大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上入津の名所めぐり その1(蒲江町)

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 旧南海部郡は今や全域が新・佐伯市となっており、その広さに驚かされます。今年の夏頃から直川村、宇目町、本匠村の庚申塔を立て続けにたくさん紹介いたしました。これらの地域は山また山、ほんに山深うございます。ところが今回紹介します蒲江町は全域がリアス式海岸の浦辺の町でありまして、とても同じ新佐伯市とは思えないほど、何もかもが違います。昔から「佐伯の殿様浦でもつ」などと申しますが、これは直川や本匠などといった山里をすそにしたような言い回しに聞こえなくもありません。でも、浦辺の村々の海の幸がそれほどまでの富をもたらしたのもまた事実でありましょう。

 さて、蒲江町を旧町村等により大別すれば、上入津(畑野浦・楠本浦)、下入津(西野浦・竹野浦河内)、蒲江(蒲江浦・猪串浦・屋形島・深島)、名護屋(葛原浦・野々河内浦・森崎浦・丸市尾浦・波当津浦)の4地域からなります。全ての地域が浦ごとに漁村を形成しております。ある漁村を過ぎれば、鼻を回った先の入江には次の漁村…といった具合です。

 ところで昔は、蒲江町はとにかく道が狭かった印象がございます。平成も半ばまで、浦から浦へと続く道は波打ち際をやっと通るような細道にて、はるか向うまで見遣って対向車のないのを確認して通っていました。そして漁村の中の道もたいそう狭く、離合に難渋して立ち往生するような始末でしたが、路線バスが似合う風景で、それはそれで風情があったように思います。

 それが今では道路の改修が進んで、離合困難な個所はほとんどなくなりました。村をよけて山手にトンネルを穿ち、浦辺の細道も立派な2車線道路になってきています。もちろん景色のよさは折り紙つきですから、ただドライブして四季折々の風情を楽しむだけでも楽しいものを、おいしい食事処や海産物の売店をめぐったりすればさても楽しい一日になること請け合いでございます。

 でも、もし時間に余裕があればドライブや食事・買い物だけでなくちょっと名所旧跡・文化財にふれますと、より充実した道中になることでしょう。探訪が不十分であったり写真がよくなかったりで十分な内容の記事は書けませんが、ここに蒲江町の名所・文化財を少し紹介してみます。初回は上入津地区を巡ります。

 

1 豊後くろしおライン

 佐伯市街から蒲江町を訪れるには、高速道路を利用するのが便利です。ほかに青山や木立から山を越えて行く道もあります。しかし観光で訪れるのであれば、遠回りになりますけれども米水津村経由で瀬平山の裾を越すルートを強くお勧めいたします。この道は「豊後くろしおライン」と申しまして、その景観のすばらしさは県内の沿岸部でも指折りのものです。町村境付近にございます「空のお地蔵様」は昔から米水津村の方々の信仰が篤く、その近くに整備された「空の公園」には景色を眺めに立ち寄る方が後を絶ちません。※空のお地蔵様と空の公園は、いずれ米水津村の記事で紹介する予定です。

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 道路から、このような景色を見ることができます。澄み切った青空の日中にはかないませんが、日暮れどなど、薄暗い時間の風景もなかなかのものです。この写真を撮ったときは遥か向こうまで幾重にも重なる山なみや屋形島を切り絵細工に、みぎわに淡い光を残す眺めがことさらに印象に残りました。

 この道で蒲江町に入れば、尾浦がはるか麓に見えてまいります。尾浦に下る三叉路の角には百姓一揆の説明板が立っています。以前はこれを下って尾浦から江武戸鼻を廻って畑野浦に抜けることができましたが、今は途中が崩れて通れないので、三叉路を直進して長いトンネルを抜けて木立からの道(国道388号)に出て畑野浦に下ることになります。

 

○ 畑野浦峠について

 蒲江町は四方を海と山に囲まれ、佐伯との行き来には歩いて山を越すか、船で通うしかないという文字通り「陸の孤島」の状態が長らく続いていました(陸続きなのに蒲江と佐伯の間には連絡船が通うていたそうです)。旧畑野浦峠の車道開通により初めて自動車が入るようになったわけですが、木立から断崖絶壁の大ホキ道を右に左に折り返しながら登りに登って、はるか山の上のトンネルをくぐってまた七折八折の坂道を下ってやっと畑野浦(はたんだ)に着くという道中で、燃料事情の悪かった時代にはバスで片道1時間もかかった由、峠には茶屋もあったそうです。

 もう10年ほど前のことですが、木立側から少しだけその道を辿ったことがあります。あまりに幅が狭く、しかも片側は切り立った崖になっておりこの先転回できなんだらどうしようと不安になってまいりましてすぐ引き返しました。今の畑野浦峠は新道で、旧道よりもずっと低い位置を通っています。これが開通したのは昭和50年というのですから、ほんの45年ほど前まであの砂利道をバスが行き来していたとは驚きです。県南の山の険しさ、交通事情の悪さがうかがえるエピソードでございます。

