今回は市園の観音堂から始めます。前回、都合で道順が前後しました。「27落合の石造物」の続きになります。
29 市園の観音堂
落合の石造物を過ぎて最初の角を右折し、橋を渡ってすぐまた右折します。道なりに行けば道路左側に観音堂があります。坪の石造物が道路端に見えますから、すぐ分かります。車は路肩に寄せれば1台はとめられます。こちらの堂様はお観音様の霊験あらたかなるばかりか、その坪に興味深い石造物がたくさん寄せられています。
数段の石段を上がってすぐ、左側の崖下にたくさんの文字塔が立っています。そのほとんどが植物に覆われて碑面の確認が難しくなっており、傷みも進んでいました。写真右端の塔は比較的良好な状態を保っており、銘は「奉供養庚申塔」です。
左に写っている破損した庚申塔は「奉供」まで読み取れました。蓋し「奉供養庚申塔」でしょう。その隣に立つ大型の碑は銘が全く読み取れず、詳細不明です。この地に並ぶ文字庚申塔とは大きさが違いすぎるので、庚申塔ではないと思います。
その並びにも石仏や庚申塔(刻像塔)が並んでいます。背の高い台座に乗る仏様は、宇目町内で盛んに見かける三界万霊塔かと思いますが、銘は読み取れませんでしたので定かではありません。右の3基が庚申塔です。庚申塔は1基ずつ詳しく説明します。
青面金剛6臂、3猿、2鶏、邪鬼、ショケラ
この庚申様は個性的な表現がおもしろいのですが、地衣類の侵蝕により細部が分かりにくくなっています。上から順に見ていきましょう。まず日輪・月輪は赤い彩色が残り、月輪は三日月型になっています。瑞雲に縞模様の彩色を施していますので、雷雲のようなおどろおどろしさが感じられました。主尊の光輪を彩色で表現している事例は他地域では何度か見かけたことがありますが、宇目町では珍しいと思います。大きな鼻と耳、目を吊り上げて口をへの字に結び、二重顎のいかめしい風貌でございまして、外に広げた腕はやや短すぎの感もありますけれども、お顔の風貌によう合うています。指の握りを正確に表現してあります。異様に短い三叉戟が風変りです。ショケラは横向きで合掌し、丸顔のさてもかわいらしい姿です。
邪鬼は正面向きで、目と「あっかんべえ」の下がうっすらと確認できる程度にまで風化してしまっています。主尊の足元の左右に彫ってある鶏も、もともとの彫りの浅さに加えて風化が進み、見えづらくなっているのが惜しまれます。猿は下部に3匹斜めに並び、左右は横向き、中央が正面向きでめいめいに見ざる言わざる聞かざるの手になっています。脚の表現などみんな違えていておもしろく感じました。
青面金剛(腕の数は不明)、3猿、2鶏、(邪鬼とショケラは不明)
中央の庚申様は中央で斜めに断裂し、風化摩滅と地衣類の侵蝕も著しく、諸像の確認は困難を極めました。猿は三角形をなして並び、中央の猿の左右に鶏が彫ってあるように見えたのですが確証を得ません。それにしてもこの壊れ方は、意図的なもののような気がいたします。明治初期に、道路端のたくさんの石祠や石仏、庚申塔などが壊されたことがありました。その際に意図的に壊された可能性があります。左右の庚申様が壊れていないのにどうして中央の庚申様だけが…と思われるかもしれませんが、それは、元々はこの3基が別の場所にあったためでしょう。道路工事その他で、市園部落内の各地に散在していた庚申様を後の時代に堂様の境内に寄せたと思われます。そのとき、壊れてしまった塔をも粗末にすることなくきちんとお祀りしたのは立派なことだと思いますし、刻像塔を3基並べる際に破損したものを中央に据えた点に、地域の方の素朴な信仰心が感じられます。
青面金剛6臂、3猿、2鶏、邪鬼、ショケラ
こちらも個性的な表現方法がなされていますが、やはり地衣類の侵蝕が著しく細部が見えづらくなってきているのが惜しまれます。上から見ていきます。日輪・月輪および瑞雲は、その存在は分かりますけれども形は見えづらくなっています。主尊の御髪にちょうど苔がついて、まるで黄緑色の帽子を被っているように見えます。お顔の表情は全く分からず、風化摩滅というよりは、鼻を意図的に削り取られているようにも見えます。先述した明治初期の一件が関係しているのかもしれません。腕の収まりがよくその曲げ方や太さなども写実的ですけれども、指の形はややデフォルメされています。もっとも指の件は風化摩滅の所以である可能性もあり、もともとは写実的な表現であったのかもしれません。よう見ますと全部の腕に腕輪をつけてあり、丁寧に彩色を施しています。腰から下は衣紋の裳裾が優美に広がり、左右でくるりとカーブしてお引き摺りの体です。その裳裾に乗っているかのように彫られた鶏がさても愛らしいではありませんか。
