大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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小富士の名所めぐり その4(緒方町)

 今回は田良原(たらわら)部落から小富士山へと尾根伝いに進んでいき、その道中の名所旧跡を順々に掲載していきます。今回の目玉は小富士山の御廟屋(おたまや)で、こちらは小富士地区はおろか緒方町全体でも指折りの名所といえましょう。つい最近訪れたときの写真を掲載しますが、もし探訪される場合は、できれば桜の時季がよいと思います。

 

12 田良原の留山碑

 前回末尾に掲載した保全寺跡から田良原(たらわら)バス停まで後戻り、鋭角に左折します。田良原上組の外れ、道路左側に小さな碑銘が立っています。これは保全寺山の留山を示すものです。留山とは、簡単に申しますとその山の樹木の伐採を一切禁止するという意味です。

保全寺山 松御林 御留山也 御用之意外不可入 山林奉行 享和二年

 碑銘の下部が埋もれています。『緒方町誌 区誌篇』を参照することで、碑文のすべてが分かりました。伐採どころか入山すら禁止するという厳しいお触れです。

 田良原の留山碑を過ぎてほどなく、出雲社の手前に立派な碑銘が立っています。

遊歩道千本桜の碑

 これは、出雲社から保全寺山を経て小富士山に至る道を整備し、桜を植えおいた記念碑です。遊歩道とありますが、現状では林道のような雰囲気があります(普通車でも通行可)。もとは歩道としてつくった道路を車道に改修したのかもしれませんが、詳細は分かりません。

 説明の内容を転記します。

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碑文

 保全寺は弘仁元年(810年)、天台宗の宗門として創建され東の神角寺とともに住民信仰の的であったが、不幸兵火にあい今は山腹に僅かな遺跡を止めるのみ。小富士山はその山容富士に似たるを以て第8代岡藩主中川久貞公が墓所に定められた由緒の地である。この両山を結ぶ稜線は史蹟に富み、遠く祖母、傾、阿蘇、久住、大船を望む景勝の地である。昭和30年1月に合併による緒方町発足後、この両山を開発せんとの声が起り、同45年時の町議会議長田部隆氏が稜線に遊歩道の開鑿を発起、爾来氏の熱心な唱導により町建設業境界町開発公社、保全寺山の会、小富士山建国祭の会等の協力を得て昭和49年、4kmに及ぶ遊歩道が見事に完成した。更に地元有志相諮り多くの浄財を集めて、道の両側に1,000本をこえる桜樹を植栽し、この遊歩道に一段の光彩をそえたことは特筆大書すべき美挙である。今後数年を出でずこの地が桜の名勝として宣伝され、杖を曳く客の多からんことは疑いを容れざるところである。茲に記念碑を建立し、田部氏をはじめ関係者の偉業を永く後世に顕彰する所以である。

緒方町長 波多野正憲

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13 出雲社(出雲大社遥拝所)

 碑銘のすぐ先、道路端に出雲社が鎮座まします。言うまでもなく出雲大社(杵築大明神)を勧請したものであり、県内各地に鎮座しております杵築神社と同じ文脈でありましょう。境内は清掃が行き届き、こざっぱりとしています。

 お社は一見して素朴でありますけれども、屋根の造りがたいへん立派でございます。柱が細うても風雨をものともせで、立派に建っています。道路端にあって気軽にお参りできますから、ぜひ車をとめて立ち寄ってみてください。

 石祠の戸には「旧跡観音」と彫ってありました(旧は旧字)。このような呼称ははじめて見たものですから何やらよう分かりません。中にお観音様がお祀りされているのでしょうか。

出雲大社遥拝所

 昭和51年に建てられた碑銘です。この先、林道沿いに伊勢神宮遥拝所、宇佐神宮遥拝所、靖国神社遥拝所などたくさんの遥拝所の碑が点在しており、そのいずれも同じ年代のものです。遊歩道(車道)の開鑿に伴い、碑銘を整備したようです。そう考えますと多分に観光地的な整備の気もいたしますが、展望良好な稜線上にあって、きっと昔の方々は実際にいろいろな神社を遥拝していたのでしょう。そのことを踏まえての碑銘の建立であろうと思います。

 

14 宇佐神宮遥拝所

 出雲社をあとに、林道を車で進んでいきます。しばらく道なりに行けば、道路右側に「宇佐神宮遥拝所」の碑銘が立っています。

 立派な碑が背高泡立草に埋もれています。振り返るような方向に立っているので、行きでは見落とすかもしれません。小富士山からの戻りには必ず目に入ります。この碑銘の辺りから左方向に小道が伸びているように見えました。そちらに行けば何らかの石祠があるのかもしれませんが、確認はできていません。

 

15 保全寺山の御廟屋(靖国神社遥拝所)

 細かな上り下りを繰り返しながら、稜線に沿うて林道をくねくねと進んでいきます。すると左側が拓けて展望が利き、崖をへつるような急勾配の作業道が分かれています。この道を下れば谷部落(保全寺山の麓)に至りますが、車での通行は困難です。作業堂への分岐を過ぎて、左側が広くなっているところに駐車します。

