大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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長谷の名所めぐり その1(犬飼町)

 最近大野地方を訪れて、たくさんの名所旧跡・景勝地をまわりました。そのときの写真と、一部過去の写真も使いながら、今回から当分の間、大野地方の記事を書いていきます。犬飼町は長谷(ながたに)地区から始めます。気長にお付き合いくださいませ。

 さて、長谷地区は大字柴北・高津原(こうづはる)・黒松・山内・栗ケ畑(くりがはた)・長畑(ながはた)からなります。地域内を県道632号が貫いていますが、この道は地域外の方の利用度が低いので、長谷地区内を通ったことすらない方も多いと思います。しかし長谷には数多くの石造文化財をはじめとして、神社やお寺、柴北川べりの田園風景、桜や彼岸花、紅葉などの四季折々の風景が素晴らしく、名所旧跡・自然景勝地のオンパレードの感があります。しかも盆口説による供養踊りやお正月の獅子舞、神社のお祭り、愛宕様(小松明)、柱松などといった昔からの年中行事もたくさん残っているそうです。先日、半日程度ですが初めて長谷を訪れて、いっぺんでこの地域が好きになりました。みなさんに探訪をお勧めしたい、たいへんよいところです。西部(山内・栗ヶ畑・長畑)はまだ行ったことがないので、ひとまず柴北・高津原・黒松の名所旧跡のうち探訪済みのところを紹介します。

 なお、この地域は「ながたに振興協議会」を中心に、地域の方々により多種多様な活動が展開されています。同協議会のウェブサイト(外部リンク)には、文化財や地域の民俗に関する情報が多数掲載されています。閲覧をお勧めいたします。

 

1 山ノ田の石造物

 国道10号から「犬飼どんこ大橋」を渡って、国道57号(バイパス)を進み、2つ目のランプを上がって右折すれば、大字下津尾(しもつお)は河内部落です。河内の石造物は犬飼地区のシリーズで後日紹介します。河内部落を道なりに抜けて、十字路に出たら左折して2車線の道を下り、1つ目の十字路を右折してすぐの二股を左にとります(青看板あり「山田」の方向へ)。ずっと道なりに行けば長谷地区は大字高津原に入ります。右側の山林が途切れて田んぼが開けたところに、数軒の民家があります(※)。この小部落の端、右方向への三叉路の角に、冒頭の写真の石造物が並んでいます。左から大日様、庚申様、灯籠、お地蔵様もしくはお弘法様です。この中から、庚申塔と詳しく見てみましょう。
※すぐ近くの「急傾斜崩壊危険箇所」の看板により山ノ田という地名が判明しました。おそらく畑川部落のうちと思われます。

奉拝●供養庚申塔

 正面は平らに仕上げているものの、側面は不整形です。これは傷みが進んでえぐれたというより、元々このような形であったと思われます。碑面が荒れ気味で「拝」の下の文字と紀年銘は読み取れませんでした。下の方にはたくさんの方のお名前が彫ってあります。

 この塔で興味深いのは「奉」のすぐ上の、円の中に彫ってある文字です。拡大写真で見てみましょう。

 これは一体、何でしょうか。どう見ても梵字ではなく、或いは、合字(合成文字)の類ではあるまいかと推量して、現地であれやこれやと思案したもののどうしても確からしい答えに行き当たりませんでした。上下には三角印、左右には「刃」のような字が並んでおり、中央には見たことのない文字が彫ってあります。何かご存じの方はご教示いただきたく存じます。

 それにしても、今まで大分県内のたくさんの庚申塔を見学してきましたが、このよう文字(記号?)は見た覚えがありません。知らない道を通るたびに庚申塔が次から次に見つかることも多く、その度に興味関心が増しております。

 

2 高津原の地蔵堂

 庚申塔を過ぎて道なりに行き、右に1つ目のカーブミラー(※)の立つ三叉路を左折します。道なりに行けば高津原部落に入ります。右・左と道路が鉤の手に折れるあたりから道幅がたいへん狭くなります。左に折れるところの右側に目的の堂様があります。近くに適当な駐車場所がないばかりか、この道は車の通り抜けができず、転回等で地域の方の迷惑になりそうです。※印のカーブミラーよりも少し手前に路側帯が若干広くなっているところがありますから、そこの路肩ぎりぎりに寄せて駐車して歩いて行った方がよいでしょう。距離は知れたものです。

 瓦葺の立派な堂様で、この中に御本尊(お地蔵様)として石幢がお祀りされています。『犬飼町文化財』に、下記の内容が記載されていました。
○ 地域の方は地蔵様と呼んでいる。
○ 昭和60年頃までは、1月24日と8月24日にめいめいがこしらえた料理を持ち寄りお接待を出していた。
○ 火防の神として崇められている。
○ 正月の第3日曜日に大聖寺の和尚にお経をあげてもらう行事が続いている。

