大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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香々地の名所めぐり その2(香々地町)

 久しぶりに香々地地区のシリーズの続きを投稿します。今回は大字見目の名所旧跡の中から数か所紹介します。

 

7 長崎鼻

 長崎鼻こそは香々地町を代表する観光地であり、夷谷と比肩する自然景勝地です。標識が充実していますし道路も改良されて久しく、行きやすいので道案内は省きます。

 さて、一昔前までは長崎鼻と申しますと夏にキャンプや海水浴に行くところというイメージがあったように思うのですが、今は夏季のみならで四季を通してたくさんの方が訪れています。春は菜の花、夏はひまわり、秋はコスモスが一面に咲きます。冬はちょっと地味ですけれども、雲一つない冬の日の青空と海のコントラストがまたよく、私は冬の長崎鼻も好きです。

 

(1)菜の花畑

 四季折々のよさがある中で、特に好きなのは春の長崎鼻です。だんだん暖かくなってきて菜の花が咲き乱れる時季は、ただでさえ嬉しいものです。それはもう広範囲に亙って菜の花が咲いておりますので、いちめんの菜の花に埋もれるようなところもあれば、冒頭の写真のように海と岬の地形と菜の花畑とが混然一体となった景色を楽しめる場所もあります。ぜひ晴天の日に訪れて、めいめいに好みの場所をさがしてみてください。

 

(2)龍神

 長崎鼻の突端近く、灯台のすぐそばに龍神様の祠がお祀りされています。

 龍神宮とは、龍神様をお祀りした神社です。龍神様は龍宮に住む神様で、水の神様や海の神様としての信仰が篤く、県内各地に神社ないし祠が鎮座しています。特に農村では水の神様として、貴船様と同様に雨乞いと結びついた事例もあったようです。長崎鼻の場合は、その立地から、海の神様としての信仰であると考えられます。昔、漁業で生計を立てる方によりお祀りされたのではないでしょうか。今も、漁業関係者や海水浴客の安全を願うて、祭祀が続いているようです。

 

○ 民話「波止の魔物」

 現地に立っている看板から引用して、民話をひとつ紹介します。

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 香々地町の見目の堀切と高嶋との間に、波止という小さな浦があります。住むにはよさそうな場所ですが、昔から誰も住もうとはしません。それは、波止には魔物が棲んでおり、人を眠らせないという言い伝えがあったからです。
 ところが、世の中にはへそまがりがいるもので、「そんなことはあるはずがない。ひとつ、おれが住んでやろう」と、一人の男がさっそくそこに家を建を建て始めました。
 晩春の頃、小さな家ができあがり、男は不安と好奇心を感じながら床に入りました。真夜中になって、何ものとも知れず怪しげな声で「ここに寝てはいかん、ここに寝てはいかん」と聞こえてきました。目を覚ますと体が熱っぽく、部屋の中が燃えるようです。
 男が、そっと節穴から外を覗いてみると、大きく長い蛇が家をぐるぐる巻きにしていました。男は布団の中で朝まで震え、夜明けとともに逃げ出しました。しかしその後は、魔物も出なくなったそうです。

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 文中にある「大きく長い蛇」は、龍に相通じるところがあるように思います。民話の中では、この大蛇は「魔物」すなわち忌避すべき対象として描かれていますが、龍神宮にお祀りされている龍神様、海の神様と本来は何か関係があったのではあるまいかと感じました。口承の場合、長い年月における伝承の過程でその内容が故意に、或いは意図せずに改変されている事象が往々にして見受けられますし、畏敬・畏怖と忌避は紙一重と申しますか、両者は全く正反対というわけではありません。

 もちろんこれは、私の推量にすぎませんで、根拠も何もないということを申し添えておきます。でも、こんなふうに民話の背景をいろいろ考えてみるのも楽しいことです。

 

(3)海蝕洞門

 長崎鼻を訪れる際、キャンプや海水浴、お花畑などを楽しんでおしまいにするのは勿体ないことです。「鼻」とは岬に限らず山の中でも見られる地名であり、尾根筋が長く突き出たようなところを指します。長崎鼻の場合は「長崎」と申しますとおり、近隣在郷の「鼻」の中でも特に長く突き出ており、その突端周辺は断崖で、数多くの海蝕洞が発達しています。舟に乗らないと見学が難しいところもありますが、そのうちのいくつかは遊歩道を通って簡単に見学できます。近隣で申しますと高島の馬ノ背とならんで、自然の不思議を体感できる場所ですから、皆さんに見学をお勧めいたします。

