大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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切畑の名所めぐり その1(弥生町)

 このシリーズでは弥生町は切畑地区の名所旧跡・文化財をめぐります。

 さて、切畑地区は大字江良(えら)・門田(かんた)・細田(さいた)・提内(ひさぎうち)・平井からなります。弥生町のうち番匠川右岸の一体で、国道10号が通っていますので特に高速道路開通以前は佐伯・延岡間の交通の要衝でした。今も直川や重岡と佐伯間の往来で、盛んに通りがあります。また、昔は本匠村のうち笠掛(かすかけ)に越す山道の往来も盛んでした。有名な観光地はありませんが佐伯四国の札所になっている堂様が点在するほか、八坂神社などの神社が鎮座しています。

 初回は大字門田は須平(すびら)の庚申塔群と、大字堤内は天神脇の庚申塔を掲載します。2か所だけですが、見事な塔が目白押しです。須平の庚申塔群の中でも瓦製の刻像塔は近隣在郷でも屈指の優秀作ですから、詳しく紹介します。

 

1 須平の庚申塔

 これまでに、本匠村や宇目町、直川村に点在する見事な刻像塔をたくさん紹介してきました。その中でも宇目町大字塩見は日平の庚申塔や塩見園の庚申塔、本匠村大字三股は大良の堂様の庚申塔、同大字小川は番ノ原の庚申塔などは秀作中の秀作といえましょう。今回紹介する須平の庚申塔群の中には、それらに比肩する見事な刻像塔があります。しかも瓦製で、とても珍しいものです。ほかの刻像塔も個性豊かで素晴らしいので、興味関心のある方にはぜひ見学をお勧めいたします。

 ところで、こちらの庚申塔群は人家からほど近く、しかも瓦製の庚申塔は市の文化財に指定されているにも拘らず場所が分かりづらいので、見学に訪れる方も少ないようです。道の駅やよいから国道10号を佐伯市街方面に行き、番匠交叉点を右折し番匠大橋を渡ります(国道10号を直見方面へ)。切畑小学校入口信号を左折して橋を渡り、踏切を越えた先が須平部落です。右に福祉施設「番匠の杜」を見て、鋭角に左折して下った行き止まりに駐車するとよいでしょう。車を停めたら、番匠の杜の外周の小道を時計回りに進んで、施設の裏に回り込みますと1段高いところに庚申塔が並んでいます(冒頭の写真)。その小路が藪になっていて、イドロが茂りたいへん通りにくいのが難点です。鋏を持って行き適宜切りながら進みませんと、服を傷めてしまうかもしれません。

 このように石灯籠とたくさんの庚申塔が並んでおり、壮観です。しかも刻像塔が6基もあり、全部像容が異なります。文字塔も10基程度あります。刻像塔に比べますと文字塔は傷みが進んできており、銘の読み取りに難渋するものが多々あります。読み取れた銘は「庚申塔」「奉建立庚申塔」などで、さして珍しいものは見当たりませんでした。ここでは刻像塔を左から順に1基ずつ全部紹介して、文字塔の紹介は1基に留めます。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼、ショケラ

 この塔は、こちらに5基ある刻像塔の中でも最も大きいものです。笠の優美な形状が目を引きます。幅広の塔身によう合うた立派な笠で、お屋根のカーブと破風の波模様がたいへん風流な感じがいたします。しかも破風にこしらえた紋様もまたなかなかのものではありませんか。塔身を見ますと、この地方で盛んに見かける刻像塔のように大きく段違いに彫り込んで諸像を厚肉彫りにするのではなくて、国東半島の庚申塔のように比較的浅い彫りで仕上げてあります。上から詳しく見てみましょう。

 まず、日輪と月輪は線彫りにて瑞雲も伴わず、ずいぶんあっさりとした表現になっています。日輪には朱を入れ、月輪は三日月形に表しています。主尊は御髪をかっちりとまとめて、まるで三角帽子をかぶっているように見えます。大きなお耳、厳しい目付き、ヘの字の口など威厳に満ち満ちた表情には、その神怪しき力が表れています。外側に出した腕は見えづらくなっていますけれども、指や宝珠など細部に至って丁寧な彫りで仕上げてあります。ショケラは傷んでおり、その表情は読み取れません。足元の邪鬼が近隣在郷で見かけるものよりずっと小さいので、主尊に踏まれているというよりは、その足元で戯れているように見えますのも面白うございます。