 火伏の神と申しますのは、火伏の霊験で有名な愛宕様の本地仏がお地蔵様なので、このような信仰があるのでしょう。昔から各地で「愛宕地蔵」とか「火伏地蔵」と申しまして、神仏習合の信仰が伝わっております。毎月24日がお地蔵様・愛宕様の縁日ですが、その中でも1月24日は初愛宕、8月24日は地蔵盆として特に重視され、昔はおこもり、お接待、地蔵踊りなどのいろいろな行事が方々で行われていました。こちらの堂様で1月24日と8月24日にお接待をしたのも、同じ理由と思われます。正月の第3日曜日のみになったのは、人口の減少や高齢化により年に2回行事をするのが大変になったのと、生活様式の変容により本来の縁日である24日が平日だと都合が悪くなったので、だいたい24日に近い休日として第3日曜日と定めたのでしょう。このように祭祀の様式は変容しておりますけれども、境内は掃除が行き届いており、今なお近隣の方々の信仰が篤いようです。

 まず、坪の石造物を紹介します。右側には五輪塔の部材が寄せられています。一石造のものを除いて完形のものはなく、おそらく近隣にあったものを粗末にならないように集めたのでしょう。左側には大型の一字一石塔が立っています。これを詳しく見てみましょう。

南無阿彌陀佛 ※陀は異体字
浄土三部妙典 一字一石

 こんなに大型の一字一石塔はそうそう見かけません。正面の南無阿弥陀仏の文字はさても堂々たる彫り口で、力強い筆致です。文化財に指定されていないので対外的には知られていませんが、一字一石塔としては町内でも指折りの作例と考えられます。

 堂内は梁がむき出しで、古い形式の建築です。長い歴史が感じられました。その奥詰め、観音開きの格子戸の中に石幢がお祀りされています。施錠されておらず、戸を開けて参拝できるようになっています。

 これは素晴らしい。2mほどの高さのある大型の石幢で、経年の風化摩滅は認められますけれども保存状態もまずまず良好です。説明板はありませんが、『犬飼町文化財』により以下の内容が分かりました。
○ 天文18年(1549年)3月の造立
○ 龕部は四角形で、各面を2区分して六地蔵と閻魔が彫られている
○ 軸部の銘文によれば、明妙と満優という2人が仏様の功徳を願うとともに、この地域が現在及び未来にわたって安楽の地であることを祈って造立したものである。
○ 安政元年(1854年)冬の地震で塔が破損し、地域の善男善女が発願して安政2年の春に再建し供養したということも刻まれている

 見学して軸部の石材の質感が違うことに気付き、この部分のみ特に状態がよいことに違和感を覚えました。おそらく説明にあった安政元年の地震で壊れて再建した際、中台から上は元の部材を組み直すだけでよかったものの、軸部は再利用できずに別石で新たにこしらえてすげ替えたのではないでしょうか。単に矩形でこしらえるのではなく角々を面取りして、中台とよう馴染むようになっています。閻魔様は裏面のようで、目視できませんでした。笠に載せてあるのは百万遍の数珠のようです。昔、堂内で百万遍の数珠繰りをしたのでしょう。

 

3 高津原公民館そばの大乗妙典供養塔

 地蔵堂から元来た道を後戻って、突き当りの三叉路を左折します。すぐ次の角をまた左折して道なりに行くと、右側にゴミ捨て場があり、そのすぐ先には公民館があります。その中間に供養塔が立っています。

 このように道路から少し高いところにポツンと立っており、よう目立ちます。とても心に残った風景です。車はゴミ捨て場のところの空き地に置いて、正面の段々を上がればすぐ側に寄って参拝・見学できます。

大乗妙典供養塔 ※養は異体字
天保九戊戌八月廿一日
當村 行者 市三郎

 銘の状態がすこぶる良好で、容易に読み取れました。お地蔵さんのお顔が見えづらくなっているのが惜しまれます。道路端にあって、通りがかりに手を合わせる方もおいでいなることでしょう。

 

4 藤ノ木の石幢と庚申塔

 前項の大乗妙典供養塔のすぐ手前に、「藤ノ木石幢」の標識が立っています(反対を向いて立っています)。その標識の角を右折して里道を行きます。この道は軽自動車ならどうにか通行できそうですが入口が特に狭いので、無理は禁物です。ゴミ捨て場のところに車を置いたまま、歩いて行くとよいでしょう。そう遠くありません。

 この二股が迷いやすいところです。右に下らずに、直進します。しばらくくねくねと進むと上り坂になります。行き止まりが墓地になっていて、その入口付近に石幢と宝篋印塔が立っています。人里から少し離れていますが、この二股以外は一本道なので簡単です。