 この場所など、陸続きですが横から見ますと下は大きな洞門になっています。これも海蝕洞の一種で、まったくものすごい地形に胆が冷えます。この辺りを舞台にした民話の看板がありましたので、その内容を記しておきます。

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○ 民話「大蛸にやられた漁師」

 昔むかし、長崎鼻の突端の太郎岩の下の海中に大きな穴があったそうです。ある日、一人の漁師が、その穴の中から大きな大きな大蛸の足が出ているのを見つけました。漁師はそっと舟を近づけてみましたが、動く気配がありません。一匹のまま捕まえるのは無理だと思い、包丁で素早く一本の足を切り取り、逃げるように大急ぎで舟を漕いで帰りました。
 次の日、恐る恐る同じ場所に行ってみると、やっぱり大蛸の足が見えたので、そっと近寄りまた一本切り取って急いで帰りました。次の日も次の日も同じようにして、七日目までにそっと近寄っては七本足を切り取りました。
 八日目、「今日は八本目、これまで蛸は少しも暴れなかった。それに足は一本しかない。恐れることはない」と油断して包丁を振り上げたその途端、大蛸の一本の大足が躍り上がり、あっという間に漁師を海中に引っ張り込んだそうです。

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(4)行者洞穴

 長崎鼻に数ある海蝕洞の中でも特に知られたものに、行者洞穴があります。遊歩道から階段(参道・後述)が整備されており、簡単に近寄ることができます。初めて行かれた方は、ものすごい地形に圧倒されると思います。長崎鼻に遊ぶ際には必ず立ち寄るべき場所です。

 ふつう、陸から海蝕洞に下る場合、その海側のへりから道がついていると想像されると思います。ところが、こちらの階段は、岬のへりの崖についているわけではありません。海蝕洞から流れ込んだ海水の作用によるものか、陸地が海水面と同程度のレベルまで落ち込んでいるところがあります。その窪地に下っていく階段ですから、入口に立ったときには立地を以外に思います。そして窪地に下りつくと、あっと驚く光景が広がっているのです。

 写真がよくないので、いつか引きの写真を撮影する機会があればまた紹介します。要は、海蝕洞の入口(海側)ではなく、奥詰めの方から近寄っていくことになるのです。

 参道の行き止まりには崖にめり込むように小さな堂宇が建っており、役行者、お不動様、蔵王権現様がお祀りされています。いつ頃からこの場所でお祀りされているのかは分かりませんでしたが、地域の方の信仰が篤いそうです。このお社の両側が海蝕洞になっており、夫々から海水が流れ込んできています!近接した2つの海蝕洞の中間が岩柱のようになっており、海から見たときにその裏側にあたる場所にお祀りされているのです。このような特異なる地形ですから、参道(遊歩道)が整備される以前は参拝に難渋されたことでしょう。昔の方が修行を兼ねて、或いは何らかの霊験を求めて、このように険なる場所にお祀りしたと思われます。

 波が高いときなど、ものすごい勢いで洞内に潮が流れ込んでは返すを繰り返します。鳴瀬おどろに玉藻砕けて花と散り、大迫力の岩壁と相俟ってそれはもう凄まじく、この洞門が黄泉の口に見代えの恐ろしさでございますから、そんなときは遥拝にとどめておきましょう。

 

8 堀切の庚申塔と石仏

 長崎鼻から、元来た道を車で後戻ります。するとHの字型の辻に出ます(実際はHの横棒がほどんどなく、平行する2本の道がその辻で接しています)。邪魔にならないように車を停めたら、左の崖上に庚申塔が立っているのが見えます。急坂の参道がついているのですが夏は草に埋もれて通れませんので、もし近寄りたいときは冬から春にかけてがよいでしょう。

猿田彦大神 ※猿は異体字

 素朴な庚申塔ですが、この形状は香々地町など国東半島でときどき見かけます。香々地町で申しますと、夷谷にある塔の本の庚申塔など、正面から見たときに左上の方を少し欠いだような形になっています。この種の塔の中には倒伏などにより一部を打ち欠いた結果そうなったものもあるかと思います。しかし、中には意図的にこのような形状にこしらえた事例もあるような気もするのですが、どうでしょうか。玖珠方面の庚申塔に「腰の曲がった庚申様」が多いように、何か意味があったのかもしれません。

 傷みがひどくて像容も不明瞭になってきておりますが、庚申塔の近くで石仏を1体確認しました。ほかにもあるかもしれません。現状から、信仰は薄れているようです。

 

