
久しぶりの吉野地区の名所旧跡を紹介します。今回は小屋園と萩尾の名所旧跡の一部です。このシリーズのその1の2番「奥の庚申塔(辻)」を基点に道順を説明しますので、先にリンク先の記事をご覧いただくと分かり易いと思います。
11 小屋園の石幢
県道25号の杉原バス停の辻から入って、奥の庚申塔の辻を右折します。道なりに行けば、左にゴミ捨て場のある三叉路の角に石幢が立っています(冒頭の写真)。
この石幢は保存状態が良好で、幢身には「南無六道能化地蔵大菩薩」などの銘がよう残っており、容易に読み取れました。諸像の姿、笠など、傷み易いところもほぼ完璧な状態です。同じ吉野地区でも、中間の石幢などは中臼杵方面の石幢の特徴がよう出て大きな笠が目立ちますけれども、こちらは笠や中台の径が小さめで、明らかに異なる特徴があります。
まず、笠のゆるやかな起伏が上品で、中台の下部に施された蓮の花の二重花弁もまた優美です。また、幢身と龕部の径がほぼ同じで、いずれも六角中の角をくっきりと立てておりますので、この部分の幾何的な美しさが強調され、笠や中台ともほどよい調和がとれているように感じました。
龕部のお地蔵様の彫りも素晴らしい。衣紋のひだまで丁寧に段々をつけて彫り出し、めいめいのお顔の丸っこい感じ、自然な頭身比など、何から何まで写実的です。しかも枠取りなしの半肉彫りにて、立体感が優れています。
道路端にて簡単にお参りできますので、参拝の際には、ぜひ細かいところまで確認してみてください。非常に立派な造りに、みなさん驚かれると思います。
12 小屋園の阿弥陀様
石幢の辻を直進して少し行くと、右側の石垣の上の用地に仏様がお祀りされてある一角があります。この辺りは道が狭いので、参拝する場合は一旦通り過ぎて路肩が広くなったところに駐車します。

こちらは阿弥陀様で、近隣の信仰が篤いようです。お世話が行き届いていることが見てとれました。左の仏様の下には「三界萬霊」と彫ってあります。
余談ですが、このあたり一帯の古い石垣には精巧な造りのものが目立ちます。参拝時には道路端の民家などの石垣に気を付けてみてください。
13 萩尾の仏龕・横穴
阿弥陀様を過ぎて、道路が道なりに右に折れるところを左折します。その少し先の路肩に邪魔にならないように車を停めます。少し行けば、左に下り坂の舗装路が分かれていますので、その道に入ります。

三叉路から下り坂に入ってすぐ、右側に明らかに仏龕と思しき構造物が確認できます。中には何もありません。以前は仏様がお祀りされていたと思われます。今はどこかに移されているのでしょう。

舗装路を歩いて下ると(※)、右側に写真のような横穴があります(元来た方向を振り返って撮影しました)。おそらくこれも仏龕でしょう。この辺りから右方向に枝道を上れば、畑地の横に小さな横穴が並んでいます。
※軽自動車なら問題なく通れますが、このあと紹介する石幢、角塔婆、庚申塔を見学するときに駐車場所に困りますので、歩いて行った方がよいです。

明らかに人工的に穿たれたものです。横穴墓の跡ではあるまいかと考えます。おそらく付近を整地した際に削り取られたのか、残部がごく小さいこともあり、推測の域を出ません。
以上、萩尾からの下り坂の途中にある仏龕や横穴を紹介しました。めいめいが隣り合っているわけではないので項目を分けようかも思いましたが、詳細が分からないものが多いので、とりあえずひとまとめに番号を振りました。
14 萩尾の石幢
舗装路を下るとき、左側に気を付けておいてください。高いところに石幢が立っているのですが、見落としやすいです。辺りが開けて田んぼが見えてきたら行き過ぎています。後戻りながら、右側をよく見てください。

このように、道路から見上げる高さに石幢の上部が僅かに見えています。時季によっては余計に見えづらいかもしれません。石幢が見えるところから直接は登りにくいので、この少し下から回り込むように、なだらかなところを通って登ります。踏み跡も乏しい状況にて、枯葉などで滑りやすいので雨降りの後はやめておきましょう。

この石幢の龕部は、先ほど紹介した小屋園の石幢のそれとは明らかに異なる特徴があります。各面に矩形の枠をこしらえて、その中にお地蔵様を彫ってありますので立体感には乏しいものの、かっちりとした印象があります。この造りの甲斐あって像の状態は良好です。笠を別の塔の部材ですげ替えてあるのが惜しまれますが、それ以外はわりあい良好な状態を保っています。
それにしても、どうしてこのような場所に石幢が立っているのでしょうか。近くに墓地は見当たりません。おそらく今たどってきた舗装路が開通する以前は、この石幢の立っている尾根筋に沿うて上り下りをしていたのでしょう。今は踏み跡も乏しいものの、確かに尾根伝いに行けば傾斜がなだらかで通りやすく、車輛通行を考慮しないのであれば理に適うているように思いました。

