大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上緒方の名所めぐり その1(緒方町)

 このシリーズでは上緒方地区の名所を紹介していきます。本来であれば道順に沿うて掲載していきたいのですが、適当な写真がないところが多く飛び飛びの掲載になります。ひとまず、いま写真のあるところを一気に掲載して、続きはまたいつかということにします。

 さて、上緒方地区は大字柚木(ゆぎ)・上年野・下徳田・徳田・冬原(ふゆばる)・上冬原・木野・中野・大石からなります。このあたりには著名な観光地はありませんけれども、柚木寺原橋や長瀬橋をはじめとする石造アーチ橋の優秀作が数基ありますほか、石幢や地神塔、庚申塔などの石塔類が方々で見られ、大野地方の石の文化を色濃く感じられる地域です。また、木野・中野の開拓地周辺の広々とした耕地、柚木の棚田など、地域の方々の営みによる農村風景もたいへんよく、四季折々の美しさがあります。

 

1 柚木寺原橋

 原尻の滝から県道7号を南下していくと、大字辻(小富士地区)と大字上年野の境界に長瀬橋が架かっています。この橋は上緒方地区の名所でもあるわけですが、小富士地区のシリーズで以前紹介したので省きます。

 新しい方の長瀬橋を渡って1つ目の角を右折して旧道を行き、二股を右にとります。道なりに牧原橋を渡り、左折して寺原(てらばる)方面に行きます。ずっと道なりに進んで、寺原バス停の角を左折すれば立派な3連アーチの石橋がかかっています。柚木寺原橋という名前は、両岸の地名からとったものです。つまり長瀬橋と同様に、この橋も小富士地区と上緒方地区の境界に架かっているのです。説明の都合上、上緒方地区の名所として紹介します。

 橋の手前は堤の上を通っていくことになります。両岸の高さが異なるので、高い方(柚木側)に合わせて堤を築いて橋を水平にかけてあるのです。橋を架けるだけでも大変な工事であったものを、堤までこしらえたのですからその労力たるや推して知るべしといったところです。それと申しますのも、石造アーチ橋というものは橋台(石橋と接合する部分の岩壁)がしっかりしていることが前提の構造ですから、柚木側はまだしも寺原側は、堤をよほど頑丈にこしらえる必要があったはずです。この橋の竣工は昭和3年で、80年以上も立派な姿を留めています。よほど緻密かつ周到な計算と念入りな工事の賜物であるといえましょう。

 石を布目に積んでこしらえた3連のアーチは、周囲の田園風景にマッチして見事な景観をつくり出しています。緒方橋、鳴滝橋、原尻橋、長瀬橋などと並ぶ、緒方町の石造多連アーチの代表格です。

 高欄も重厚感があって、すばらしいと思います。橋から川を見下ろすと少し上流側の荒瀬が見事な景観で、美しい清流に心が洗われました。

 

2 鶴ノ口の石造物

 柚木寺原橋を渡って左折します。ほどなく大字柚木は鶴ノ口部落に入ると、道路端に三界万霊塔や地神塔が並んでいます。

左:堅牢地神

右:有縁無縁三界萬霊塔

 どちらも大型の塔です。地神塔は大野地方一体のあちこちで見かける石塔で、地の神様をお祀りしたものです。国東半島でいうところの「社日様」と同じもので、特に緒方町清川村では大型の塔をたくさん見かけました。三界万霊塔は、なぜか碑面が横向きになっています。何らかの事情で積み直した際に向きが変わってしまったのかもしれません。右端の仏様には簡単なお屋根をかけて、鄭重にお祀りされています。優しそうなお顔で、拝見いたしますと子供の頃に唄った童謡「見てござる」を思い出しました。

 

○ 新民謡「上冬原讃歌」

 「上冬原讃歌」は渡邉定秋さん作詞、児玉源八さん作曲による新民謡で、平易な曲調で唄いやすいうえに文句もたいへんよく、優れた唄です。できればインターネット上などで気軽に聴けるようにしていただけたらと思います。節を御存じの方は、上冬原周辺を探訪される際に季節に応じた文句を唄ってみてはいかがでしょうか。

