大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

長谷の名所めぐり その7(犬飼町)

 忙しくて更新の間隔が長くなっていますが、内容を省くのは本意ではないので、時間をかけて少しずつ準備をしています。

 さて、今回は大字栗ケ畑の名所の残りと、大字山内の名所の一部を紹介します。今回掲載する名所の中でも、特に山内の公民館には多種多様な石造物がたくさん集められております。前回紹介した九品寺跡と同様に、興味関心のある方には見学をお勧めいたします。

 

31 松平の月待塔

 前回の末尾に九品寺跡を紹介した際、その道順で寒須橋が出てきました。そのすぐそば、道路端の崖下に月待塔と寒須橋の碑銘が立っています(冒頭の写真)。すぐ分かります。地名は、近くに立っている山地災害危険地区の看板から引きました。なお、この2基は別項立として、まず月待塔から紹介します。

卍 奉待月天子請願(以下不明)

 国東半島ではあまり見かけない塔です。月天子(がってんじ)と申しますのは、月にある宮殿に住んでいる神様で、月の世界を統治する存在として信仰されています。その本地仏勢至菩薩です。この塔の上の方に丸で囲んだ卍を彫っておりますのは、勢至菩薩の信仰を表しているのでしょう。

 

○ 月待信仰について

 昔、各地に月待講と申しまして十九夜、二十三夜、二十六夜など地域によって決まった夜に月待ちをする講が各地で組織されていました。主に女性によって組織されることが多かったようですが、ところによっては男性は二十三夜、女性は二十六夜などと男女別に講を持つ場合もあったそうです。栗ケ畑の月待がどのような形態であったのかは分かりませんが、この種の石塔が残っていることから、それなりに盛んに行われていたのでしょう。本来は何らかの信仰を伴うものであったのが、時代が下がるにつれ庚申待と同様に、飲食を伴うレクリエーション的な集まりに変わっていったと考えられます。

 今も、夜空に見える星の中でいっとう親しまれているのが月です。「お月さんなんぼ、十三七つ、まだ年ゃ若いな…」のような文句の唄を子供の頃に唄ったり、おじいさんおばあさんから唄ってもらったことのある方も多いと思います。昔は陰暦でしたから月の満ち欠けが暦に直結しており、今よりもなお月に馴染みがあり、信仰につながったのかもしれません。

 ところで、県内では8月23日に盆踊りをするところがあります。特に賑やかに踊るのが上浦町浅海井で、ほかにも佐伯市下城ほかあちこちで見られますが、これらは地蔵踊り(お地蔵様の供養踊り)として継承されていることがほとんどです。お地蔵様の縁日は本来24日であり、実際に8月24日に地蔵踊りをする事例もある中で、23日に踊るのはなぜでしょうか。おそらく地蔵盆のヨド(前夜のお祭り)として23日の晩に踊るのだろうとは思いますが、もしかしたら、元々は月待信仰をも伴っていた事例もあるかもしれません。

 

32 寒須橋の碑

 月待塔のすぐ横に立っている碑銘は、旧寒須橋(石造アーチ)の寄附名簿です。

寒須橋 
寄附名簿
大正七年三月十三日

 最高額は15円から3円まで、金額の順に大勢の方のお名前が彫ってあります。めいめいの居住地も彫ってあり、地元である長谷のほか、犬飼、竹中、田中などの地名もありました。これは、この地域にゆかりのある方にも広く寄附を募り、それに応えてたくさんの協力があったのでしょう。昭和48年にはすぐ上流側に現橋が架かり、いま旧寒須橋は廃橋の様相を呈しています。草が伸び荒れるに任されていますが、竣工当時は、地域の方々にとって夢の橋であったはずです。この石碑が、そのことを端的に示しているといえましょう。

 旧寒須橋の写真は、地域の方の自家用車が写り込んでしまうアングルでしか撮影できなかったので掲載は控えます。簡単に見学できますから、もし近くを通るときには碑銘と橋を確認してみてください。

 

33 落合の六地蔵

 月待塔のところから川べりの道をなだらかに下っていきます。ほどなく左側に栗ケ畑神社と公民館があり、すぐ先にその名も「神社前」バス停があります。その角を右折して橋を渡り、道なりに上っていきます。上りつめて小部落(呼称不明・大字栗ケ畑のうち)に出たら左側に防火水槽がありますので、その手前を左折します。木森の中を進んで、道端にお墓の並ぶ中を道なりに下れば落合部落(大字山内)に出ます。そのかかり、道路右側に六地蔵様や庚申塔がお祀りされています。ここまで、離合困難なところもありますが普通車までなら問題なく通れます。

 右側の標柱には、令和元年6月に稲摩さんがお地蔵様の修理をされたことが記されています。なかなかできることではないと思います。それ以前がどのような状況であったのか存じておりませんが、今は立派な基壇の上にきちんと立っており、めいめいに帽子をかぶせて鄭重にお祀りしてあります。

 近くに車を停める場所がないので通りがかりに車窓からお参りすることになるかと思いますが、この基壇の上には小さな庚申塔もお祀りされています。庚申様は、車窓からだと気付かないかもしれません。