 童子は主尊の肩の背丈にて、一般的な童子よりも大きいので存在感があります。向かって左はお慈悲の表情、右は朗らかな微笑みを見せており、優しそうな姿にたいへん愛着を覚えました。下段の帯状の区画の中央には猿が3匹密集し、見ざる言わざるのポーズをとっています。あまり密着して腕が重なっています。外側からは猿に比して異常なる大きさの鶏が、猿を監視するかのように佇んでいます。一見して怪鳥に猿が襲われているように見えてまいりました。諸像の彫り、特に主尊と童子が見事な表現の、秀作であるといえましょう。

 下部には8名のお名前が彫ってあります。実物を見ればどうにか読み取れます。

青面金剛4臂
「庚申 十月■■日」

 主尊のインパクトがものすごくて、眷属を伴わないことに最初は気付きませんでした。個性豊かで珍妙を極める表現は、一度見たら忘れられません。上から見ていきましょう。

 笠は切妻のシンプルな形状ですが、前面にのみ垂木を彫ってあります。このように笠に垂木を表現した庚申塔はときどき見かけますが、これほど荒っぽくこしらえたものは珍しい気がします。碑面を見ますと、笠の下で大きく段差をつけています。この部分の中央が孤を描いておりますのは、主尊の頭のカーブを沿わせようとしたのでしょうか。この段差(前後差)に対して、主尊の足元の段差はそれほど深くはありません。こういったところや主尊の彫り口を見ても、刻像塔の作成にあまり慣れていない石工さんがこしらえたのかなと推量いたしました。日輪と月輪は先ほどの塔と同じ表現なのですが、月輪の三日月形がずいぶん不格好です。

 主尊は、上の段差の円弧から察するに、本来は頭の上に彩色にて(碑面に色を付けて)炎髪を表していたのではないかなと考えました。でも現状としてはその痕跡も分からず、本当にただの坊主頭です。しかも顔のパーツが中央に寄り集まっているうえに悲しそうな目付きで、おちょぼ口になっています。これでは全く強そうな感じがしません。腕の表現もまた珍妙です。前に回して合掌した腕は所謂「おめが様」のような不自然なカーブを描き、外に伸ばした腕は左右で長さが微妙に異なる上に線彫りに近く、指の握りも大雑把な表現になっています。股間の三角模様も何が何やらわかりませんし、足回りの奇想天外なる表現方法も含めて、まったく自由奔放を極めるの感があります。
 左上には右横書きで「庚申」、申の字の下には縦書きで十月■日の銘が確認できます。肝心の年は分かりません。個性豊かでたいへんおもしろい庚申様ですから、見学されますときっと心に残ることでしょう。

「(読み取り不能)天」
青面金剛4臂
「十月十四日」

 この塔は一つ前に紹介したものとそっくりで、珍妙を極めるデザインがとても魅力的です。傷みが激しくて細部が分かりづらくなっていますけれども、幸いにもよう似た塔が隣にありますから想像で補完することができました。もちろん細部は違いますから、一つひとつ確認してみましょう。

 まず、笠に垂木を彫っていません。碑面上部の彫り込み(前後差)は、右側の傷みが著しいものの中央の円弧上の箇所がずいぶん浅いのが見て取れます。日輪にはわっずかに彩色が残るもののほとんどが削れてしまっており、月輪は三日月型がよう分かります。主尊の体型や腕の形は先ほどのものと大同小異です。紀年銘は「天」しか読み取れないものの、日付は「十月十四日」とはっきり読み取れました。下部には8人ないし9人のお名前が彫ってあります。茲の読み取りは難しい状態です。

青面金剛6臂、2童子、3猿、邪鬼、ショケラ

 この塔は上部にひびが入っているのが惜しまれますが、それ以外は非常に良好な状態を保っています。地衣類により写真では見えづらいところもありますけれども風化摩滅がほとんどありません。赤い彩色もよう残っています。

 主尊の首あたりから火焔輪を朱で描き、その輪の中に炎髪をこれまた朱で描いています。これらは彫りを伴いませんので、色が流れて消えてしまえば主尊は坊主頭になってしまいます。今のところ、その心配はなさそうです。日輪と月輪は火焔輪の上にて、両者が相俟って雷様のような雰囲気が感じられました。主尊のお顔は頬やあご回りの肉付きがよくて、威厳のある表情です。この部分は写実的な表現なのに体はずいぶん漫画的な雰囲気で、特に腕の配置の珍妙さや寸胴体型から大きく出た足の表現など、失礼ながら稚拙さが感じられます。個性豊かで面白いではありませんか。