邪鬼は顔だけです。こちらは邪鬼の前面が猿と同じ面に出ていますので、あまり主尊に踏まれている感じがしません。猿は、よう見ますとたいへんおもしろい配置になっています。邪鬼を正面に見て、向かって左側に2匹の猿が向き合うて、互いに腰を曲げてお辞儀をするような格好で彫ってあります。その一方で、右側では1匹の猿が寂しく外を向いているではありませんか。猿同士の付き合いの裏側が垣間見えるような、さても辛気らしい3猿でございます。もっともこれは、そんな意図ではなくて邪鬼を低く配置した所以でありましょうが、いろいろと空想するのもまた楽しいことです。
庚申様もある意味では道祖神ですし、陽石をもって賽ノ神としている事例も県内でまま見かけます。または双体の半肉彫りの碑も、特に国東半島には多うございます。けれどもこのように、文字で「道祖神」と彫った事例は珍しいのではないでしょうか。
道祖神の碑は文化財に指定されています。説明板の内容を転記します。
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市園道祖神
町指定有形文化財
昭和53年8月18日指定
大字重岡字市園
市園区所有
凝灰岩でできた総高108cmの道祖神で、中央に道祖神と陰刻されている。この場所にある道祖神、庚申塔など20数基の中のひとつにすぎないが、その形も整っておりこの種の塔としては本町屈指の道祖神である。本町における道祖神としては「青面金剛」「庚申塔」「猿田彦命」など数多くあるが、字で道祖の神を表現しているものはこの塔の外にない。
道祖神とか庚申塔などはもともと道の神であり、田の神、山の神であり、ひいては路辺において鬼神邪鬼を追い払う神に端を発する「幸いの神」であった。この道祖神も市園の田園地帯の方を向いて立っている。これが中世に著しく性神と習合されて、さいの神、賽の神とかになり、道祖神の名は性的神の代名詞のごとき感を呈するに至った。
さいの神は、古事記の中に出てくる伊邪那岐尊が黄泉国で悪鬼に追われ逃げるとき、巨石で防いだ古事に習い、巨石、すなわち道返しの大神とされ、路々に坐して悪霊を防ぐ威力を有する神であったと言われる。
また一方、岐神は伊鼎諾命の御子で、根の国からきた曲者を防いだ神として街々に立ち諸々の禍災を退け旅人を守護したと、それぞれ伝えられてきた由来から「賽神」「幸神」「障神」「さいの神」「岐神」となったのだと言われている。
また古事記によると、巨石をもって信仰の対象とされたことに基づいて巨石を崇拝する思想が生まれ、そして石でもって人類繁栄のシンボルである男根や女陰を形づくり、これらを崇拝の対象としてきた。
また一説では、天孫降臨のとき、その道案内をした猿田彦命が「賽の神」であるとも伝えられ、猿は申に通ずるというので路傍の庚申にされ、悪疫や凶事を村の入口で防ぎ去らせるとも信じられていた。
一方中国では、遠く三国時代の昔、老子の教えである道教が広く普及して、旅人を守る神、道を守る神としても崇拝され、その教えが平安時代に輸入され、我が国仏教の密教思想と合流し庶民信仰となった。さらに時代が下がると、性病の神、良縁の神、和合妊娠の神、出産の神、幼児守護の神などに変化して信仰されるようになった。
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石幢は傷みが進み、中台から上がひどく傾いています。8面の龕部には細やかな彫りでお地蔵様などが彫ってありますが、風化摩滅が進みつつあるようで残念に思いました。笠から上は後家合わせであるような気がします。
堂様は立派に改修され、仏様が丁重にお祀りされています。ありがたくお参りをいたしました。
30 酒利上の一字一石塔
道順が飛びます。このシリーズのその3で書いた「12柿木の庚申塔」の前を通って酒利方面に行きます。崇圓寺前を左折して橋を渡った先に一字一石塔が立っています。
大乗妙典一字一石塔
立派な塔で、特に「大乗」の字体が力強くてよいと思います。上に乗った仏様は頭部が失われています。
31 登尾の石造物
県道39号を小野市方面に行きます。坂瀬地蔵は適当な写真がないのでまたの機会とします。宇目町商工会館の手前を左折して、河尻部落に入ります。ほどなく三叉路の右側、斜面の上に庚申塔が並んでいますが、これも写真がないので飛ばします。左に田圃を見ながら右なりに行きます。
