大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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香々地の名所めぐり その1(香々地町)

 このシリーズでは香々地地区(旧岬村)の名所旧跡を紹介していきます。時間をかけて飛び飛びに連載していく予定です。

 さて、当地区は大字香々地および大字見目からなります。この地域の名所と申しますと、何はともあれ長崎鼻です。海蝕洞の発達した地形のおもしろさ、その風光明媚な景観に昔から遊覧者が多かったものを、ここ最近は一面のひまわりやコスモスが名を馳せてますます遊覧者が増加しております。ほかに尾崎の景勝も有名で、岬村の呼称は蓋し長崎鼻・宮岬・尾崎によるものでしょう。また、中山や叶渕(かねぶち)の観音堂、別宮八幡、日切地蔵など昔から近隣在郷の信仰を集める堂様や神社が数々ございますほか、石造文化財も豊富です。

 長崎鼻は後回しにして、今回は昔から信仰を集めてきた名所を数か所掲載します。なお、以前誤って上香々地のシリーズの中に早田(わさだ)の天神様と国東塔を掲載しましたが、確認したところ早田部落は大字香々地のうちですので、この記事の末尾に当該項目を載せなおすことにします。

 

1 中山の観音堂

 香々地中学校の正門を基点に説明します。正門前から香々地公民館方面に行って最初の交叉点を左折します。道なりに行って片山トンネルを潜り、小さな橋の手前で右折して川べりの道を行きます。しばらく行くと舗装が右に折れて急な坂になりますので、道なりに上っていきます。普通車でも問題なく通行できます。上りつめたところが中山の観音堂です(冒頭の写真)。こちらはお観音様の霊験あらたかなるとて昔から有名で、しかも周囲には多種多様な石造文化財が並び、春は桜が見事です。邪魔にならないように車を停めて、お参り・見学しましょう。

 厨子をこしらえてお弘法様などがお祀りされています。一見して、中の仏様はそう古くないような気がしました。お花もあがっています。

 上り口の横の石垣にそれ用の区画を設けて六地蔵さんを安置し、さらに長い石でお屋根もかけてあります。

 仏様に毛糸で編んだ帽子をかぶせて、おちょうちょをかけてある。お花があがっている。何でもない風景のようですが、わたしはこのような光景が大好きです。

 説明板の内容を転記します。

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町指定史跡 中山観音堂

 真玉香々地観音霊場第三十一番の札所です。境内に次のような石造物があります。

国東塔
 堂の南にあります。各部揃っていますが風蝕されています。総高3.17m、室町末か江戸初期の作と推定されます。堂の裏の自然石上にもう1基あります。

両面板碑
 表も裏も板碑となっている珍しいものです。室町末期か江戸初期の作と推定されます。

庚申塔
 1面6臂青面金剛、2童子、3猿、2鶏が刻まれています。付近に庚申石6体があります。町内には80基ほどの庚申塔があります。図柄はいろいろで文字だけ彫った文字庚申塔もあります。明暦年間に造られたものが最も古いようです。

その他、地蔵像、五輪塔などの石造物があります。

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 お地蔵様は長年の雨風で風化摩滅が進み、おいたわしいお姿で物言わでじっと立っています。首が破損したのを補修した痕跡があります。昔から地域の皆さんを見守ってこられたお地蔵様です。今は境内で遊ぶ子供を見かけませんが、「見てござる」の歌を思い出しました。

解脱塔

 このような銘をもつ塔をはじめて見ました。おそらく慰霊を目的としたものでありましょうが、詳細不明です。三界萬霊塔と同種のものでしょうか、それとも戦没者供養など、特定の対象者の慰霊を目的としたものでしょうか。 

 手前の五輪塔は一石造です。下部が茶壺状にすぼまっているという風変わりな形状です。右奥の岩の上には、先ほどの説明板にも記載のあった国東塔が立っています。相輪以上を失っているのが惜しまれます。全体的に簡略化された造りながら、その立地も相俟ってなかなか格好がようございます。