9 教円迫の一字一石塔

 庚申塔の辻から左前方面へと狭い道を進みます。少し進むと、左側に墓地があり、立派な一字一石塔が立っています。

南無妙法蓮華経
一字一石

 お題目が見事な筆致で彫ってあり素晴らしい。この種の塔としてはかなりの大きさです。下の方に右横書きで「一字一石」と彫ってあります。

 すぐそばに経緯を記した碑銘がありました。この碑によれば、一字一石塔はかつて堀切部落内の共有地にあったのですが、この場所(字教円迫)に平成半ばに移したとのことです。

 

10 又ノ迫の庚申塔

 一字一石塔のある墓地を過ぎて狭い道を進んでいくと、ヘアピンカーブの外側に突き当たります。右折して道なりに下れば国道213号に出ます。左折してすぐ、左方向に分かれる旧道に入ります。ほどなく二股になっていますので、これを左にとって山手に上がります。213号線の旧道とは俄かに信じられないような頼りない道ですが、昭和33年に2代目の竹田津隧道がほげるまで、竹田津方面への路線バスもこの道を通っていたそうです。

 しばらくくねくねと進んでいくと、左側にお墓が点在しています。その中で、道路から少し高いところに複数のお墓が横並びになっているところの上段に、たくさんの庚申塔が並んでいます。よく気を付けると車道からも見えますので、分かると思います。お墓の左側から急な坂を少し上れば庚申塔に近寄ることができます。なお、車で来たときは道路に停めるしかありません。交通量のごく少ない道ではありますが、心配なときは一旦通り過ぎて、道が荒れてきたあたりに停めれば、そこから先は車道としては袋小路になっております(後述)。その先には耕地も民家もなく車はまず通りませんから、邪魔になることはないと思います。

 この場所にはたくさんの庚申塔が立っており、写真に写っているのはその一部にすぎません。刻像塔が1基あり、その左右には文字塔がずらりと並んでいます。塔の形をなしていない自然石(庚申石と思われるもの)も含めて凡そ20基が確認できました。このように、1か所に1基ないし2基程度の刻像塔とたくさんの文字塔が並んでいるという事例は、宇目町や本匠村、野津町、三重町など、南海部地方や大野地方で盛んに見かけます。国東半島にも同様の例があって、香々地町ではこちらのほか、以前紹介した越路の庚申塔群などが挙げられます。

 庚申塔の段に上がりますと、下から見えた以上にたくさんの塔ないし拝石が並んでいることに驚きました。やや荒れ気味ですが、ほとんどの塔がきちんと立っています。その中から刻像塔と、文字塔数基をピックアップして紹介します。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼

 この塔は碑面いっぱいにいろいろな像を配したたいへん賑やかで豪勢な造りです。でも、残念ながら傷みが進んで細かい部分がだんだん分からなくなってきています。おそらく元々がレリーフ状の浅い彫りだったのでしょうが、風化摩滅によりいよいよ立体感が薄れているように感じられました。殊に主尊の上半身はその傾向が顕著で、お顔などは輪郭線を残すのみになっています。

 童子は振袖さんで、胸前で手を重ねるか袖口に手先を隠すようにして、お行儀よう立っています。向かって左の童子のお顔は辛うじて判別でき、神妙な表情がかすかに読み取れます。邪鬼は四つん這いで、腕を重ねて顎を乗せるような格好です。この表現の邪鬼は南海部地方などでときどき見かけるもので、国東半島では多くはない気がいたします。

 中段には猿と鶏が仲よう並んでいます。猿はめいめいに雲に見代えの足場に立ち、見ざる言わざる聞かざるの所作です。お人形のようでほんにかわいらしく、左右は横向き、中央は正面向きです。鶏は枠線に立ち、いずれも体は向かって左向きですが、雄鶏が首を捻じ曲げて後ろの雌鶏を見守るような姿勢になっているのが愛らしいではありませんか。

 最下段の枠の中には14名ほどのお名前が墨で書いてあり、ほとんど読み取れなくなっていますけれども「市郎兵衛」さんなど数名は分かりました。

 この塔は、碑面に枠取りをしてあることから本来は何らかの銘が墨で書いてあったと思われます。今はすっかり消えてしまい、読み取れなくなっています。枠の上部の形状が風変りです。

 手前の塔には僅かに墨の痕跡が残っていますが、私には読み取れませんでした。奥は銘の痕跡も分かりませんが、碑面が半ばで段違いになっていることから、上半分に「庚申塔」などの銘を、下半分には紀年銘か講員の方のお名前などを書いてあったと考えられます。