ちょうど稲刈りの後で、田んぼにはたくさんのニオが並んでいました。こづみとか稲積(としゃく)とも申しますが、最近はあまり見かけなくなりましたので懐かしく感じました。目印が分かりにくいのですが、左の田んぼが一旦途切れて右カーブするところがあります。その手前、右側の民家の坪の入口横から斜面を上がる踏み分け道を辿れば、たくさんの庚申塔などの石造物が並んでいます。以前は下の道路からよう見えていたものを、鬱蒼としてきて見えづらくなっているので気を付けないと行き過ぎてしまいます。車はカーブの辺りの路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかありません。
台風の影響もあるのでしょう、この荒れ様に気が塞ぎました。枝などのごみをのければずいぶんよくなるとは思います。けれども日暮れが近くて、掃除をする時間がありませんでした。
碑面のふちどりがくっきりと残り、ほとんど瑕疵がありません。「奉修」の文言は、ほかでも見たことはありますけれども少数派でありましょう。
すらりと背が高くて、見事な彫りの仏様です。台座の蓮弁のふっくらとした表現も又よいと思います。優しそうなお顔に救われます。それだけに周囲の荒れ様が残念に思われました。さてもおいたわしいことです。
大乗妙典一字一石塔
ずいぶんなで肩の、個性的な像容の坐像が乗った一字一石塔です。衣紋の風変わりな表現が独特ですし、台座の文様もまた変わっています。三重の花弁を表現したかったのかもしれません。たいへん手の込んだ造りが素晴らしいと思います。塔の部分と上の仏様とで石材の色味が違うことから後家合わせのような気がします。据わりがよろしくなさそうで、転落が懸念されました。
庚申
残念ながら下部は埋もれてしまっていました。でも倒れたり折れたりしているわけではないのが救いです。枝や土をのければ元の姿が蘇ることでしょう。
こちらの立像は碑面の荒れが進んでいます。蓋しお地蔵様でありましょう。
明治四年
大日如来供養塔
このようなお塔ははじめて見ました。まことほんとに、宇目町には興味深い石造物がたくさんあります。
さて、この場所には2基の刻像庚申塔が立っており、町指定の文化財になっています。残念ながら説明板が倒伏しており、わたし1人ではどうしても起こすことができず説明内容を読み取ることができませんでした。塔の実物を1基ずつ、詳しく見てみましょう。
青面金剛6臂、3猿、2鶏、邪鬼
漫画風にデフォルメされた表現がたいへんおもしろい庚申様でございます。上から見ていきましょう。
まず日輪・月輪は薄れてきていますけれども、よう見ますと月輪は曲線を入れて三日月になっていることが分かります。瑞雲は対称性を崩した表現がよいと思います。主尊のお顔は、眉と鼻が繋がってY字をなし、口はアヒル口、目はどんぐり眼で、おそらく怖い顔つきを狙うてのことでしょうけれども、全く怖そうに見えません。腕の太さ・長さはまちまちで失礼ながら稚拙な表現です。けれども全体的に感じられる珍妙な雰囲気によう合うて、親しみやすうございます。三叉戟をこれ見よがしに掲げてあるのもよいし、右手に持った2本の矢をXの字にしてあるのも風変りで楽しいではありませんか。体前に回した左腕で持っているのは羂索でしょうか、蛇でしょうか。また、こちらの主尊はずいぶん胴長短足の体型で、振袖さんの裳裾がくるりと跳ね上がっています。
足元で四つん這いになった邪鬼のよう肥った体型、特に尻は稀に見る肉付きのよさですし、さても憎らしげな顔もまた珍妙を極めます。下部には鶏2匹が両端上の隅に、猿はその下に3引き横並びです。めいめいにちょっとずつ脚の動きが異なるのも楽しく、全体的に創意工夫に満ち満ちた秀作と言えましょう。
青面金剛6臂、3猿、2鶏、邪鬼
一見してすぐ気付きましたのが、隣の庚申様とほぼ同じデザインであるという点です。もちろん細部は少しずつ異なりますけれども、蓋し同一作者によるものでしょう。
日輪・月輪はこちらの方がよう分かります。瑞雲の形が隣の塔と異なる点に注目してください。主尊のお顔はずいぶん不気味な雰囲気です。はっとしたことには、首から上をすげ替えてあるではありませんか。頭部のぐるりをご覧いただくと分かると思います。何らかの事情で(おそらく明治初期に路傍の石造物が多数壊された一件で)お顔が傷み、それを惜しんで後年、当該箇所をすげ替えたものと思われます。その補修方法が失礼ながら稚拙であるために違和感のある造形になってしまいましたけれども、このような事例は稀であると存じます。地域の方の素朴な信仰心が感じられます。
ほかにも、衣紋の裾のこれ見よがしなドレープ感、猿のおもしろおかしいポーズなどたくさんの見所があります。お隣の塔とほぼ似通っていますので詳細は省きます。
今回は以上です。重岡地区は写真がなくなったので当分の間お休みとします。次回はお隣の小野市地区か、または八坂地区(杵築市)の記事を挿むかで迷うております。