 こちらがもう1基の国東塔です。岩の上の国東塔よりは状態がよく、大きさといい各部の形状といい、より優れた作品であるように感じました。しかも桜の下の小高いところにて、立地も素晴らしい。

 塔身の風化摩滅が進み、大きく欠けてきているのが惜しまれます。この部分と請花の風化以外はまずまず良好で、格狭間や火焔などはよう残っています。以前、宇目町は重岡のシリーズの中で「宇目型宝篋印塔」を数基紹介しました。あれは相輪が膨らんでいるのが特徴でした。こちらも、宇目型宝篋印塔ほどではありませんけれども相輪が若干ふっくらしているので、全体的にどっしりとした印象を覚えます。

 青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏

 碑面に対して主尊が小さめで余白が広く、しかも夫々の彫りがごく浅いのでほんにささやかな感じのする庚申様です。主尊の左手で掲げた宝珠に、赤い彩色が僅かに残ります。上部には波型の瑞雲が残っていますが、日輪・月輪の確認は困難を極めました。

 主尊は三角帽子を被って、お顔は風化摩滅が進んで分かりにくくなっています。お口を小さく結び、目と鼻が顔の中央にギュッと寄っているように見えてさても珍妙なお顔立ちぞと思うたものの、これも風化の所以かもしれません。右手で宝珠、左手で三叉戟をとっておりますのは、一般に北浦辺の庚申塔で見かける持ち方とは逆になっていて興味深く感じました。合掌した腕の下から横に伸ばした手で弓と矢をそれぞれ持っておりますのもおもしろく、それぞれ直線的な表現にてこの部分の対称性が維持されています。また、異常なる短足になっておりますのもまたさても珍妙なことではありませんか。

 童子は両腕を前にやって、手先を袖に隠して行儀よう立っています。ところが片方は今や消え入らんとする傷み様で、残念に思いました。猿と鶏はその下に横一列に並んでいます。猿はガニ股で見ざる言わざる聞かざる、鶏は両側から猿を監視しています。レリーフ状のごく浅い彫りですが、実物を見ればよう分かります。

 明治6年の銘がありました。境内の石造物の中では比較的新しい部類と思われます。首が太く、腰まえのよいお地蔵様です。

 観音堂にあがる車道の途中、大きな桜の枝にぶらんこをさげてありました。麓を見晴らす好展望の地です。お花見をするのもよいと思います。

 

2 叶渕の観音堂

 中山の観音堂から下り、片山トンネルを抜けてずっと道なりに行きます。香々地中学校を過ぎて、県道に出たら右折して橋を渡り、すぐ左折します。川べりの道を行けば叶渕部落で、そのかかりの右側に小さなお稲荷さんが鎮座しています。ここから参道を辿ればすぐ観音堂に着きますが、車は上がりません。下の道路も狭いので、どこか離れたところに停めて歩いてくるよりほかなさそうです。

 このように平坦な道で、石段も少しだけなので簡単にお参りできます。こちらはお観音様の霊験あらたかなるはもとより、境内にはたくさんの石造文化財が並んでいます。特に国東塔は見事なものですから見学をお勧めいたします。

 堂様は老朽化が進んできているように見受けられました。しかし近隣の方によるお世話が行き届いており、こざっぱりとしています。どなたでも自由にお参りできます。祭壇にはお観音様が立派にお祀りされており、千羽鶴や折り紙のくすだまなどをたくさんさげて華やかに飾り付けてありました。火の用心を忘れずに、お参りをいたしましょう。

 左側の崖下に低い石垣をついてたくさんの五輪塔がずらりと並んでいます。それらは破損したものや後家合わせと思われるものもありますので、昔はもっと数が多かったと思います。

 一段上には供養塔や仏様、国東塔が並びます。やや心もとない石垣の上にて、転落が懸念されるような状況です。この国東塔は笠がやや小さすぎるような気もしますけれども、細部まで傷みが少ないし、塔身の形がすこぶるようございます。大形で重厚感に富んだ優秀作と言えましょう。しかも一段高いところに立っているので、実物以上に立派に見えます。