新民謡「上冬原讃歌」
〽上冬原の峡(かい)清く 鳥がね楽し春の野や
 流るる水に鮠(はえ)走り 緑酒に花の香るかな
〽田の面に映る蛍追い 童の夢にひたるとも
 心はたぎつ夏の夜の 空をぞ焦がす柱松
〽秋大祭の姥の宮 夕月かげに笛冴えて
 通う心の一つにぞ 囃す団扇に獅子を舞う
〽夜鴉闇に鳴き行けば 灯かげも揺るる山の家
 人の恋しき冬の夜ぞ 訪ねて友と汲まんかな

 

3 姥社

 道順が飛びます。県道7号をずっと進んで、大字小原(長谷川地区)に入る手前で左折して県道410号を行きます。ほどなく、大字上冬原は姥社部落に入ります。ここはわずか5戸程度の小村ですが、道路端に立派な酒屋さん(山中酒店)があります。写真はありませんが素晴らしい建築です。そのすぐ隣が姥社(うばしゃ)で、この神社は旧村社格を有しており氏子圏は大字冬原・上冬原にまたがるそうです。境内は広くはないものの拝殿の竜の彫刻が見事なものですから、参拝時には見学をお勧めします。

 鳥居には立派なシメがかかっていました。昨今よう見かける化繊のそれではなくて、昔ながらのものです。境内は清掃が行き届いています。玉垣が傷んできているのが残念に思いました。

 基壇が4重になった立派な灯籠は、笠が扁平でずいぶん風変りな形状になっています。その笠の上になんと松が生えてきていました。偶然だと思いますが、この扁平な笠によう合うている気がいたします。

 拝殿の竜の彫刻です。お参りをする際、見落とすことのないように気をつけてください。ほとんど傷みがなく、竜の鱗模様までようわかります。これは素晴らしい。以前、今市(野津原町)の丸山八幡の楼門を紹介しました。その楼門の彫刻もかくやと思われる彫りの細かさです。

 説明書の内容を転記します。

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姥神社は

 醍醐天皇の命で大宰府天満宮の造営(延喜19年、919年)にあたった藤原仲平の荘園であった緒方庄に、仲平の娘がおり、この花本姫が一子を設けた相手の男子が嫗岳の洞窟に住む大蛇であったという嫗岳伝説があります。
 この花本姫の命で大蛇を見た姫の姥が驚き、死に至ったところを祀ったとの姥社由緒書が宝暦7年(1757年)に記されており、姥の社は、古より永く祀られ安産授乳の神として皆の崇敬を集めていたと思われます。
 神社神門は元文3年(1738年)に建立と推察されており、宝暦年間に今の姥社の全景ができたものと思われます。文政年間(1818年~)には中川久教公の奉納もあり、藩主が直参または代参する社でした。明治になり村社に列せられ、永く氏子から守られてきました。

御祭神 花本媛婢女霊、豊玉姫伊邪那岐命、菅原神、大歳神

 御利益の御札もあります。ご芳志1000円です。入口にある山中酒舗でお受け取り下さい。

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 説明板にある嫗岳伝説については、嫗岳地区(竹田市)の記事の穴森権現の項で説明していますので、参照してください。

 

4 木野の天満社

 県道7号を原尻の滝方面に後戻って、Aコープ上緒方店の辻を左折します。ずっと道なりに行って、木野バス停の辻を折り返すように鋭角に右折します。広々とした畑地の中を進んで、右にカーブミラーのある角を左折します(普通車までならどうにか通れます)。ほどなく、右側に天満社、公民館、薬師堂が並んで建っています。駐車スペースは十分にあります。

 玉垣がなく、公民館とも地続きにて実に広々とした、開放感のあるお社です。清掃が行き届いており、地域の方の信仰の篤さが覗えます。あいにく曇り空の写真しかありませんが、晴天の日、花の時季は特によいと思います。