市指定史跡 中川久豊・久虎塔

 このような標柱が立っています。ここから斜面を歩いて上がればすぐ保全山の頂上で、山頂広場におたまやがございます。車道からほど近いので、小富士山のおたまやと合わせて見学されてはいかがでしょうか。

 御廟屋への道の途中に靖国神社遥拝所の碑銘が立っています。

 車道から少しの距離で、保全寺山の頂上に至ります。古い石垣と石段がよう残っており、周囲の手入れも行き届いていました。

奉唱満光明眞言六十萬遍所

 遠目には墓碑に見えましたが、銘を確認したところ供養塔でした。その右隣りの蒲鉾型の碑銘には漢文が彫ってあります。読み下し文の転載は省きます。

中川氏源久虎塔

 墓碑の後ろには蒲鉾型の墓石もあります。この墓碑に彫ってある漢文の読み下しを、緒方町誌(区誌篇)より引きます。読み下しは高野好古さんによるものとのことで、孫引きになってしまいますことをお断りいたします。

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岡城の輔宰右門は、諱は久虎、氏は中川、すなわち前の府君久清公の孫、久恒公の姪、久豊の子なり。箕裘業を継ぎ、政綱を張皇し、以て股肱の力を尽せり。年三十有九にして享保十五庚戌三月念七烏、病に罹りて卒す。遺言もて保全山に葬る。父久豊の塚下に接す。いわゆる終りを慎み遠きを追いしものか。

辞に曰く
 南薫の芳冑、資性は摘英。風采は俊逸、機智は円成。邦家の柱石、官府の干城。忠貞命を委ねられ、操を砥き精を研く。群僚相ただす、庶士誰か争わん。和して党なく、択びて明を揚ぐ。具瞻の徳、司直の行。確乎として朽ちず、永く令名を伝う。現竜阜を護る。

隆興巌 謹誌

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中川氏源久豊塔

 墓碑の手前に立っているのは板碑でしょうか、角塔婆でしょうか。上部が大きく迫り出して、あまり見たことのない形状の石塔にてその種別がわかりませんでした。

 

○ 鹿瀬倉峠について

 保全寺山から車道を先へ先へと進んでいきますと、辻に出ます。この辻が鹿瀬倉峠で、左に下れば寺原(てらばる)に、右に下れば上片ケ瀬に至ります。鹿瀬倉峠は旧往還であり、かつては地域間の往来に盛んに利用された道でした。旧来の道筋を忠実にトレースしているわけではないかもしれませんが、今は車道化しており普通車がどうにか通れる程度の道幅があります。したがって車で小富士山を目指すには田良原以外にも、寺原や上片ケ瀬から上ってもよいわけです。しかしながら寺原や上片ケ瀬からの道は隘路が長く続き、万が一対向車と出くわしたときに大変困ります。しかも山坂がひどく道が荒れ気味ですから、車での通行はお勧めできません。麓から歩いて行きたい場合は別として、車のときは回り道でも田良原から保全寺山経由をお勧めします。

 なお、鹿瀬倉峠の辻から脇道を少し上がれば、留山の碑銘が立っています。内容は田良原のそれと同様です。

 

16 小富士山の御廟屋(橿原神宮遥拝所)

 鹿瀬倉峠の辻を直進すると、道幅が一段と狭まり、舗装もこれまでよりはやや低級になります。普通車までなら問題なく通れますが見通しが悪く、運転に注意を要します。道なりに行きますと数本の作業道が分かるところで舗装が途切れます。ここから右後ろに斜面を登っていけば小富士山の頂上に至ります(道なし)。頂上には中川クルスの紋のある石祠が残っていますが、写真がないので省きます。

 御廟屋に行くには、左に進みます。ここからは未舗装で路面状況がよろしくないものの、平常時であれば軽自動車までならどうにか進めます。ただし、車種によってはタイヤが空転したりするかもしれません。作業道分岐点でどうにか転回できますが往生しますので、もし心配な方は、少し離れていますけれども保全寺山の御廟屋から歩いて来た方がよいでしょう。

 この場所まで車で来た場合は、右の広場に駐車します(一応駐車場として整備された場所のようです)。たくさんの桜が植わっており、春には落花の雪に踏み迷う道中となりましょう。緒方町内でも屈指の、花の名所です。

 小富士山の御廟屋は国指定の史跡です。先ほど紹介した保全寺山の御廟屋もすばらしい史跡でしたが、やはりこちらはその規模が違います。環境も素晴らしく、みなさんに探訪をお勧めしたい名所中の名所でございます。

