久しぶりに伊美の名所シリーズの続きを書きます。今回紹介する地点のほとんどが大字櫛来(くしく)にあたりますが、探訪の道順の都合で大字伊美の一部を含みます。櫛来の谷は庚申塔のほか宝篋印塔の秀作が多く、石造物を尋ねるだけでも楽しいものを、灌漑に関する史蹟・文化財、磨崖像、城址など、尋ねるべき名所旧跡が数多うございます。一度に紹介できませんので、数回に分けたいと思います。
11 堀掛水道
道の駅くにみから国道213号を通って櫛来の谷まで行き、くにみ農産加工の先を右折します。しばらく川に沿うて道なりに行けば、右側に「西浜石造物」の小さな標柱が立っています。一旦通り過ぎて、右側の路肩が広くなっているところに邪魔にならないように駐車します。後戻って、標柱の立っている角を左折しますと、道端に掘掛水道の説明板が立っています。
説明板の内容を転記します。
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堀掛水道
明治37年の東中後野溜池新築により伊美後野溜池での貯水不足が生じたため櫛来須川地区からの水路建設が発議された。当初は櫛来側より強固に反対されたが、発議から40年経って未曽有の旱害が続いたため、昭和12年村当局とも諮り櫛来側と交渉の末承認を得て堀掛水道が着工された。
同15年には伊美後野溜池貯水量増の効果があったものの同16年10月の大暴風のため一部が決壊した。修繕工事許可申請をしたが進捗せず現在に至っている。枝平より吉丸までの水路延長603間(1,085m)、隧道80間(144m)を昭和13年11月起工、同14年2月に竣工。総工費は3,609円87銭だった。
(伊美郷土誌より要約)
2020年3月
NPO法人国東半島くにみ粋群
令和元年度世界農業遺産ブランド推進事業
(地域活力支援事業)
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このシリーズの初回、本城の水口の項で伊美の旱害と後野池の件を掲載しています。今一度読み返していただくと、経緯がより分かり易いと思います。また、後ほど後野池自体も紹介します。伊美・櫛来に限らず、昔はどこの地域でも田植の季節からしばらくは水の確保に往生していました。旱害を懼れてそれぞれが一所懸命になっていましたから、往々にして地域間の軋轢も生じやすい状況であったのです。今はそのような心配がほとんどなくなっていますけれども、各地に溜池や水路隧道等の史蹟、または田越しの灌漑の工夫など、往時を偲ぶよすがになるものがたくさん残っています。そういったものを見学したり昔のエピソードを聞いたりするたびに昔の方の苦労が思われて、感謝の念が湧いてまいります。
12 西浜の石造物
堀掛水道の説明板から「西浜石造物」の標識に従って歩き、西浜部落の民家の背戸を上がります。
背戸を上がったら、標識の通りに左折します。これを奥に行けば後ほど紹介する吉丸組のお稲荷様(庚申塔)に至りますが、それは別ルートで紹介します。ひとまず「伝 INRI祭壇石」の方に行きます。
ほどなく目的の石造物に着きます。距離は知れたものですが、標識がなければ辿り着くのはちょっと難しそうな場所です。先に説明板の内容を転記しておきます。
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西浜石造物(伝 INRI祭壇石)
諸説ありますが、龕(岩などに宗教儀礼仏などを収めるために彫られたくぼみのこと)の下に魚のような模様が刻まれています。魚はギリシャ語で「イクティス」(Ichthys=イエス・キリスト、神の子、救世主)と呼ばれ、キリスト教徒が隠れシンボルとして用いていたようです。昔からこの地区の子供たちには「この石に上がって遊んだら罰が当たる」という禁忌儀礼が受け継がれています。