 

5 木野の薬師堂

 天満社にお参りをしたらそのまま左に行って、薬師堂にもお参りをいたしましょう。こちらには素晴らしい仏様がずらりと並んでいます。お参りの際に、見学されてはいかがでしょうか。

 小坪は舗装され、立派な石灯籠が並んでいます。薬師堂自体も補修されているようです。履物を脱いで堂内に上がりお参りをさせていただきましたが、掃除が行き届いており靴下は全く汚れませんでした。

 灯籠の火袋の中に鳥が入っています。もちろん本物の鳥ではありません。どなたかが火袋に安置したのでしょう。とても可愛らしくて、拝見して楽しい気持ちになりました。火袋を巣となして、お母さん鳥の帰りを今か今かと待つ小鳥のように見えてまいります。

 一見して、機械でこしらえたのではないかと思えるほど立派な石垣です。特に天羽を蒲鉾型にこしらえてあるのが珍しく、堂様の石垣でこれほどまでのものはそうそう見かけません。『緒方町誌(区誌篇)』により、薬師堂に関する内容として次のことが分かりました。

○ 薬師堂は嘉永元年4月、木野村の信者によって建立された。17体の仏様が安置されており、その中にお茶引き坊さんという白木の仏像がある。お茶引き坊さんを子供達が堂外にたびたび持ち出したが、どこに行ってもいつかは元の場所に戻ってくると信じられていた。
○ 石垣があまりに贅沢すぎるため、藩主がそばを通るときには筵やねこぼく(※)などで隠していた。 ※籾を干すときに使う藁で編んだ敷物
○ 蝉の抜け殻を年齢の数だけお供えすると、耳の病気が治るという伝承がある。
○ 昔は薬師堂の坪で、盆踊りを賑やかに踊っていた。明治20年代に片ケ瀬から習って始め、大正6年頃に中断、昭和28年頃に復活したものの昭和63年を最後に途絶えている。

 お薬師様は美しい彩色が施されています。特に衣紋の菱形の文様など見事なものではありませんか。歳の数だけ蝉の抜け殻をお供えすると耳の病気を治してくださるという、ありがたいお薬師様でございます。

 脇侍の日光月光菩薩も美しい彩色でもって、立派な姿で立っています。その外側は十二神将でしょうか。彩色がずいぶん色褪せてしまっていますけれども、めいめいの細やかな彫りは十分分かります。素晴らしい造形であると存じますし、これほどのものが残っている事例はそうそうありません。また、すべての像が凝った形状の台座に乗っている点にも注目してください。これらの像は盗難防止のため鍵のかかった戸の向こうに安置されていますが、見学に支障はありません。

 天井絵も素晴らしいので、お参りの際にぜひ確認してみてください。一つひとつの関連性はないものの、こうして碁盤縞に整然と並んでいるためか、不思議と一体感がございます。

 いろいろな絵があります。自分の好みの絵を探してみるのも楽しいかもしれません。せっかくの天井絵が雨漏り等で破損することなく、いつまでも残ってほしいものです。

 

6 木野の石造物(イ)

 薬師堂のすぐ下、道路の反対側のつつじで囲まれた一角に、2基の石塔が立っています。別の場所にも庚申塔などの石造物がありますので、便宜上項目名に「イ」と付記しました。

 雨降りで足元が悪かったので、離れた場所からの見学にとどめました。左の角柱型の塔は一字一石塔で「奉納大乗妙天一字一石塔」の銘を確認できました。右の傾いている碑は、銘を確認できませんでしたが蓋し地神塔でありましょう。

 

7 地蔵原の石造物

 元来た道を木野のバス停の辻まで後戻り、標識に従って大石方面へと進みます。農免道路(奥豊後グリーンロード)を横切ってすぐ、二股の左側に文化財の標柱が立っています。ここは大字大石は八屋部落のかかりで、字は地蔵原(じぞうばる)です。車は、邪魔にならないように路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかありません。

