大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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臼野の名所めぐり その1(真玉町)

 毎日忙しくて更新の間隔が長く空いてしまいました。今回も過去の写真ばかりです。体は一つしかありませんので、あれもこれもと思いましても思うようにいきません。

 さて、このシリーズでは真玉町は臼野地区(大字臼野)の名所旧跡をとりあげます。当地区にはかつて、泊(とまり)村・臼野村・横内村・山畑村の4ヶ村がありましたが、明治8年に統合されて東真玉村になりました。それが明治22年の町村制施行時に臼野村に改称されており、大字名もこの範囲をもって臼野と称したわけです。ですから単に臼野地区と申しますと、狭義の臼野(明治8年以前の範囲)と広義の臼野(現行の大字臼野)のいずれを指しているのかが分かりにくいと思います。このシリーズでは後者の意味合いで「臼野地区」と表記することにします。

 臼野地区の観光名所としては、夕日で有名になった真玉海岸(臼野海岸)、猪群山の環状列石、粟島神社があげられましょう。この3か所は、黒土の椿堂や無動寺(上真玉地区)などと比肩する、真玉町を代表する名所として昔からよう知られています。ほかにも阿弥陀寺の裏山の巨大な妙見様(石造)、妙見社の環状列石、玉泉寺や辻堂ヶ鼻の石造物群、生目神社など名所旧跡に事欠かず、訪ねるべき場所がたくさんあります。まだ探訪が不十分ですが、これから少しずつシリーズを進めていって、臼野地区のよいところをたくさん紹介していきたいと思います。

 

1 玉泉寺

 玉泉寺は曹洞宗のお寺で、今は無住で地域の方に守られています。境内には仁王像や庚申塔など興味深い石造文化財が残っています。

 道順を申します。国道213号は臼野郵便局のところの角を曲がって、ずっと臼野川に沿うて内陸へと進んでいきます。広域農道との交叉点(信号機なし)も直進してさらに進んで久保部落に入り、横山公民館より手前の三叉路を左折して細い道に入ります。道なりに進めば赤松部落で、右側の高いところに碑銘、左に五輪塔が1基立っているところのすぐ先を右折します(土石流危険の看板が目印です)。

 この細い道の行き止まりが玉泉寺ですが、ご覧のとおり車は上がりません。そうかといって、下の車道も狭くて駐車できそうな余地はありません(離合場所に駐車しないようにしましょう)。空き地はありますが私有地と思われますので、もし車で訪れるときには停められる場所を地域の方に尋ねるとよいでしょう。

 玉泉寺に着きました。お世話が大変になってきているようで、少し草が伸びてきていました。参道の石段のぐらつき等はなく、問題なく通行できます。夏場は避けた方がよいでしょう。石段を上り着いたら左右に仁王様や庚申様などが立っています。

 上がり着いて左側です。個性豊かな仁王さんが図晴らしい!このように石板に半肉彫りになった仁王像としては、旧千灯寺跡のものが著名です。旧千灯寺のものはすこぶるよう整うた写実的なデザインですが、こちらは多分に漫画的な表現と申しますか、デフォルメされた箇所がありまたデザインの方向性が異なります。細かい部分まで丁寧に彫っていますし、非常に親しみやすく分かりやすい、よう考えられた表現です。両足先が完全に外を向いているなど自由奔放で、おもしろい箇所が多々ございます。

 中央は三界万霊塔です。このように矩形の台座に銘を彫って上に仏様の乗った三界万霊塔や一字一石塔は、宇目町など南海部地方の方々に残っておりますが、国東半島でもときどき見かけます。右のお地蔵様はほんに優美な立ち姿で、袂のドレープ感など上手に表現されています。

 右側の木の蔭には阿形の仁王さんが立っています。こちらの方が傷みが進んでおり、中央の断裂箇所が惜しまれます。周りが茂ってきておりお気の毒な感じもしますけれども、却ってこの方が、これ以上の傷みを少しでも防ぐことができるかもしれません。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏

 この庚申様は阿形の仁王さんのすぐ隣に立っているのですが、茂みに隠れかけています。撮影時には枝を掻き分けました。全体的に苔で緑色になっており、何となく不気味な雰囲気が漂います。碑面の荒れが気にかかりますが、今のところ諸像の姿ははっきりと分かります。個性的なデザインがおもしろいので、参拝時には見落とさずに見学していただきたいと思います。

 日輪・月輪の下には、夫々細やかな表現の瑞雲が取り巻き、そのへりと主尊の光輪に沿うて段違いに彫りくぼめて枠を取ってあります。主尊はどんぐり眼に極太の眉毛、大きな鼻、への字口とさても厳めしい表情です。右手で青大将のような大きな蛇を握りしめており、その蛇の表現が北浦辺の方々で見かける庚申様の蛇とはちょっと違いますから、注意深く観察してみてください。左手で持った宝珠は風車のようなデザインです。三叉戟は足元まで届く長さで、杖に見代えの立ち姿でございます。衣紋の細かい部分まで丁寧に表現されていますし、腕の曲がりや頭身比などもそこまで違和感がなく、かっちりとまとまっています。