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この石造物や次に紹介する磨崖像などは、学術調査の結果「キリシタンとの関連性は認められない」との結論が出たと数年前に大きく報じられました。この件については、その「伝承」あるいは「説」の発端、調査の動機、その過程、報道のあり方など、いろいろと思うことがあります。それについてはいちいち申しませんが、一般論として、地域の方の信仰の対象である(あった)場合その点に特に留意すべきですし、観光PRにしろ調査にしろ、地域の方々を置いてけぼりにするようなことがあってはならないと思います。地域に根差した文化財を検討する際、考古学的な視点だけではなく民俗学的な視点も重要であると存じます。特に「伝承」の実態・出どころの検討や対象物に対する地域の認識等の調査は、世代が変わるにつれ困難になってきます。その意味で、地域の方(特にお年寄り)の話を記録しておくことの価値がいよいよ増大していると言えましょう。説明板に「昔からこの地区の子供たちには『この石に上がって遊んだら罰が当たる』という禁忌儀礼が受け継がれています」とあるのは、たいへん意義深いことです。
「この石に上がって遊んだら罰が当たる」と言われてきたのであれば、何らかの信仰を伴うものであったはずです。この点を念頭に置いて見学したいものです。
13 請の磨崖像
西浜の石造物から車に戻って、須川方面へと進みます。右側の家並みが途切れて、畑の横に「石造物(伝 修道士像)」の標識が立っています。一旦通り過ぎて、路肩が広くなっているところに駐車して後戻り、標識のところから小道を辿ります。
ここから上がります。標識のおかげで容易に探訪できます。道なりにお墓の方に上っていけば、大岩に磨崖像が彫られているところに出ます。
岩の上の方に磨崖像が確認できます。容易に上に回り込むことができますので、近寄って見学されることをお勧めします。「伝 修道士像」とありますが、地域内における詠み人知らず的な言い伝えとして長年伝わってきたのか(本義的な伝承)、或いはその像容をもってどなたかがそのような説を唱えたのが始まりであるのか(説あるいは創造された伝承)、さてどちらなのでしょうか。
岩の2面に亙って2つの浅い龕をなし、めいめいに対の磨崖像が彫られています。一見して、夷谷の「かたしろ様」に似ているような気がしました。真相は分かりませんけれども、これだけ浅い堀りであるとはいえ、2つの龕をなして4体もの磨崖像を彫るのは並大抵のことではありません。よほどの信心によるものであると存じます。それがこともなげに畑の横の大岩に彫られているのですから、びっくり仰天ではありませんか。一般に知られていないだけで、このような史蹟・文化財が国東半島内にまだまだたくさん眠っているような気がいたします。
近くで、庚申塔のような石を見つけました。明らかに人為的に立てられたものと思われます。銘がなく正体不明です。
大岩の上には五輪様の残欠らしき石造物も見られます。この場所がいったいどのような信仰の場であったのかが気になります。
14 請の宝篋印塔
磨崖像のところからお墓の方に進んで、谷筋に沿うて少し下ると右の方に立派な宝篋印塔が立っています。特に目印はありませんが距離は知れたものなので、すぐ分かると思います。
足元が悪いので、地面が湿っているときはやめておいた方がよいでしょう。適当に通り易いところを探して、向こう側の斜面を上がります。
近づくにつれ、思いの外立派な宝篋印塔であることが分かりましていよいよ期待が増してまいりました。このような場所にポツンと宝篋印塔が立っているのは、いったいどうしたことでしょう。
格狭間が一部傷んでいるほかは、ほとんど完璧な状態を保っています。麓から直接上がってくる参道がありそうですが、探訪時には笹薮に阻まれてこの場所から直接下ることは困難でした。藪に埋もれているわけでないのがこれ幸いでございます。
15 塞ヶ鼻の宝篋印塔
宝篋印塔を見学したら車に戻ります。城山の裾に沿うて行園方面に行く道を進みますと、道路端に立派な宝篋印塔が立っています。遠くからでも、田んぼの向こうの山すそにかすかに見えます。
国東市ホームページ「櫛来地区の文化財」によれば、総高346cmもあります。この一体では特に大型のものであり、その威容は見事なものでございます。格狭間の上が普通なら段々をこしらえて塔身まで徐々にすぼまっていくところが、矩形の蓮華坐になっているのが大きな特徴です。そのふっくらとした花弁と笠の隅飾りがよう合うて、なんとも優美な風情を醸し出しているのです。何から何まで行き届いた造形であり、しかも保存状態は頗る良好、僅かの瑕疵もありません。塔身には「大乗経」と大きく彫られています。明和6年、今から250年以上前の造立です。