 ともあれ、畑野浦は名実ともに陸路における蒲江の玄関口でありましたので繁昌して、商店がたくさんあったそうです。今も、旧道を辿りますとその面影が偲ばれます。

 

2 江武戸神社

 畑野浦から江武戸鼻の方に行きますと、道路から少し下がったところに江武戸神社がございます。標識の類が充実していますので詳しい道案内は省きます。こちらは海のすぐそばにある神社で、鳥居が海に向かって立っています。静かで自然豊かな、ほんに気持ちのよい場所ですので、ぜひみなさんにお勧めしたい名所でございます。夏に訪れますと、道路端から浜辺のおちこちに浜木綿が咲いています。浜木綿はささやかで、可憐で、大好きな花です。

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 このように大きな樹木に囲まれた境内は、いつも掃除が行き届いています。こちらは神武天皇御東征の際、畑野浦寄港の船出にあたって畑野浦の方々が岩礁に御弊を立ててと武運長久を祈願したところに、安和元年に祠を建てて海上安全を祈願したものとのことです。江戸時代より豊漁の霊験あらたかと言われ信仰を集め、お祭りの日には上入津村の漁船という漁船が旗を立てて御弊礁(ごへいばえ)から鳥居前の浜までずらりと並び、奉納相撲やお神楽も賑やかに露店数々、「江武戸の市」と申しまして近隣在郷浦々より大勢集まり大賑わいの盛況が戦時中まで続いたそうです。

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3 京塚の庚申塔

 本匠村・直川村・宇目町には遠く及ばないものの、蒲江町にも庚申塔がわりと多く残っているようです。京塚の庚申塔群はその代表格です。

 江武戸神社からもと来た道を戻って、国道388号のバイパスを楠本方面に行きます。入津トンネルの手前、「入津トンネル先」信号機を左折してすぐ右に折れ、バイパスに沿うて進んでそのまま道なりに左に折れますと、ほどなく右側に福泉寺がございます。その下の広い駐車場のところまで行くと道路左側に小さな墓地があり、その裏手に庚申塔が並んでいます。駐車場の端から庚申塔や説明板が見えますのですぐ分かると思います。国道388号の旧道からの道もありますが、とても狭くて軽自動車がやっとの幅しかありませんし道順が少し分かりにくうございます。

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 5基の庚申塔が並んでおり、1基が刻像塔、残りは文字塔です。お墓が近接しているので、正面から全体を撮ることはできませんでした。

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 説明板の内容を転記します。

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町指定有形文化財
京塚の庚申塔
指定年月日 昭和52年6月1日
所在地 蒲江町大字畑野浦 福泉寺管理

 十干十二支によって60日目に一度庚申の日がめぐってくる。庚申塔は、庚申の夜に体内からぬけだした虫が天帝に人の罪を告げ、命を縮めることのないよう徹夜する庚申待にからんで造立されたもので、その起こりは中国の道教の影響によるものである。
 庚申塔は、像塔と文字塔に大別することができる。像塔は、一面六臂の青面金剛と日月、二鶏・三猿を刻したものが多く、文字塔では、青面金剛とか庚申塔などと記したものが多い。この庚申塔群は、花崗岩が主で瀬戸内海方面から海上輸送されたものである。製作年代は、元禄時代が中心である。
 これらの庚申塔は、この時代漁民の生活もある程度潤い阪神、瀬戸内方面との交易が盛んであった証でもある。

平成9年3月 蒲江町教育委員会

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 大分県内の庚申塔は凝灰岩を加工したものが多いようで、花崗岩のものは少ないと思います。凝灰岩の方が加工し易いのと、県内で花崗岩の採れるところがあまり多くないためでしょう。

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青面金剛6臂、3猿、2鶏

 刻像塔は傷みが進み、細かい部分がほとんど分からなくなってきています。主尊のお顔をよくよく見ますと、スマートなお顔立ちのように見えてまいります。前髪の中央に丸く浮き出しているのは何でしょう、髑髏か何かでしょうか。主尊の真下に猿が身を寄せ合うて、正面向きで見ざる言わざる聞かざるのポーズをとり、その下には鶏が向き合うています。

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 京塚の庚申塔の中でももっとも目を引くのがこちらの2基です。近隣在郷の庚申塔の中でもひときわ大きく、笠も豪勢な感じがいたします。説明板にあるように関西から運ばれたものでしょう。向かって左の塔は「日」「月」の文字をそれぞれ〇で囲うて上端隅に配して日月を表現しているのが風変りです。銘は「庚申塔」です。右の塔は梵字の下に「奉造立庚申塔」、その下には現世安穏と後生楽を願う旨が記され、願主の氏名がずらりと並んでいます。いずれも塔身下部の正面に蓮台を陽刻し、さらに台座に請花をこしらえるという念の入り様でございます。刻像塔のような派手さ・賑やかさはないものの、ひとつの綻びもなく細かいところまで行き届いたスマートな造形は、見事と言うよりほかありません。