龕部は八角柱です。六地蔵様と二王様(十王様のうち2体)が彫ってあり、写真をご覧いただくと分かると思いますが二王様はずいぶんデフォルメされています。

すぐ近くに、元は石幢の上に乗っていたと思われる笠が落ちていました。半分埋もれていたのではぐって確認することまではしませんでしたが、おそらく破損しており元通りに載せることが難しかったのだと思います。
15 萩尾の角塔婆
石幢のところから尾根伝いに下ると、角塔婆が立っています。ほど近い距離ですが、隣接しているわけでもないので一応別項扱いとしました。

小さい角塔婆であまり目立ちませんが、尾根伝いに下ればすぐ分かります。尖端の部分などはあまり傷んでおらず、すっきりとした形状はなかなか格好がよいではありませんか。まだ不勉強で角塔婆の見分けの目を持たず詳しい説明ができません。おそらく四面板碑のようなものではあるまいかと考えております。
16 萩尾の庚申塔
角塔婆のところから、尾根伝いにさらに下ります。小さな石祠の脇を通って、傾斜がやや急になるところまできたら振り返りますと、大きな木のねきに庚申塔が立っています。地図を見ますとこの辺りは大字萩尾・奥の境界にて、微妙な線ですが所在地の住所としては奥にあたるかと思います。しかし、位置関係を考えるにどう考えても萩尾部落の講による造立と思われましたので、項目名は萩尾の庚申塔としました。

尾根筋に上がらないと、下の道からでは絶対に分からないような場所です。なかなかロケーションがよく、心に残りました。萩尾の村はずれにて、庚申塔の立地としてはおあつらえ向きの場所です。

日天 天和二年
(梵字)奉待庚申塔
月天 十二月十三日
(4名)
この塔は銘に墨が入っているので読み取りが容易でした。おもしろいことに、ふつう○印で日輪・月輪を表すところを、「日天」「月天」の文字で表しています。下部には4名のお名前が彫ってあり、右から3名分は苗字と名前ですが、左端の方は読み方が分からず、或いは銘の「十二月十三日」から一続きにて名前ではないのかもしれません。「之」と「口」を重ねたような字と「祢」のくずし字の2文字です。
○ 吉野地区の盆踊りについて
吉野地区では部落ごとに供養踊りをするほか、地区全体の盆踊り大会もあり盛況です。旧来の演目は「祭文」「三勝」「三重節」「お夏」「佐伯」「葛引き」「絵島」の7種類で、中臼杵方面、戸次方面、野津市方面の踊りがそれぞれ入ってきており、吉野独特の節回しや踊り方が伝わっています。大分市内の盆踊りが鶴崎踊りに同化された例が目立つ中で、たいへん貴重です。
「祭文」
〽わしはナ 田舎の百姓の生まれ(アヨイトサッサー)
音頭ナ とるよな資格はないが(アソレ ヤートセー ヤートセ)
〽何か 一節ゃ理と乗せましょか そこで 踊り子よろしく頼む
「三勝」
〽わけてマ お客は どなたと訊けば
春はマ 花咲く 青山辺の(エーイガサーッサイ)
〽鈴木 主水と いう侍で 女房 持ちにて 二人の子供
「お夏」
〽それじゃエー どなたも お夏でござるヨイ 踊るマ(ドッコイ)
皆さんお手振りなおせ(ソレヤンソレサッサー ヤンソレサ)
「葛引き」
〽阿波の鳴戸の徳島町よ(ソレヤンソレサッサーヤンソレサ)
主人忠義な侍なるが(ソレヤンソレサッサーヤンソレサ)
〽家の宝の刀の詮議 何の不運か無実の難儀
「三重節」
〽踊るみなさん アラ丸輪の願い(ヨイトセーヨイトセ)
エーしばし間は お手振りゅ頼む(ヤートセイセイヤレトコセ)
「佐伯」
〽佐伯 領土や堅田の谷よ(ヨイトセ) 堅田谷でも(ドッコイセ)
宇山は名所 名所(ドッコイドッコイ)
なりゃこそお医者もござれ(ヨイヤセー ヨイヤセ)
「絵島」
〽ここでシャンと切りましょナ ナー竹の切りよりゃ
アレワイサノ コレワイサノ ヤーヤーコノ サンサヨーイヨイ
今回は以上です。次回も吉野地区の名所の続きを投稿します。