四国八拾八ケ所納経塔

 文化財の標柱から石段を上った正面に立っている塔です。この地から四国八十八所を巡拝して無事戻ってきたことの祈念でしょうか。下部にはお弘法様を半肉彫りで表現してあります。碑面が荒れてきているのが気にかかります。気軽にお遍路さんに出ることのできなかった時代に、この塔にお参りをすることで四国八十八所めぐりと同等の霊験を期待したものと思われます。世のため人のためにこんなに立派な塔を建立された方の遺志をついで、いつまでも大切に維持されたい地域の文化財です。

 四国八十八所の塔から右の方に行けば、立派な石幢が立っています。先に説明板の内容を転記します。

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大分県指定有形文化財 昭和48年3月20日指定
地蔵原石幢

 本石幢は、下から基礎、幢身、中台、龕、宝珠からなり、通称六地蔵塔と呼ばれている。建立年は永正5年(1508年)。材質は凝灰岩で、笠部には垂木を彫り出し、龕部には地蔵尊6体と神王2体が彫刻されている。総高246cmに及び、精巧な彫刻で豪壮なものである。

 幢身の銘文は次のとおり。
北面
 大日本国豊後乃緒方庄小
 河名内大石八屋村小林
 禅庵住侍比丘玄勝才
 (梵字欠損)
  ●●禅門  道光禅門
  妙●禅尼  道祐禅門
  宗●禅門  妙慶禅尼
  妙厳禅尼  少潤禅尼

東面
 奉欽刻彫六道能下地蔵
 大菩薩尊像一宇安座
 願者現世安穏後生善處為也
 (梵字キリーク)
  願主現勝敬白
  道祐禅門
  妙智禅尼
 永正五天戌辰歳十一月吉日敬白

西面
 (梵字ウーン)
  浄永禅門
  妙金禅尼

西面
 (梵字アーク)
  安置冥官二聖

緒方町教育委員会

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 これは素晴らしい。宝珠の火焔がすこぶる良好な状態で、笠の垂木もようわかります。内刳りが深く、龕部の露出が少ないことからか、諸像はごく浅い彫りですのによう残っています。笠と中台のバランスもよく、何から何まで行き届いた秀作といえましょう。

 道路端の小高いところに立っているので、車の窓からでもその姿はよう分かります。でも、さっと流し見をするのではなくて、できれば車から降りて近くで見学していただくと、きっとどなたもが造形の素晴らしさに感心されることでしょう。

 

8 大道畑の石造物

 地蔵原の二股で転回して少し後戻り、農免道路との交叉点を左折します。「大石遺跡入口」の標柱のある角を右折して急坂を上れば、台地上の広々とした畑地の端に出ますので、邪魔にならないように車を停めます。大石遺跡の説明板もありますから、一読しておくとよいでしょう。畑地に沿うて農道を歩いていきます。二股になっているところを直進したらほどなく、右側に大型の地神塔が立っています。近づけばすぐ分かりますが、それと知らいで見つけることは困難な立地です。

 比較対象がなく写真では分かりにくいと思いますが、なんとこの地神塔は高さが3m近くもあります!そばに寄るとものすごい迫力に圧倒されます。堂々たる字体の銘には朱を入れてあります。

 天保13年の銘がありました。横から見ると、ものすごく前傾しています。地震などでよく倒れなかったものぞと感心いたしました。これほど屈曲して傾いているように見えても、重心のバランスがとれているから倒れないのです。それは石工さんの経験と勘によるのかもしれませんけど、その根底には緻密な計算があるのでしょう。

 地神塔のすぐ後ろ、一段高いところには横並びで無銘の石板が並んでいるのを確認しました。倒れているものも含めますと、6基程度あったと思います。確証を得ませんが、蓋し庚申塔でありましょう。

 

今回は以上です。次回は長谷川地区の名所旧跡を紹介します。

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