 四つん這いの邪鬼の頭は真円に近く、こちらを向いて苦痛を訴えておるように見えてまいりまして、ほんにお気の毒なことでございます。童子は邪鬼なんどコチャ知らぬとばかりのすまし顔にて、背の高さが主尊の腰の高さまでしかありませんのも取りようによっては、遠慮してずいぶん後ろの方に立っているふうにも見えます。猿はお馴染みのポーズです。このようにめいめいが等間隔でしゃがみこんだ猿はだいたいが1匹ずつの小部屋に収まっている(沈彫りの様相を呈している)のがセオリーですが、こちらは全くの浮彫りにてそのコロンとしたかわいらしさがより引き立っています。

「弘化四年八月十四日」
青面金剛6臂、3猿、邪鬼、ショケラ

 この塔は江戸時代末期のものです。そうは言いましても175年ほども前の造立ですけれども、享保や元禄の塔よりは年代が下がりますから、やはり細部の状態がよう保たれています。鶏や童子を伴わないことに気付かないほど、実に賑やかで豪勢な感じがいたします。上から見ていきます。

 まず日輪・月輪と瑞雲がお花くずしの風情にて、これが舟形の上端近くに配されており、しかもその間に割って入る火焔光背のラインが舟形の外周とよう合うて絶妙な間隔を保っておりますので、配置の妙が感じられました。主尊のお顔は目付きや口許だけ見ますと厳めしい気もしますけれども、そのお耳の形など全体を見ますと仏様のお慈悲の表情にも見えてまいります。炎髪には細かい櫛の目を入れて、これが火焔光背とほぼ相似形をなします。よう見ますと衣紋にも朱を入れて細かい文様を表現していたようですが、体の前面はやや分かりづらくなっています。ショケラも磨滅が進んでいるのが惜しまれます。体前に回した腕はその曲がり方や太さなどごく自然な表現で、とても上手に仕上がっています。それに対して外に伸ばした4本の腕は付け根も長さもちぐはぐで、特に三叉戟を持った腕と弓を持った腕の曲がり方は珍妙を極めます。この箇所が不自然な表現になることには目を瞑って、碑面に対して主尊をことさらに大きく配したところに石工さんの工夫が感じられました。ほっそりとした脚はご愛敬です。

 邪鬼は四つん這いどころか、主尊のあまりの重さにとうとう崩れ落ちてしまったようです。哀れなるかや、まったく今わの際にあってもなおも踏みつけられたままとは、さても難儀なことではありませんか。猿はお馴染みのポーズです。「聞かざる」の猿に注目してください。眼をカッと見開いて鼻の孔を吹き広げて、これ見よがしにお中間を張った姿が見て取れます。

 なお、この種の特徴を持つ庚申塔は本匠村や直川村など、近隣地域の方々で見かけます。最下部の索引リンクから、当該記事をご覧になってください。

 さて、いよいよ瓦製の庚申塔です。御室の上部のお花模様がすてきです。それにしても、御室だけでも素晴らしいものを中のお塔の見事なことと申しましたら、何とも形容のしようがありません。大きさこそ小そうございますけれども、これほどまでの造形の庚申塔は県内では稀でしょう。ふつうの庚申塔は石造ですから、板状の石材をノミやタガネで彫ってこしらえてあります。ところが瓦製の場合は粘土でその形状をこしらえてから乾燥し、釉をつけて焼いてこしらえてありますから、これほど細かくて立体的な造りにすることができるのでしょう。その技法が非常に高級なものであり。特別の技量を持った職人さんにしか不可能であることは言うまでもありません。

「文化丁丑十四年」
青面金剛6臂、2童子、3猿、2夜叉、邪鬼、ショケラ、スッポン?
「かのえ申十一月■■」

 まことほんとに、素晴らしいの一言に尽きます。まず御室の枠(上の中央)に浮き彫りになっているのは何でしょうか?確証を得ませんが、スッポンではあるまいかと推量いたしました。丸い甲羅や手足の形から、そうかな?と考えたのですけれども、どうでしょう。もしスッポンなら、どのような意図で配置したのか気になるところです。御室の中に納まったお塔は、2つの部材を重ねてあるようです。下段は奥行きがあり、立体感が際立っています。