 童子は小さめで、両腕を前で組んで手先を袖の中に隠し、お人形さんのように行儀よう立っています。猿はめいめいに小さな足場の上に立ち、見ざる言わざる聞かざるの所作です。左右は内向き(横向き)になっています。鶏は横並びで、2羽とも体は左向きですけれども、左の鶏は後ろ(右)の鶏を見返っています。2羽横並びになった鶏の表現にもいろいろあります。向かい合わせになっていたり、体が向き合うていても片方がプイとそっぽを向いていたり、このように体の向きが同じでも片方が見返って顔は向き合うていたりと、夫々自由な発想で表現を工夫しています。いろいろと見比べてみてください。

 堂宇のぐるりには落ち葉や小枝が目立ちましたが、荒れているわけではありません。地域の方により維持されています。

 左の方には原形をとどめないほど傷んだ仏様が確認できました(かやっていたものは可能な範囲で起こしました)。おいたわしいの言葉しかございません。

 このような石仏をあまり目にした覚えがなく、不勉強で像容から尊名を明らかにすることも難しく、詳細が分かりません。三尊形式で、主尊の脇侍を下に並べたのか、或いは下の2体は施主夫妻であろうか等いろいろ考えましたが、どうでしょう。近隣では珍しい形式のものではあるまいかと推量いたします。

 

2 辻堂ヶ鼻の石造物

 玉泉寺から後戻り、下の車道に出る角の少し手前から左に上がった小山(台地)を辻堂ヶ鼻と申しまして、指定文化財の地蔵板碑のほか多種多様な石造文化財が残っています。小道を辿れば簡単に行き着くので、玉泉寺を訪れる際にはセットで見学されるとよいでしょう。

 この碑は銘がまったく読み取れず、詳細が分かりませんでした。上部の形状が珍しく感じます。

大乗妙典回國供養

 お六部さんの塔です。近隣では「廻國(国)」「回國(国)」いずれも見たことがあります。右側の面の銘の一部に「信士」の文字が確認できました。

西國巡礼供養塔

 西国三十三所の供養塔です。西国参りを終えて無事帰ってこられた記念に建立されたものでしょうか。四国八十八所とならんで、西国三十三所も国東半島一円で広く信仰されていました。

謹奉造立小門七郎左衛牟吉
天文十八己酉八月吉日 敬白

 こちらが地蔵板碑銘です。近隣の板碑の中では比較的大型のもので、横幅がありどっしりとした造りにて、額部の張り出しはなく一条線で隔ててあります。碑面を舟形に大きく彫り込み、地蔵菩薩立像を半肉彫りにしてあります。角を立てずに丁寧に彫り込んでおり、非常に優美かつ写実的な表現が素晴らしいではありませんか。蓮台の下も複雑な文様で表現してあり、見事な作です。小さな堂様に護られているとはいえ、保存状態のよさに驚嘆いたしました。

 こちらは小門家の祖先墓として、赤松部落のうち小門一統の方々による祭祀が続いている旨を教えていただきました。その方には、台地上のほかの石造物の存在も教えていただくなど親切にしていただき、感謝しております。

 説明板の内容を記しておきます。

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小門家地蔵板碑

室町期(天文18年)
市指定有形文化財(昭和52年1月12日指定)
豊後高田市教育委員会

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 小道を辿って尾根筋に上がり着いたところの石造物群です。石を重ねた基壇の上及びその横にぎゅっと密集しています。双体像の石造物(2種類)のほかに、板碑(うち1基は額部に卍あり)、何らかの坐像、一石造の五輪塔などが確認できました。はじめからこの場所にあったものもあれば、移されたものもありましょう。

 夫々見比べてみますと、表現の方向性がまるで異なります。どちらも、国東半島内でときどき見かける形式のものです。向かって右は笠を伴い、多分にデフォルメされた像が2体彫ってあります。これは、そのお顔の造形など香々地町は西夷の磨崖像「かたしろ様」にそっくりです。同様の信仰によるのか、或いはこちらは道祖神的なものであってたまたま似たのか定かではありませんけれども、地方色豊かな作です。

 向かって左はずいぶん写実的な表現で、細かい部分、たとえば袖の襲なども丁寧に彫ってあります。少し傷みが進んできてお顔の表情が読み取りにくくなっているのが惜しまれます。道祖神というよりは双仏の類であり、その信仰形態は不勉強ゆえよう分かりません。

 ここから先も、尾根伝いに歩いて行くことができます。ほかにも何かないかなと思い尾根筋を少し歩いてみました。壊れた五輪塔を1基見かけたところで折り返し、車に戻りました。或いは、私が見落としただけでほかにも何かあるのかもしれません。

 