 こちらは非常に角ばった像が特徴的です。双体道祖神でしょうか。失礼ながら可愛らしい雰囲気が感じられて、心に残りました。

 一段高いところの平場の隅には一石五輪塔がぽつんと立ち、その付近に壊れた五輪塔の部材が寄せてあります。想像していた以上にたくさんの石造文化財を見学することができました。ところが、叶渕の観音堂にあるはずの庚申塔は見つけられませんでした。壊れてしまったのか他所に移されたのか、とても気になっています。

 

3 西浜のお伊勢様

 車で国道323号を三浦方面に進み、香々地トンネル手前を鋭角に右折します。1つ目の角を左折して道なりに上っていき、大きく左カーブするところから右に入れば車で近くまで行くことができます。

 鳥居の扁額には「太神宮」とあります。ここでいう太神宮とは、お伊勢さんと同義と考えられます。

 お手水はごつごつとしたおもしろい形状です。でも、この溜まり水で手を清める気にはなれませんでした。

 拝殿はあまり見かけない造りで、ぐるりが雨戸を閉めたようになっています。西浜部落から登ってきた旧参道(車不可)に向いて建っているので、車道入口からだと横向きになっています。

 石祠の並びにはお恵比須さんもお祀りされています。国見町ほどではありませんが香々地町でも、何か所かでお恵比須さんを見かけました。こちらもそのひとつです。

 

4 高辻の道祖神

 お伊勢さんから車道に返って先へと進み、牛迫隧道(香々地ドンネル旧道)の真上あたりまで来ますと道路左側に道祖神(賽ノ神)が立っています。

 道祖神、賽ノ神として男根型の石を祀ることは広く行われました。近隣では臼野泊(真玉町)のそれが知られています。こちらも一見してその類型と思われますが、上部が異様に大きくしかもでこぼこで、下部は角柱状になっています。おそらく竿が破損してすげ替えたものでしょう。「道祖神」の字体が、そう古い時代のものではなさそうに見えました。

 すぐ近くには大岩の上に石造物をお祀りしてあります。おそらくこちらも道祖神と思われます。大岩に石段を設けて、しかも対の灯籠まで立ててありますのも、その信仰の篤さを物語ります。昔、牛迫隧道がほげる前はこの近くに古い山越道が通っていたそうです。

 

○ 香々地のものすり唄

 ものすりと申しますのは、小麦、お米などを臼で碾くときに唄った作業唄です。石臼を1人で回すのみならず、昔は土臼や木臼を2人以上で回すこともありました。後者の作業は夜なべ小屋にて娘連中が臼を回していると、若者がよだって加勢に来るのを常として、それで縁付いた事例も多々あったそうです。眠気覚ましに唄が出ます。いろいろな節のものすり唄が国東半島一円で唄われた中で、香々地地区の節は国東半島の北浦辺で広く唄われた部類です。

〽鯛はナ 周防灘 港は香々地 海も情けも深いとこ
 情けも海も 情けも深いとこ
〽深いナ 情けに命をかけて しけりゃ漕ぎ出す助け船
 漕ぎ出すしけりゃ 漕ぎ出す助け船
〽助けナ 上げられ抱き締められて 寝たがその子の名は知らぬ
 その子の寝たが その子の名は知らぬ
〽浜のナ 娘は藻に咲く花よ 波の間に間に夫婦岩
 間に間に波の 間に間に夫婦岩
〽香々地ゃナ よいとこ海山近い 娘器量よし仕事好き
 器量よし娘 器量よし仕事好き
〽見目のナ 長崎香々地の尾崎 仲を取り持つ宮の山
 取り持つ仲を 取り持つ宮の山

 