 壊れた灯籠の竿には漢文が彫ってあります。読み下しは省きますが、一点申しますと文中にあります「小芙蓉」とは小富士のことです。

 この少し先で道が二股になっています。正面は尾根伝いの急坂、右は巻き道で、どちらでもよいのですが尾根伝いは裏道ですから、できれば右に行った方がよいでしょう。

 御廟屋の石垣の規模が、やはり保全寺山のそれとは全く違います。石灯籠もたくさんあります。東西南北を記した石柱もありました(写真右端に写っています)。

 灯籠がばらばらに壊れている例が甚だ多かったのが気にかかりました。或いは、熊本地震の影響かもしれません。各部材の傷みは少なく、元通りに積み直すこともできそうです。

 説明板の内容を転記します。

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国指定史跡 小富士山御廟屋
緒方町大字寺原

 小富士山は海抜456mで、四方遮るものがなく雄大な祖母・傾、久住、阿蘇などの山々を眺望できる。この頂上に、豊後州岡藩主中川修理大夫大室公(8代藩主中川久貞公)の墓があり、御廟屋(おたまや)と称されている。墓の形式は久貞公が儒教を信奉していたため、儒式墓となっている。
 久貞公は、松平家の次男として享保9年(1724年)、三河国吉田城に生まれる。寛保3年(1743年)岡藩に迎えられ、同年12月家督相続をし従五位下修理大夫の叙せられる。就任時、藩の財政状況は悪く、宝暦3年の凶作により財政状況は更に悪化し、緒方郷では農民による強訴が行われ、首謀者が処刑される事件が起こった。
 その後、安永7年の改革で、農民への「産着貸付」などの福祉政策を行い、農民も一応心服するという成果をあげた。また、「由学館」「経武館」などの学問にも重点を置き、藩の再建を図った。
 久貞公は、寛政2年(1790年)5月、享年67歳でその生涯を閉じた。遺命により小富士山に葬された。法号は「諦考院殿高法観大居士」。久貞公の質、お久の方は、寛政4年(1792年)に御落飾し、落飾を小富士山に埋めた。寛政10年(1798年)死去した。享年71歳で、法号は「鷲法院殿青蓮智目大姉」。

緒方町教育委員会

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 説明を読み進めて、安永7年の改革のくだりで目が点になりました。「産着貸付」という施策は、あまりにも実情にそぐわない気がいたしますし、なんだかトンチンカンな印象です。ほかにもっとよい施策があったのならそれを書くべきだと思いますし、もっともマシな内容が「産着貸付」であったのなら、何をか言わんやといったところです。

豊後州岡城主修理大夫大室公之墓

 石段を上ってすぐ、広い区画を設けて墓碑と蒲鉾墓が建っています。当時は土葬であったことと思います。遠く岡城からこの地まで、棺を運ぶ行列はどんな様子であったのでしょう。お墓を見学して、長い長い行列がいくつも川を越え、山坂を越えて小富士山まで登っていく様を想像しました。沿道の村々は大変だったと思います。

 蒲鉾型のお墓を横から見た写真です。キリシタン墓も蒲鉾型のものが多々見られますけれども、それよりもずっと高さがあります。現地で適当な石を切り出してこしらえるのは大変そうですし、そうかと思えば麓から人力でこれを運び上げるのも容易なことではありません。

 橿原神宮の石祠は大岩の上にて、実際の大きさ以上に立派に見えます。特に破風のところの菊の御紋など、見事な彫りではありませんか。左に立つ「橿原神宮遥拝所」の碑は後補のものでしょう。

 小富士山の御廟屋は、広々とした空間に桜がたくさん植えられ、すばらしい自然環境です。惜しむらくは周囲の樹木が育ちすぎて、展望がやや損なわれつつあることです。昔は、説明板にあるように四方八方遮るものがなく、素晴らしい眺めであったそうです。枝を下ろせば、史跡としての価値のみならず自然景勝地としての価値もいよいよ高まることでしょう。

 

○ 小宛のヨイヤナ節

 大分県下で広く唄われた祝儀唄「ヨイヤナ節」の本場は朽網地方と申しますが、大野直入地方一円で数多くの文句が唄われました。ここでは小富士地区のものとして、小宛のヨイヤナ節を紹介します。三味線等を使わない田舎風の唄ですけれども、素朴な中にも情趣に富んだ節回しです。

(お座付)
〽申し上げます板元様よ
 いろいろ品々取り揃え 味付け色付け切り刻み
 お手元見事に積み重ね まことに見事でございます ヨイヤナ
〽十二や三の小娘が 今宵初めて酌に出る
 酌に出るほど恥ずかしさ 肴々と好まれる
 なんど肴もござんせぬ 山は茂りて鳥とれぬ
 海は霞みて魚とれぬ この山奥の裏の田に
 茄子千本植えおいた 遅植えならば蕾なり
 早植えならば花盛り これを肴と御酒あがれ ヨイヤナ

緒方町発足記念)
〽まず今日のこの祝い
 一度ここに来てみれば 御酒盛の祝いごと
 二度ここに来てみれば 全町あげてのお喜び
 三つ見事にございます 四つ四柱ゆるぎなく
 五ついろいろありましょが 結び合わせた新庁舎
 七つ何事ないように 花の町政 繁栄し
 九つこれまでできあがり 十で明るい緒方町 ヨイヤナ

 

今回は以上です。小富士地区は、写真のストックがなくなったので当分の間お休みとします。次回は上緒方地区の名所を掲載します。

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