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 小さい方の文字塔は、銘が薄れて写真では分かりません。現地でしっかり見ておけばよかったものを、天候の悪さについ横着してしまい、後で写真を見返せばよかろうと早々に見学を済ませたのが間違いでした。

 

5 楠本浦の王子神社

 畑野浦を過ぎると、下り松鼻をまわる海沿いの道になります。この辺りは昔の面影を残しておりまして、非常に風光明媚なところです(冒頭の写真)。いま、この区間をよけるバイパスの工事の最中で、トンネルが完成すれば下り松鼻まわりの道も旧道になるようです。下り松鼻を過ぎて楠本浦のかかり、大向部落の道路右側には天満社があります。適当な写真がありませんので今回は省きますが、天井絵が美しく、しかも境内からは海が見えてとてもよい雰囲気の神社ですから、立ち寄ってお参りされてはと思います。

 楠本浦中心部に近づき家が増えてくると、左前に旧楠本小学校が見えます。道なりに行けばその横の橋を渡ることになりますが、手前を右折して左に川を見ながら奥に進んでいけば、右側に王子神社がございます。自動車を停める場所は十分にあります。

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 こざっぱりとした、気持ちのよいところです。銀杏がたくさん落ちていたのでお参りをして早々に戻りましたが、銀杏の葉が散り敷く頃はさぞ美しいことでしょう。

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 説明板の文字が剥離していて、写真ではさっぱり分からないと思います。

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王子神社(元村社) 楠本浦字百ヶ谷
 祭神 伊奘冉命・速玉男命・事解男命
 創祀 応永10年(1403年)
由緒 この神社は紀伊国東牟婁郡本宮村字抜戸に鎮座する熊野座神社の御分霊を応永10年に、当村住人善右衛門以下6軒の里人たちが氏神として斎き祀り、以来幾度が社殿の改築をして崇敬の誠を捧げて今日に至っている。
 ちなみに、創立当時はこの里には6軒しか戸数はなく、現在も6軒組の制度が残っていて、毎年輪番で6戸の人たちによって神社の保護管理がなされている。
主な祭日
夏越祭(6月10日) 例大祭(11月9日)

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 応永10年の頃は楠本浦にたった6軒しかなかったとは驚きでございます。航空地図で見ると、今はその10倍は優にありそうです。説明板にある「6軒組の制度」は、この説明だけでは何ともいえませんが、おそらく楠本浦の草分け6軒が神社に関しての特別の役割・権限を有していて、その6軒が回り番で管理をしているという意味でしょう。

 

6 百ヶ谷の庚申塔

 王子神社のすぐそばに祭壇をこしらえて、庚申塔と仏様、石灯籠が安置されています。神社の敷地外のようなので、別項扱いとしました。

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 道路端ですし神社のすぐ横であることもあってか、手入れが行き届きお供えもあがっていました。灯籠の横の壊れた庚申塔の銘「奉待庚申塔」です。刻像塔を見てみましょう。

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青面金剛6臂、3猿、2鶏、魚!?

 赤と黒の彩色がよう残っており感激いたしました。禿頭の主尊はさても厳めしげなお顔立ちで、外国のプロレス選手のような雰囲気がございます。なんと勇ましい立ち姿でありましょうか。または、元漁師のおじいさんのようにも見えてまいりまして何となく親しみも感じられる風貌でございます。たっぷりとヒダの寄った衣紋は華やかな感じがいたします。そしてお顔の迫力とはうって変わって、腕や脚の華奢なことといったらどうでしょう。あの細い脚でよくも重そうな体を支えられるものぞと、失礼ながら笑うてしまいました。また、左腕に提げているのはショケラかなとも思いましたが、どうも魚のようです。どう見ても脚ではなく尾鰭がついていますし、体には一面、鱗が刻まれています。でも手のすぐ下の辺りは人の顔にも見えまして、これは一体どうしたことかいなと呆気にとられました。この塔は寛政4年、凡そ230年前の造立で、その時代に人魚という発想はなかったでしょうから、やはり魚の顔が人に見えるというのが確からしいような気もいたします。そうであれば、浦辺の庚申塔らしい特徴といえそうです。
 猿や鶏もたいへんおもしろい表現なのですが線彫りで分かりにくいので、拡大写真を掲載します。

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 いかがですか。漫画のような表現がとてもおもしろく、しかもイラストとして上出来であると感じます。猿が三角形をなすように並び、めいめいに見ざる言わざる聞かざるの所作にてガニ股でしゃがみ込み、鶏は上の猿を威嚇するように向き合うています。昔の方の遊び心、洒落っ気が感じられますし、上部に刻まれた青面金剛の厳めしさとの対比も見事に、さても風流で洒落た庚申様といえましょう。

 

今回は以上です。今後も折に触れて蒲江町の名所旧跡を紹介していきます。