○ 池普請唄「どんぎ唄」

 写真はありませんが、辻堂ヶ鼻から少し道なりに下れば十玉池という大きな溜池があります。昔、この池の土手搗きのときに唄っていた「どんぎ唄」という俚謡を紹介します。節は伊勢音頭の転用で、この種のものが国東半島一円で広く唄われました。

〽やろうえやろうえは コラ部長さんの役目(ハヨイヨイ)
 油売るのは ヤレこちの役
 (ソラヤートコセー ヨイヨナ
  ハレワイセ コレワイセ ササナンデモセー)
〽私この池 コラ監督なれば(ハヨイヨイ)
 一度休みを ヤレ二度にする
 (ソラヤートコセー ヨイヨナ
  ハレワイセ コレワイセ ササナンデモセー)
〽お伊勢参りに コラこの子ができた(ハヨイヨイ)
 名をばつけます ヤレ伊勢松と
 (ソラヤートコセー ヨイヨナ
  ハレワイセ コレワイセ ササナンデモセー)

3 妙見様(環状列石)

 臼野地区には、猪群山の環状列石や立石以外にも古代の信仰の痕跡を留める史蹟があります。それが妙見様の環状列石で、時安部落の裏山にあります。すぐ近くまで車で行けるので簡単に参拝・見学できます。

 説明の都合上、道順が飛びます。国道213号は臼野郵便局のところから香々地方面に行きます。道なりに橋を渡ってすぐ、右に簡易舗装の軽自動車がぎりぎりの道があります。この道には入らずに、次の角を右折します。田んぼの中を行って、交叉点注意の標識のある辻を左折します。三叉路に出たら正面の橋を渡り右にカーブして、1つ目のカーブミラーのある角を左折します。次のカーブミラーを鋭角に左折して簡易舗装の細い道に入ります。道が狭くて不安になるような入口ですが、普通車までなら通れます。道なりに上っていけば右側に妙見社が鎮座しており、環状列石もそのすぐ横にあります。

 妙見様は北斗七星ないし北極星を神格化した天部で、軍神、薬師様の化身、水の神様などいろいろな信仰があります。国東半島の方々に妙見様の石祠や神社があり、山の上に鎮座していることが多いのは、その場所から北斗七星または北極星を遥拝するためかもしれません。こちらの妙見様も山の上で里から少し離れていますけれども、近隣地域の方々により維持されています。

 こちらが環状列石です。近隣では竹田津は鬼籠の環状列石、それから猪群山の環状列石などが知られています。こちらは、鬼籠の環状列石に比べますと一つひとつの石(岩)が大きいので一目でそれと分かりますし、その大きさのためかめいめいの石が元の位置から移動しなかったようで、形状をようとどめています。磐座、立石、列石などといった石の信仰は我が国に残る多種多様な信仰の中でも特に古いものです。国東半島における神仏習合の信仰よりも古い、仏教の伝来以前のものと考えられます。

 中には据わりの悪そうな石もあります。大きな石がひとりでに列石を形成するはずもなく、大昔、古代のどなたかが、何らかの意図をもって環状に並べたわけです。石でこしらえた円の中に神様が降臨されるという意味なのでしょうか?

 列石の中に混じって、元禄年間の銘のある山の神様の祠が鎮座しています。山の神様というものは、単に「山」の神様という限定的な信仰ではなく、地域に存在する様々な神様の根源的な信仰として、山仕事に関わる方以外からも篤く信仰されてきました。

 

○ 新民謡「臼野音頭」

 臼野地区の新民謡「臼野音頭」を紹介します。この唄はしっとりとした小唄調の節で洗練された雰囲気があるのですが、気軽に口ずさむにはちょっと難しいと思います。臼野地区の盆踊りでは、盆口説「レソ」「ヤンソレサ」「杵築踊り」「六調子」を踊り、「臼野音頭」を踊る機会は少ないようです。よい唄なので、運動会や敬老会その他の機会を利用しての伝承が望まれます。

〽ハー 霞ほのぼの雲雀ヶ丘の ヨイヨイ
 咲いた桜に日が昇る(ソレ)
 萌ゆる菜の花もつれる蝶の
 影が絵になる松津川 テモヨイヨイ松津川
〽ハー 夏は透留の権現様の ヨイヨイ
 松に涼しい蝉しぐれ(ソレ)
 波も彩る水地の綾に
 浜は泳ぎに明けてゆく テモヨイヨイ明けてゆく
〽ハー 小雪さらさら猪牟礼暮れりゃ ヨイヨイ
 夢の臼野に灯がともる(ソレ)
 春を待ち待ち夜は夜もすがら
 月に妻恋う鹿の声 テモヨイヨイ鹿の声

 本来はおそらく春夏秋冬の文句で4節構成になっているのではないかと思うのですが、秋の文句を存じておりませんので、ひとまず私の知っている春夏冬の文句を記しました。

 

今回は以上です。盆踊り・俚謡の調査記録に取り掛かる必要があるので、当面、更新の間隔が長く空くことが多くなるかもしれません。気長にお付き合いいただければと思います。次回は伊美地区のシリーズの続きを書きます。