青面金剛4臂

 ごく小型の刻像塔で、眷属は一切見当たりません。このように、主尊のみを彫った小さい庚申塔は大野地方でときどき見かけます(これまでも数基紹介しています)。こちらは、元は違う場所にあったものを六地蔵様のところに移して一緒にお祀りしたのか、または元からこの場所にあったのか、判断がつきませんでした。庚申様の所在地としてはおあつらえ向きの場所ではあります。近くに文字塔は見当たりませんでした。大野地方において、刻像塔のみを単体でお祀りしてある例は珍しいと思います。

 碑面が少し荒れてきておりますけれども、主尊の姿は今のところよう分かりますし、指の握りなど細かいところまでくっきり残っています。一部に赤い彩色が認められます。お顔はあまり怖そうな感じはせず、なんとなく優しそうな雰囲気が感じられました。腕の比率や足先が完全に外向きになっている点など、失礼ながら稚拙な表現も見受けられます。けれども、よし小さかろうとて、眷属がなかろうとて、太い腕を曲げて宝珠や三叉戟を掲げる姿のなんと凛々しいことでしょう。

 

○ 長谷地区の盆行事について

 ここで、長谷地区の盆行事について記しておきます。長谷地区で盆踊りが残っているのは、黒松、栗ケ畑、柴北下のみになっています。このうち盆口説が残っているのは黒松と栗ケ畑で、柴北下は音源を流して踊ります。それぞれ供養踊りをするほか、黒松のみお観音様の踊りもあります。

 旧来の演目は「新平さん」「三勝」「かぼちゃ」「銭太鼓」「弓引き」「由来」「団七」の7種類で、千歳村の盆踊りとほとんど同じ内容ですが音頭の節や踊り方が少しずつ異なります。銭太鼓踊りと申しますのは、ふつう、大野・直入地方では左手に持った扇子をクルクルと高速で返しながら、右手に持った銭太鼓(穴あき銭を通した小さい枠の下に長い房飾りのついた道具)を小さく揺すって音を鳴らしたり房飾りを振り回したりして踊ります。ところが長谷地区では右手にタオルか手拭い、左手にはうちわを持って踊っています。銭太鼓踊りの本場は直入地方や大野地方西部であり、長谷地区は伝承地域の外れの方ですから、本来の道具を揃えることを省略して類似するもので代替したのかもしれません。この銭太鼓踊りには銭太鼓五つ、銭太鼓十三、銭太鼓九つなどところによって呼称がいろいろありまして、これらの符牒は、かつて同一地域に異なる種類の銭太鼓踊りが複数伝わっている例があったことを示しています。このことからも分かるように昔はよう流行ったようですが、左手で扇子を回すのがたいへん難しく、下火になりつつあります。ですから、よし銭太鼓は使わずとも、銭太鼓踊りが長谷地区に残っているというのはたいへん貴重な事例であります。また、「弓引き」も、朝地町や大野町、竹田市などでは右手に扇子を持って踊っており、これは那須与一の扇の的射の場面を表した大変よい踊りなのですが、やはり所作が難しいので下火になってきています。長谷地区ではうちわで踊っておりますが、数少なくなってきた「弓引き踊り」の伝承事例としてこれまた貴重です。「団七」は3人組の棒踊りで、大野・直入地方に広く分布していますけれども、長谷地区の踊り方は緒方町や大野町、久住町などのものとはまた異なります。ほかにも、手踊りの「かぼちゃ」や、うちわを持って踊る「三勝」などもそれぞれに特徴的な所作があり個性が際立っています。

 盆踊りに付随する行事としては、黒松では柱松、柴北下では精霊流しがあります。柱松と申しますのは、以前も説明しましたが坪に立てた柱の先に巻きつけた菰などを狙って火のついた小松明を投げ上げるものです。お盆の行事として大野・直入地方を中心に、昔は速見地方や海部地方など他地域でも広く行われていました。宇佐地方などで初盆の供養踊りに傘鉾を出すのと同様に、依代の意味があったのではないでしょうか。精霊流しはみなさんよくご存じだと思いますが、お精霊舟を川や海に流すものです。

「新平さん」
〽私ゃこの村 百姓の生まれ(ヤレショー ヤレショー)
 何か一声口説いてみましょ(アーヨーヤーセー ヨーヤーセ)
※節は近隣で「二つ拍子」ないし「三つ拍子」として唄われているものと共通

「三勝」
〽親のない子は遊びにゃ加てぬ(ヨイトセー ヨイトセー)
 打てや叩けと打擲された(ヤーンソーレー ヤンソレサイ)
〽わしが父様どうしてないか そこで母親仰せしことにゃ

「かぼちゃ」
〽それじゃ皆さん(アラドスコイドスコイ)
 かぼちゃでござる(アラヨーヤーセー ヨーヤーセー)

「銭太鼓」
〽夏はかたびら冬着る布子 チリツンテンシャン(アドスコイドスコイ)
 一重二重の三重内山の(ソレー ソレー ヤットヤンソレサイ)
※節は「祭文」

「弓引き」
〽弓は袋に剣は鞘に(ヨイトセー ドッコイセー)
 源氏平家の御戦いに(アラヤッチョンナンサー ドッコイセー)

