今回は、来浦地区のうち大字長野と大字岩戸寺の名所を少し掲載します。行き方が難しいところが多く、探訪当日も山中を右往左往しましたが、どうにか行き着くことができました。その経緯も含めて、詳しく書いてみます。ただし、寺迫のお弘法様や石塔群は、下山時に支尾根に踏み込んで道に迷う可能性がありますので、探訪はお勧めできません。この2か所については大まかな場所説明にとどめて、詳しい道案内は控えます。
19 猿坊の観音堂
県道544号の平原バス停から下り方向に数えて、左側3つ目の枝道に入ります。車は、この枝道を過ぎた左側の路肩が広くなっているので、普通車までならぎりぎりに寄せて停めれば邪魔にはならないと思います。枝道を上がれば正面に民家がありますので、道なりに右に折れると二人並んで歩けないほどの狭い道になります。先が不安になるような場所ですが、少し歩けば左側に観音堂があります。民家の裏手にあたるので、県道からは見えません。
背戸道から観音堂の坪への入口に、このようにロングトレイルの標柱が立っています。でも県道沿いには、今のところ案内板や標識の類が全くありません。
堂様の坪は環境整備が行き届いており、その一角に写真のような石造文化財が寄せられています。この中から数基を紹介します。
観音堂の坪にはいろいろな石造文化財が残っています。中でも目をひくのがこの宝篋印塔です。状態はわりあい良好で、特に傷んでいることが多い相輪も尖端までよう残っています。段々を細かくこしらえて、細部までよう行き届いているように感じました。ただし基礎の一段目は後家合わせと申しますか、明らかに違う石塔の部材です。この塔は、元は別の場所にあった可能性があります。
こちらは四方仏の類で、石殿と見るべきか異形の石幢と見るべきか分かりませんでしたが、国東半島ではこのようなお塔をときどき見かけます。経年の傷みはありますけれども、四面に浮き彫りになった仏様の姿ははっきりと分かります。
奉巡禮三十三所供養塔
8名
西国三十三所の巡礼供養塔です。こちらは観音堂の坪ですから、三十三観音の供養塔が立っているのも頷けます。紀年銘の読み取りを忘れてしまいましたが、基礎の正面には8名のお名前が彫ってあり、委細は省きますが夫々の読み取りも可能な状態です。なかなか手の込んだ枠取りや、蓮の花の赤い彩色もよう残っています。
写真はありませんが、参拝時には堂様の中にお祀りされているお観音様をよく見ていただきたいと思います。それはもう優美なお姿で、細部まで非常に行き届いた表現が素晴らしく、しかも彩色もよう残っています。優しそうなお顔を拝見して、心がほっといたしました。
20 猿坊の金毘羅山の石造物(イ)
観音堂の裏山を金毘羅山と申しまして、庚申塔が2基あります。観音堂からの道が分からず、ヤマ勘で堂様の裏から適当に上っていきますと奇跡的に辿り着けたのですが、これは本来の参道ではないことが下山時に分かりました。金毘羅様への行き方は次項に回して、この項では上りの道中で見つけた五輪塔を紹介します。庚申塔や金毘羅様は距離が離れているので、別項扱いとします。
観音堂のあたりから右奥に歩を進めますと、山裾に沿うて奥へと荒れた山道が続いていました。その道沿いで、数基の五輪塔を見つけました。写真に写っている塔は原形をとどめていますが、壊れたものもありました。かつてはそれなりの数の塔が道沿いあるいは山の斜面などに散在していたものと思われます。
さて、当日は地域の方が屋外に見当たらなかったので金毘羅様への行き方を尋ねることができず、この道を辿ってどうにか金毘羅様まで登れまいかと先に進んでみましたが、どうも方向が違います。しかも道が荒れて、袋小路の様相を呈していました。それで左方向に折り返しまして、二足歩行では登れないほどの急坂を強引に攀じていき、右往左往してどうにか下の庚申様(次項参照)に行き当たりました。このルートはとてもお勧めできませんので、もし庚申様や金毘羅様の参拝・見学をしたい場合は次項を参照してください。
21 猿坊の金毘羅山の石造物(ロ)
探訪時は道がわからず上記のとおり急斜面を上っていったのですが、庚申様のところから道なりに下ってみて正しいルートが分かりました。観音堂から元来た道を後戻って、県道に出たら右折します。すぐ先、水槽の角を右折して、次の角を左折、すぐさま右折します。簡易舗装の道を山手に進みます。
水路を目印に右折して、上の写真の道を左側に水路を見ながら進んで山に入ります。道なりに行って、左側に段々畑の跡を見ながら谷筋に沿うて上っていきます。しばらく直線的に上り、道なりに右に折り返すように尾根筋に上がれば、下の庚申塔のところに出ます。
このように、尾根上ですけれども段差の大きいところの陰に立っていますので、安定がよいようです。おそらく正面の樹木が茂る以前は、ここから麓を見晴らしていたのではないでしょうか。わたしはこの庚申様を一目見学したやと数年来思うておりましたものですから、実物を目にして感激のあまり小躍りの首尾でございました。枯葉がかかっていたので、可能な範囲で取り除きました。
青面金剛6臂、2童子、2猿
この塔はそう大きくはないものの、彫りが立体感に富んでおり、手の込んだ立派な造りです。しかも状態が良好で、細かいところまでよう分かります。上から順に見ていきますと、まず笠の重厚感が見事で、急勾配の屋根に優美な唐破風がよう合うています。碑面の枠取りの仕方にも注目してください、上部を三角形に彫りくぼめて、その縁のところを二重にこしらえて庇を表現しています。これはなかなか珍しい手法であると感じました。そして左右のへりは枠を取っていませんので、その分碑面いっぱいに諸像を配すことができ、立体感がより際立っています。この手法は、レリーフ状に彫りくぼめるよりも技術的には難しいと思うのですが、少しの瑕疵もない見事な彫りに感激いたしました。