5 早田の天神様

 県道653号を進み、早田(わさだ)部落を左に見て佐古神社よりも手前、左側にジュースの自動販売機のある角を鋭角に左折します。1つ目の角を右折した先を鋭角に右折して、コンクリ舗装の細道を進みます。ここから行き止まりの天神様まで一本道ですけれども、軽自動車でもギリギリの幅(普通車はまず通れません)で脱輪が懸念されますうえに、奥に入ると転回に難渋します。探訪時、この道に車で入ってどうにか天神様の前まで行けましたが、転回で大変な思いをしました。佐古神社辺りの邪魔にならないところに車を置いて歩くことを強くお勧めいたします。

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 境内は狭いものの春先には梅が咲いて、ほんに気持ちのよい場所です。古いお社はきちんと手入れがなされているように見えました。この裏手にはいろいろな石造物が寄せられています。

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 まさか石造物が集められているとは思うておりませんでしたので、浮足立って見学いたしました。

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 なんとも素朴な造形の道祖神で、叶渕の観音堂で見かけたものとそっくりです。でも、この2基は同じような造りに見えて、よう見ますとそれぞれ腕の曲げ方などが微妙に異なります。道路端にあったものを、拡幅工事か何かでこちらに移動したのでしょう。

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 稲荷大明神の横には五輪塔がいくつか並んでいました。

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 左側には五輪塔や宝塔、宝篋印塔か何かの相輪部分のみが安置されています。塔身はどこに行ってしまったのでしょうか。残欠であっても粗末にすることなく、このようにきちんとお祀りしてあるのは立派なことです。

 

6 殿屋敷の国東塔

 早田の天神様の境内の一段下の平場を左方向に進みますと、正面に防風林があります。その辺りから道なき道を少し下ると、大型の国東塔が見えてきます。こちらの国東塔は3年前に県の文化財に指定されました。指定名は「早田国東塔」です。豊後高田市のホームページにて詳しく説明されています。早田にはこのほかにも国東塔があるかもしれないので、項目名は小さい地名をとって「殿屋敷の国東塔」としました。

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 残念ながら塔の周囲がたいへん荒れており、藪に埋もれがちです。3年前にはきちんと手入れをしたものと思いますが、場所が場所ですのですぐに藪が茂ってしまうのでしょう。奥に写っている大型の国東塔が、県指定になっています。

 こちらは、豊後高田市のホームページによれば、ばらばらに壊れた部材が付近の畑の土中に埋っていたものを、昭和55年に復元したものとのことです。塔身は暦応2年の銘があり、旧西国東郡の在銘国東塔の中では古い部類であるそうです。ホームページの写真を見て、いつか実物を拝見したやと願うておりました。今回やっと行き着いて、その大きさに圧倒されました。2.6mほどの大型の塔であるうえに、蓮華座の表現がよそではちょっと見られない珍しい造りになっています。この部分の優美なることこの上なく、どっしりとした塔身の形状によう合うていて素晴らしいではありませんか。

 手前に写っている小さい方の国東塔も、茶壺型の塔身とその下のささやかな蓮華座がよう合うてなかなかのものです。けれども上部の欠損・傷みが惜しまれますし、すぐ横にものすごく立派な国東塔が立っているものですから、どうしても霞んでしまいます。この付近には壊れた五輪塔もたくさんありました。

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 板碑も1基見つけました。これほどの石造物の造立には、よほどの分限者が関っていると推察されます。殿屋敷という字名も、さもありなんといったところです。

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 県指定の国東塔を捜してうろうろと彷徨い、向こう側の舗装路に出てしまいました。これは違うと引き返そうとしたとき、路傍にささやかな祭壇を設けて、小型の板碑と五輪塔などが安置されているのを見つけました。いったいこの付近にはどれほどの石造物が残っているのでしょうか。見落としたものも含めますと、かなりの数になるのではと予想しております。

 

今回は以上です。最近、休みのたびに天気が悪くてなかなか名所めぐりができず、過去の写真による更新が続いています。写真のストックはたくさんありますので特に困ることはありませんが、やっぱり、最近行ったばかりのところを記事にするほうが、そのとき気付いたことや感じたこと、考えたことなどスムーズに文章化できるので簡単です。過去の写真ばかりだと書くのに時間がかかってしまいます。

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