 上から見ていきます。火焔輪の上端が矩形の碑面からはみ出していて、3つの焔がみんな形を違えており、丁寧に溝を彫って燃え盛る様子を上手に表現してあります。主尊の炎髪は扇型で、これまた等間隔に溝を彫り、目はどんぐり眼、口はヘの字でよう見ますと顎髭をたくわえています。おどろおどろしい表情に身が竦みます。日輪と月輪には艶感があり、照り輝く様がよう出ています。主尊の腕は複雑に重なり、三叉戟や宝珠なども火焔輪との重なりを厭わで立体的に配されています。逆さづりになったショケラの不気味なること、これも瓦製ならではの緻密な表現です。童子は意地悪そうな表情で、陰で主尊を操っているようなしたたかさが感じられました。めいめいに円形の台座に乗っておりますのもまた、これ見よがしな感じがしておもしろいではありませんか。衣紋のたっぷりとした袂や裳裾のヒダなども丁寧に表現されています。また、主尊や童子の首周りの三角模様、主尊の衣紋の細やかなお花模様なども素晴らしいではありませんか。こんなに不気味な顔なのに花柄の衣紋を纏うとは、意外にお茶目さんです。

 邪鬼は前向きの四つん這いで、この難しい表現をものの見事に克服してあります。前脚が下の枠にかかっている点などよう工夫されています。しかもその表情が自信満々、何のこれしきといった風情で、主尊に成敗されたというよりは主尊の子分のような雰囲気がございますのも、作者のひらめきが感じられましてたいへん興味深うございます。猿の配置もまた見事なもので、横一列に並んでいるように見せかけて微妙にカーブをつけ、左右の猿は少し内向きになっています。宇宙人に見代えの表情は不気味さを極めます。両脇では夜叉がさても厳めしい立ち姿にて、猿を脅迫しているように見えます。夜叉の頭や腕が碑面をはみ出しているのもよいと思います。

 みなさんに実物を見学していただきたい、秀作中の秀作と断言できます。石造美術としての観点からは、大分県内に多数分布する庚申塔の代表作と言っても過言ではないでしょう。ただし本来の価値は、ほかの庚申塔との間に上下はございません。文化財指定の有無等によらで、それぞれのよいところ、個性を見出して比較すると、きっとたくさんの気付きがあると思います。

丁巳
文化十四年
九月十九日

 御室の銘は、庚申様の銘よりも凡そ2か月前になっています。

享保三戊戌年
奉建立庚申塔
十■月■■日

 この場所の文字塔の中も特に立派なものを1基紹介します。銘の文字が薄れてきているのが惜しまれます。これまで紹介してきた刻像塔に比べますとどうしても地味で目立ちませんが、碑面の枠取りの仕方が丁寧で、格好のよい塔です。

 

2 天神脇の庚申塔

 須平から国道10号に後戻って、直見方面に進みます。「堤内入口」信号を右折して線路をくぐり、堤内部落に入ります。道なりに行けば、道路右側に2基の碑銘と1基の庚申塔が並んでいます。駐車場所は十分にあります。提内の外の場所にも別の庚申塔があるかもしれないので、ここでは小さい地名を項目名としました(すぐ近くにある急傾斜地崩壊危険箇所の看板を見て地名が分かりました)。

元禄五丙申歳
奉造立庚申塔
霜月十五日
3猿、2鶏

 これは素晴らしい。430年近くも前の造立なのに、良好な状態を保っています。すらりと背が高く、格好がようございます。上端の3つの円は、めいめいに梵字を墨書してあったのが消えたのか、または中央のみ梵字の跡で左右は日輪月輪であるのか、判断が尽きませんでした。銘の字体はよう整うており、墨を入れてあります。下部には小さな猿が3匹、正面向きにてしゃがみ込んで見ざる言わざる聞かざるのポーズをとり、その猿に挟まれるようにして足元にはごく小さい鶏が戯れます。つまり猿、鶏、猿、鶏と互い違いになっているのです。写真では分かりにくいかもしれませんが、実物を見ればすぐ分かります。
 須平の刻像塔のように派手で賑やかな塔ではありませんけれども、たいへん貴重なものですから、今後も破損することなく永く残ってほしいものです。

 

 今回は以上です。弥生町の中でもいちおしの庚申塔を記事にすることができとても嬉しかったし、それぞれの特徴や個性を改めて認識することができました。次回は本匠村は因尾地区のシリーズの続きを書きます。

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