 手前の塔は、太く書いた月輪のみくっきりと残っています。この中に梵字を書いてあったのでしょう。その下にも墨で書いた銘の痕跡が見て取れますが、読み取れませんでした。奥の塔にも墨が残っており、銘は「奉■■庚申塔」です。

(左から2番目の塔)
天■■年
奉造立庚申 ※奉は異体字
※左の行は読み取り不能

 この場所にならぶ文字塔の中で、最も銘の状態が良好です。「奉造立」とあることから、「庚申」で終わるとは思えず、その下に「塔」ないし「乃塔」と続くのではないかなと思いましたが、その1字ないし2字は全く読み取れませんでした。

 それにしても、彫りを伴わずただ墨で書いただけの銘がこんなに残るものでしょうか。周りの文字塔の銘がほとんど読み取れなくなっている中で、これだけ状態が違いすぎます。もしかしたら待ち上げなど何かの機会に、後年上書きしたのかもしれません。とかく、彫りを伴わない銘(墨で書いただけ)というものは、殊に造立年を知るには信頼性が乏しいというのが実情です。いろいろな石造物に後から銘を書き足したりすることは往々にしてあったようですから、墨書の紀年銘は「絶対」ではないということを頭に入れておいた方がよいかもしれません。

 

11 旧竹田津隧道と掘割

 庚申塔をあとに、旧国道を奥へ奥へと進みます。次第に道が荒れてきて、倒木などで通れなくなります。行けるところまで車で行って、あまり無理はせずに途中から歩きましょう。何か所か転回できるところがありますので、それを目安に下車するとよいと思います。先ほども申しましたが、廃道の様相を呈しておりますので車はまず通らず、駐車しても邪魔にはなりません。舗装はされておりますが鹿や猪が出ますから、もし散策するときは1人では行かない方がよいでしょう。

 こんな道です。一応、舗装はされていますが堆積物により路面が隠れています。これはまだよいうちで、もっと荒れてきます。こんな始末なので、車で無理に進むとろくなことになりません。この細い道が国道213号の旧道なのです。しかも昭和33年まで現役で利用され、路線バスなどが往来したというのですから驚くばかりです。無論、当時は自家用車の保有台数がごく少なかったため、この道を通るのはバスやトラック、商用車などがほとんどであったとは思います。でも離合困難の道幅が長く続くうえに見通しも悪く、路肩も貧弱です。少しの災害でも交通が途絶したのではないでしょうか。また、戦中戦後の燃料事情の悪い時代など、木炭車でこの道を行き来するのは大変だったと思います。

 曲がりくねった道を歩いて行くと、大規模な掘割に出ます。そして、その奥詰めにはトンネルがほげています。今なお貫通していますが水没していますし、落石等による事故の危険性が非常に高いので中に入るべきではありません。郷土の交通の歴史、生活史を示す史跡や産業遺産として貴重な構造物ではありますが全く整備されておりませんので、もし見学したい場合には安全に十分留意して、近寄りすぎないようにしてください。

 坑口付近は崩落が進み、本来の天井よりもずいぶん高くなっています。路面に散らばった数々の礫を見ると胆が冷えました。このトンネルは明治30年頃の竣工とのことで、国東半島の北浦辺に数あるトンネルの中では、チギリメン隧道や東西の箕ヶ岩隧道と同様にかなり古いものです。その中でも全長は群を抜いて長く、土木技術の幼稚な時代にこれほど長いトンネルを掘るのは並大抵の苦労ではなかったはずです。長い掘割も、トンネルを少しでも短くしようとしたためでしょう。

 昭和33年まで現役だったのですから、当時の写真もおそらく残っているのではないかと思います。機会があれば見てみたいものです。

 掘割を振り返って撮影した写真です。法面の高さ、掘割の深さがお分かりいただけるかと思います。たいへん印象に残った風景です。この掘割やトンネルが崩れたりしたところで誰も困らないでしょう。でも、ここには、交通不便による昔の方の苦労や、少しでも暮らしをよくしようとして普請にかかった地域の方々の努力、昔この道をバスで通った方の思い出など、目には見えない大切なものがたくさん残っています。その一つひとつが郷土の歴史であり、今の便利な世の中の礎になっていると私は考えています。ですから、よし役目を終えていようとて、今後もできるだけ長い間、この立派な掘割やトンネルが残ってほしやと願うばかりでございます。

 なお、「竹田津隧道」と申しますのはこのトンネルの向こう側、国見町は竹田津地区からとった呼称です。しかし見目側からの道順に沿うて紹介したかったので、竹田津地区のシリーズではなく香々地地区のシリーズに入れました。

 

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次回は国東町の名所を紹介します。