さて、今度は櫛来のシシ垣や吉丸組の庚申を昔の山越道に沿うて紹介します。もし時間がたっぷりあれば、大字伊美のうち本城や東中と大字櫛来の名所旧跡を組み合わせた周回コースを設定することもできます。ここでは短縮ルートとして、後野池からスタートすることにします。
16 後野池
道の駅くにみまで戻り、国見海洋センターの横の道を上ります。道路沿いなのですぐ分かります。後野池まで普通車でも通行できますが途中から離合困難になりますし、近くに適当な駐車場所がありません。そう遠くないので国見グラウンドか道の駅に車を置いて、歩いて行くとよいでしょう。
説明板の内容を転記します。
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東中後野溜池
国東半島は、両子山を中心に放射状にたくさんの山の尾根が海に向かってのびています。河川の長さは短く、気候は瀬戸内気候で雨量が少ないこともあり、人々は水の少ない土地で昔から農業用水の確保に困っていました。そこで江戸時代から農家の人々は力を合わせて溜池づくりを始めたのです。
現在、国見町には大きい池だけでも52か所もあり、小さい池や使われなくなった池をあわせると100か所をこす数にもなります。これらの池すべてが、わたしたちの祖先の苦労によってつくられ、維持されてきたのです。
伊美地区は、農業用水の不足のためたびたび旱害におそわれて困っていました。特に明治5年~6年(1872~1873)は、収穫がまったくない状態にまでなり、人々は飢餓に苦しみました。そこで、東中地区の鹿嶋高一さんは、戸倉伝蔵さん、桐畑源蔵さんの2人に相談をして、溜池づくりの計画を立てました。
明治11年(1878)5月に工事が始まり、なんと26年もの歳月をかけて同37年(1904)3月に完成しました。以来、12町3単5畝歩の農地水田が潤されてきました。その後も台風におそわれましたが、1952年と1990年の2度の補修工事を行っただけで、今でもたくさんの水田が潤されています。
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この記事の冒頭「堀掛水道」の項も参照してください。
かなりの大きさの池です。土木技術の幼稚な時代にこれだけの規模の池をつくるのは、並大抵の苦労ではなかったでしょう。26年間もかかったのは、費用の問題もあったのかもしれません。
別の説明板には改修の経緯が記されています。その部分を転記します。
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1949(昭和24)年からの度重なる台風の襲来により、堤体が激しく損傷したことから、田中洗美らの発案により、災害復旧時代として1954(昭和29)年に修復がなされました。
1990(平成2)年に再び漏水が起こり堤体の崩壊が懸念されたことから、県営事業として改修が行われ、1992(平成4)年に工事が完了し現在の姿となります。
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明治37年に溜池が完成したときの紀念碑です。びっしりと記された漢文を読みますと、その感激や誇らしさが伝わってまいります。読み下し文の掲載は省略しますが、簡単に読み取れる内容なのでもし現地を訪ねる際には碑銘にも目を通してみてください。
17 櫛来のシシ垣
後野池の堤を渡って棚田跡と思われる平場を横ぎり、突き当たったら右に折れて坂道を登ります。道がやや荒れ気味ですが、問題なく通れます(夏場はやめておいた方がよいでしょう)。登り詰めますと、土塁状の構造物が目に入ります。近くの説明板を読んで、これが話に聞いていたシシ垣であるということが分かりました。
説明板の内容を転記します。
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櫛来の鹿垣(シシ垣)
古来、櫛来村の村民は櫛来社(若倉八幡社)を深く尊崇しその眷属としての鹿を大事にした。「鹿の肉と知って食すれば即死、知らずに食すれば百日の患い」との言い伝えがあり、鹿の肉を食べることに厳しい禁忌があり、もちろん鹿を殺すことも禁じられていた。
