船唄 瀬戸からまねく ほんにそうだよ熊毛の港
 一夜仮寝の 一夜仮寝の浮寝鳥 サーサヨイヨイ 浮寝鳥

 

今回は以上です。相変わらず忙しくしておりますので更新の間隔が長くなっています。無理のない程度に続けていこうと思います。

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