主尊は不気味な顔立ちで、よう見ますと胆が冷えてまいります。腕を自由奔放に曲げて指や宝珠、三叉戟などを体の左右にめいっぱい配しておりますし、立ち方を見てもなんとなく堂々としていて、威厳が感じられるではありませんか。足元は踏み台のようになっていて、その台も高級そうな見た目になっています。童子は振袖さんで、左右で所作が異なります。主尊よりは薄肉に彫っており、お顔の表情など見ましてもささやかで、奥ゆかしい雰囲気がございます。
そしてこの塔で最もおもしろいのは、主尊の立つ踏み台の下部です。ちょうど鳥居のような格好になっており、それに猿が抱き着いておる様のなんとかわいらしくて愛嬌のあることでしょう!しかも顔が正面向きでも真横向きでもなく、自然に斜めを向いています。デザインとして優れていると思います。
基壇には清兵衛さんをはじめ、6名のお名前が確認できます。元文4年の造立です。
下の庚申塔のところから道なりに斜面を攀じていき、尾根筋上の小ピークに出ますと上の庚申塔をはじめ金毘羅様といった石造物が並んでいる一角があります。下の庚申様までたどり着けたら、こちらはすぐ分かると思います。
これは素晴らしい。下の庚申様とはまた違ったデザインで、非常に個性的です。一見して、主尊の表現が以前紹介した向鍛冶の庚申塔に似ているように感じました。地域色がよう出た作例として、貴重なものであると存じます。
笠の形が下の庚申様とは全く異なり、軒口のなだらかな曲線がほんに優美です。塔身の上4分の1くらいは大きく彫り残して、その部分の下端ぎりぎりに日輪・月輪と瑞雲を彫ってあります。これがちょうどへりのカーブになっていますので、段差を違和感なく処理できています。上の方は主尊の御髪と装飾的な文様とが混然一体となっており、この点も優れていると思います。
主尊のお顔の表情は、風化摩滅の影響もあるかとは思いますが優しそうで、親しみ易うございます。腕の形は珍妙を極めまして、上の腕は肩のラインからの連続でwの筆記体のような格好で外向きに曲げ、下の腕はそのカーブの下から出てお腹のところで合掌しています。かなり強引な表現方法ではあるものの、型にはまらない奇抜なアイデアが素晴らしいではありませんか。衣紋の裾もゆったりとしたドレープ感を上手に表して、足を若干右(向って左)に寄せるようにして立っておりますのもまた主尊の奥ゆかしい雰囲気を際立たせております。
童子は振袖さんで、めいめいに合掌しています。お顔はなかなか厳めしそうな雰囲気で、主尊とは対照的です。その間には邪鬼を顔だけで表現してあり、大きな口や鼻、どんぐり眼が多分に漫画的な表現でありますのも面白うございます。その下端から山型に枠を取って、猿が耳をふさいで「聞かざる」なのでしょうがこれが万歳をしているように見えてまいりますのは、左右に彫ってある鶏と猿とが仲良しの友達のような、ほのぼのとした表現で彫ってあるためでありましょう。
この場所には、金毘羅様の拝殿はおろか石祠すらなく、写真のような碑銘が立っているのみです。おそらく、この碑自体を信仰の対象としたわけではなくて、ここから讃岐の金毘羅大権現を遥拝したのではないでしょうか。今は木が茂っていますが、昔は海が見えていたのでしょう。そうであれば方角的にもだいたい合致しています。
ここから尾根伝いに踏み跡があったのでずいぶん先まで行ってみましたが、この先には石造物は見当たりませんでした。
22 寺迫のお弘法様
山口池の辺りから山に上がり、国東塔を探して右往左往しましたが、結局目的の塔には見つけられませんでした。しかし弘法様に行き当たりましたので、ここに紹介します。説明が難しいのと、冒頭にて記したとおり道迷いを誘発する可能性がありますので、道順は省きます。
このように、山の中にポツンと堂様が立っています。人里からそう遠くはないものの、ちょっと一筋縄ではいかないような場所です。探訪時はこの裏の尾根筋から斜面を下りてきました。正規の参道は正面側にあると思いますが、一見してどこが道やら分からないような状況です。
郷司多賀平
寺迫中
灯籠の銘から、こちらの祭祀は寺迫組であることが分かりました。
灯籠の寄進は大正14年です。現状では、立地もあってか信仰が薄れているのではないかと思いますが、かつてはお参りも多かったことでしょう。手前に倒れている部材には「矢野君太」(野は異体字)と彫ってあります。
堂様の向こう側には大岩があって、その下の方に龕をこしらえてお弘法様を収めてあります。その龕はただ彫るだけではなく、縁を装飾的に処理するなど手の込んだ手法をとっています。周囲には壊れた灯籠の部材が寄せられてありました。
23 寺迫山中の石塔群
お弘法様から目と鼻の先のところ、塚状になった尾根上にたくさんの石塔が残っています。そのほとんどが五輪塔ですが、宝塔の部材らしきものも確認できました。
このように滅茶苦茶に壊れてしまい、部材が乱雑に集積されている状態です。おそらく埋もれたり斜面を転げ落ちたりしているものもあると思います。本来の組み合わせで数え上げたとしても、10基や20基を下らない数があるでしょう。
この場所は古い墓地なのでしょうか。山の中に取り残されたような石塔群です。見学して、長い年月の経過や、世情の移り変わりを感じました。山中に残る壊れた石塔もまた、国東半島を象徴する光景です。
今回は以上です。次回は大分市の名所を紹介します。立派な石幢がたくさん出てきますので、楽しみにお待ちください。