かつて、この鹿が田畑を荒らし被害が大きく、村民一同困惑していた。時の庄屋小串要助は、この村民の困苦を救おうとして、櫛来村の村境に鹿垣を築くことを計画し、村民の同意を得て実施した。
土手の上部の幅約1m、下部の幅2m、高さ約1.3mとし、土手の外側を掘ってその土を盛土とする。これによって土手の外側に幅約2m、深さ約1mの外堀を作り、さらに土手の上には先端を尖らした竹で柵を作り、鹿の侵入を防ごうとしたものであった。寛政10年(1798年)に着工し、5年の歳月をかけ共和2年(1802年)に完成した。工事は山奥の方から進め、海岸部末端に鹿の逃げ道を開けておいて、村内男子400人を動員し200人ずつの二手に分かれ、東山と西山を奥地の方から鬨の声をあげて海岸の方へと鹿を負い、村外に追い出し、逃げ道をふさいで工事が完了した。以後、鹿の害はなくなったという。
完成当時の姿がないが、今もこの鹿垣のあとは残り、櫛来地区を囲繞して12kmに及んでいる。
NPO法人国東半島くにみ粋群
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鹿の肉の禁忌は今も続いているそうです。
盛土が流れて、今では浅い土塁の様相を呈しています。説明板がなければ、それと気付かないような地形です。
土手の切れ間から向こう側に抜けて、左方向に下っていきます。
道筋は明瞭で、蛇行しながらどんどん下っています。危ないところは特にありません。今や歩く人も少ないと思われますが、道としての体裁が想像以上によう残っていました。
18 不動岩屋
シシ垣から吉丸組のお稲荷様に下る途中を左に上がれば、不動岩屋があります。道端に標識があるのですぐ分かります。
このように分岐からほど近いところなので、少し寄り道をしてお参りをされるとよいでしょう。
岩屋の入口にぴったり嵌め込むように壁をこしらえて、堂様の様相を呈しています。戸はサッシで、そう遠くない昔に改修されたものと思われます。施錠されていますので、ガラス越しにお参りをいたしましょう。岩屋の中の高い位置に数体の仏様が安置されていました。
19 吉丸組の庚申塔
不動岩屋から分岐まで戻って、麓へと下っていきます。右に大きくカーブするところから道幅が広がり、その辺りから一面が墓地になっています。その、道幅が広がる手前の右カーブのところから直進気味に分岐する細道を下ります。
この道を辿ります。入口が荒れ気味ですがすぐ分かると思います。
しばらく下り、写真の五輪塔の立っているところから左に折れて進めば庚申塔などの石造物が見えてきます。なお、まっすぐ下れば冒頭に掲載した「西浜の石造物」のあたりに出ますので、逆ルートを辿ってもよいでしょう。
お稲荷さんに着きました。狭い用地にお手水、お稲荷さんの石祠、庚申塔などが並んでいます。
お手水はずいぶん変わった形をしています。近隣地域で、様々な意匠を凝らしたお手水をよう見かけます。ですからこちらのお手水も、不整形のものというよりは、何らかのデザインをなしていたものが傷んでこうなったのではなかろうかと推察いたします。
総高160cm以上にもなる比較的大型の塔で、寄棟の笠の重厚感たるや見事なものです。棟木や垂木をきちんと表現しているほか、破風の二重垂木、懸魚など何から何まで行き届いています。主尊は、腕の形や表情を見ますと以前紹介しました国東町は向鍛冶の庚申塔によう似ています。御髪と瑞雲が一体化して、まるで南蛮踊りの被り物のようにも見えてまいりましてさても陽気な雰囲気が感じられるではありませんか。上の腕をWの形に曲げているのもおもしろく、何とも愛嬌のあるお姿でございます。弓などの持ち物も細い線までよう残ります。その足元を見ますと、タラップか何かの昇降機の上に立っているように見えてきました。
童子はお地蔵さんのようなお顔立ちで、袖に隠した両手を前で打ち合わせて行儀よう立っています。ガニ股でしゃがみ込んだ猿は「見ざる言わざる聞かざる」で、左右は横向き、中は正面向きになっています。背中を丸めて向かい合う猿のかわいらしいではありませんか。鶏も、ほんにささやかな表現ではありますけれど仲良う向かい合うて、猿・鶏夫々が家族円満を象徴しているかのような微笑ましさがございます。
享保7年、今から300年前の造立です。とても300年前のものとは思えない素晴らしい保存状態に感嘆いたしました。
今回は以上です。次回も伊美の名所めぐりの続きを書く予定です。