「由来」
〽一重二重や三重内山の(ドッコイセー コリャセー)
 エー真名野長者の由来を聞けば(ヤンヤーソレナーサー ヤンソレナー)
※節は「三重節」。団七踊りのときも節は同じで、志賀団七を口説く。

 

33 山内公民館の石造物

 落合の六地蔵様から道なりに下って、突き当りを右折します。ほどなく、右側に山内バス停があります。その角を右折してすぐ、二股(※)になっているのでこれを右にとれば山内公民館に至り、その坪にたくさんの石塔や石仏が寄せられています。簡単に参拝・見学できますから、興味関心のある方には立ち寄ってみることをお勧めします。
※左にとって上れば山内神社が鎮座しており、こちらもところの名所ですが適当な写真がないので今回は省きます。

 公民館の玄関前には、まるで門柱のように2基の宝篋印塔が立っています!おそらくこの場所には、かつて堂様かお寺か何かがあったのでしょう。夫々、詳しく見てみましょう。

 左の塔です。相輪が半ばで折れているほか基礎にも打ち欠いた部分が見受けられますが、その他は案外良好な状態で、格狭間などもよう残っております。相輪はそれほど中膨れになってはいませんけれども、笠を直角の段々にせずに階段ピラミッド状になっており、所謂「宇目型」に近い特徴が見て取れました。ただし距離的にはかなり離れておりますので、その方面の文脈で捉えるべきではないと思います。偶々、特徴が似通っているだけでしょう。蓮坐のお花の表現が細やかでよいし、隅飾の間にも細かいお花が彫ってあり、全体的に優美な印象を受けました。細かいところまでよう行き届いています。

 右の塔です。相輪を失い、五輪塔か何かの部材で補うてあります。こちらは笠が直角の段々で、一般によう見かける形状です。露盤は各面2区画に分かり連子を彫ってあります。隅飾が大きめでやや外向きに発達していることから、江戸時代以降のものではあるまいかと推量いたします。基礎を見ますと、格狭間の形が左の塔とはまるで違います。この格狭間の形状も年代を推量する助けになるのですが、その点は勉強不足で資料と首っ引きにならないと私には分かりません。最下部には造り出しで蓮坐をこしらえてあります。ごくささやかな表現です。

 公民館の左側には上の道路との間の斜面を雛壇上に造成して、五輪塔庚申塔、石仏、月待塔などがたくさん並んでいます。いずれも立派にお祀りされており、近隣の方の信仰が続いているようです。全部紹介するには数が多すぎるので、この中から数基をピックアップして紹介します。

 中央の上下2基はいずれも月待塔で、下は「奉待月天子」です。紀年銘は読み取れませんでした。上の塔は別の写真で紹介します。

寶暦十■■■
奉待二十三夜得大■■■
■月二十三日

 銘には主を入れてありますが、碑銘が荒れて一部は読み取れませんでした。この地域の月待講では、二十三夜待を行っていたことが分かります。

 お不動様の坐像です。立体感に富み、細部まで行き届いた表現が非常に優れています。保存状態がよく、お顔の表情などが容易に読み取れました。お不動様が各地で信仰されていることは言うまでもありませんが、殊に大野地方では信仰が篤く、磨崖仏の作例も多数ございます。また、広域的なお不動様の霊場の札所巡りコースも設定されています。

 お弘法様と思われます。おちょうちょが傷んでめくれていたので、体の表現がよう分かりました。思いの外カクカクとした表現に見えますが、肩の線に見えているのは牀座はの枠です。本来、体と牀座とが一石づくりになっているのですが、その頭部を欠損したので、別石で補うた際に本来の場所には乗らなかったので、枠の上に乗せたのでしょう。

 上段の方には石幢の龕部と思しきものに石祠か何かのお屋根を組み合わせたものが安置してあります。一見して石殿かと思いましたが、そうであれば下部も矩形になっているはずです。

青面金剛6臂、2鶏、ショケラ

 この庚申塔は舟形の塔身に対して主尊が小さめに彫ってあります。上部の余白が広く、主尊の光輪の上端に接して蓮の花を浅く彫り、その上に梵字を彫ってあります。上端に梵字を彫る例は文字塔で多数見かけますけれども、刻像塔では珍しいと思います。

 主尊はすらりとした体型で、特に手足がほっそりとして長いのが特徴です。一見してあまり強そうな感じはせず、やや華奢な雰囲気が漂うております。ただし、風化摩滅が進んだのでその度合いが増しているだけで、もう少し状態がよければまた違う印象を受けたかもしれません。ショケラは痕跡を残す程度になっています。主尊の足の左右には、膝までの高さほどのごくごく小さな鶏の痕跡が確認できました。ただし、これはそう遠くないうちに分からなくなるかもしれません。

 

今回は以上です。長谷地区にはまだまだたくさんの名所旧跡・文化財がありますが、一旦お休みとします。次回からは、三重町は新田地区のシリーズの続きを数回に亙って投稿します。

過去の記事はこちらから