 この石幢は2mほどの高さがあります。その形状がたいへん特徴的で、笠は大きな饅頭型の円形、龕部も円形ですが、中台は矩形です。そして軸部は、中台との接合部は矩形ですが、すぐ下から面取りして大部分は八角になっているではありませんか。その切替のところに三角形のマチをとって、違和感なく切り替えています。このような造りの石幢はよそで見た覚えがなく、たいへん興味深く感じました。後家合わせでこうなっているのではなく、元々の造りです。笠の縁を少し打ち欠いているほかは状態良好で、特徴的な形状やお地蔵さんの彫りがよう残っています。

 龕部には六地蔵様、閻魔様、お不動様が彫ってあります。石幢の龕部にお不動様を彫ってあるのは珍しい事例です。この写真をご覧になると、軸部が矩形から八角に切り替わるところの三角形のマチが分かりよいと思います。

 『犬飼町文化財』により以下の内容が分かりました。
○ 大正の中頃、道路拡張工事の際に道路脇にあったものを移した。
○ 笠の裏に「応永十二年乙酉二月十八日」の紀年銘と、結衆の人々の名前及び逆修の文字が墨書されている。
○ 基礎は円形の自然石の中央部をくりぬき、竿を差し込んでいる。

 宝篋印塔は、相輪の破損以外は良好な状態を保っています。特に隅飾の上のところは段々ではなく、所謂「宇目型」のように斜面になっています。格狭間や反花の形がよいし全体的に丁寧な造りで、秀作であると感じました。こちらは文化財に指定されていませんが、石幢と同時に見学されることをお勧めします。

 

5 高津原の石造物(南)

 ゴミ捨て場のところまで戻って、車で先へと進みます。公民館を過ぎて道なりに行きますと次第に人家がまばらになってきます。高津原部落の南端、大字柴北との境界あたりの道路端に五輪塔と石祠がお祀りされています。すぐ分かります。左側の路肩が広いので車を停められます。小さい地名が分からなかったので、ひとまず項目名に「南」と付記しました。

 このように簡易的な建屋をこしらえて、立派にお祀りされています。五輪塔から順に見てみましょう。

 由来は分かりませんけれども、対になっていることから夫婦墓の類ではあるまいかと推量いたしました。どっしりとした造りで、特に右の塔は火輪の厚さが目立ちます。水輪はやや潰れた形状になっています。

南無大日如來
馬頭觀世音菩薩

 この地域における信仰形態は分かりませんけれども、国東半島などでは大日様は牛の神様としても信仰されていました。馬頭観音様と大日様をあわせてお祀りすることで、牛馬の守護を願うたものではあるまいかと考えます。その右側にはお不動様の小さな像も安置されています。

 

6 下墓原の愛宕

 前項の五輪塔を過ぎると道が狭くなります。普通車までなら問題なく通れますが離合ができません。道なりに行き、墓地よりも手前の左側に石幢が立っているのが車窓から見えます。ゆっくり運転すれば見落とすことはないと思います。適当な駐車場所がありません。交通量がごく少ない道ですが、迷惑にならないように歩いて来た方がよいでしょう。『犬飼町誌』によれば付近の墓地を下墓原(しもはから)と通称しているそうです。

 この石幢は2.5mほどの高さがあります。笠が饅頭型の円形、ほかは矩形です。中台と軸部の接合部がやや傷んで、上が若干傾いていますが、それ以外はほぼ完璧な状態であり、驚嘆いたしました。先ほど掲載した藤ノ木の石幢と比較していただくと、こちらの状態のよさが分かりよいと思います。

 『犬飼町文化財』によれば、地域の方には愛宕様と呼ばれており、特に1月24日と8月24日には人々が集まってお参りしているそうです。その理由は、高津原の地蔵堂の項で説明したとおりです。繰り返しませんので、当該項目を参照してください。

 見れば見るほど形のよい笠です。内刳りの仕方が丁寧で、ぐるりに彫った垂木もようわかりますし、饅頭型の膨らみもよい塩梅であると感じます。また、宝珠の火焔も細やかな彫りで丁寧に表現してあり、石幢の宝珠としては指折りの仕上がりではないでしょうか。

 龕部は矩形で、1面あて2体の像が彫ってあります。六地蔵様とお観音様2体で、お観音様は蓮華座を伴う坐像です。お地蔵様はめいめいの姿をきちんと区別して表現してあり、その持ち物や所作が一見してすぐ分かるように丁寧に彫ってあることに感心しました。永禄4年の造立で、460年以上も前のものです。

 石幢のぐるりには仏様が数体寄せられています。堂様の跡地なのかもしれません。

 こちらは、ひとつ上の写真の像よりも簡略的な表現です。しかしながら朗らかなる笑まいが心に残りました。

 

今回は以上です。次回も長谷地区の記事を書きます。とても小さい庚申様や大型の宝篋印塔など、興味深い石造物がたくさん出て来ます。

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