大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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因尾の名所めぐり その5(本匠村)

 久しぶりに本匠村を訪れて、因尾地区を中心に名所旧跡を巡りました。それで、久しぶりに因尾シリーズの続きを書きます。自然景勝地、神社、庚申塔、石仏などもりだくさんです。井ノ上から山部方面へと進む道順で書いていき、過去の記事と関係のある項目については適宜リンクを貼っていきます。

 

17 楠木の宇戸権現神社と昔の道

 このシリーズの「その3」で、「鵜戸んダキ」を紹介しました。その呼称の由来となった宇戸権現様に参拝することができました。道順が分かりづらいので、詳しく説明します。中野地区から県道35号を内陸方面に進み、小半鍾乳洞への分岐から数えて橋を4つ渡ったところが大字井ノ上は楠木部落で、ここからが因尾地区です。楠木バス停のところを左折して下り、橋の手前の右側の路肩に寄せて車を停めます。そしたら新道の橋の下をくぐって階段を下り、番匠川左岸の小道を辿ります(冒頭の写真)。途中、細い岩棚の上の通路になって段差が少し大きいところもありますが、気を付けて歩けば問題なく通行できます。しばらく歩いて行くと右側に細道が分かれて、その上に小さなお社が建っているのが見えます。鵜戸権現様に着きました。対岸の県道からは全く見えませんので、この場所に神社があることに気付かない方がほとんどだと思います。

 お社まで小道が続いているので、容易に近寄ることができます。ただし谷筋を横切ることになるので、大雨の後などはやめておいた方がよいでしょう。

 お社は比較的新しい建物です。この神社は、日向の鵜戸神宮分祀したものです。『本匠再見』によれば、宇戸権現様は今は井ノ上の天神社に合祀されており、こちらのお社はその元宮様としてお祀りされているとのことです。お乳の出ないお母さんが参拝すると霊験があると申しまして、近隣の信仰を集めてきました。

 なお、この辺り(県道の川向かい)に庚申塔があるはずなのですが、見つけられませんでした。もしかしたら神社への分岐を過ぎてなおも川べりの道を辿って行った先かなとも思いましたが、これより先はいよいよ道も乏しい状況であり、日暮れが近かったので引き返しました。県道が開通する以前は、楠木から井ノ上の宿善寺辺りまでは番匠川の左岸を歩いて行き来していたと考えられます。その道筋のどこかに庚申塔があるのでしょう。またいつか捜しに行ってみようと思います。

 

18 寄木の岩壁の石造物

 宇戸権現から一旦駐車場所まで戻って、車で県道を進みます。井ノ上部落のかかり、宿善寺を過ぎてすぐ右折し、番匠川左岸の狭い道に入って少し進むと掘割になっています。この掘割の左側(川べり)を寄木の岩壁と申しまして、対岸からの景勝が昔から有名でした。そのかかりに庚申塔が1基倒れています。路肩ぎりぎりに寄せれば、どうにか1台は駐車できます。

庚申塔

 ずいぶん傷みが進んだ庚申塔です。井ノ上部落の庚申講による造立と考えられます。「その3」の記事でも井ノ上の他の場所にある庚申塔群を紹介しています。そちらは地域内の庚申塔を集めたものだと考えていたのですが、こちらにも庚申塔が1基残っているということは、「その3」で紹介した庚申塔群は地域の庚申塔を全て集めたものではないということが分かりました。もしかしたら井ノ上部落周辺の他の場所にも庚申塔が残っているかもしれません。

 川に落ち込むものすごい岩壁です。県道の橋を渡り、井ノ上部落のかかりから川原に下りたところから眺めませんと、この景勝の真価は分かりません。ぜひ対岸から眺めてみてください。春先と紅葉の時季は特によいと思います。

 ここから岩壁の上に登ることができます。上には生目様、金毘羅様、市木のお地蔵様がお祀りされていますので参拝をお勧めしたいところですが、石段の強度が心もとのうございます。今のところ浮石や緩みはないようでしたが傷みが進んでいる様子が見てとれました。高度感もありますので、危ないと感じたときは無理をしない方がよいでしょう。

 登り着いたところに3つの石祠と、野ざらしの仏様が1体並んでいます。お参りに来る方があるようで、お供えがあがっていました。3つの石祠を左から順に紹介します。

生目八幡宮

 生目様の石祠は県内のあちこちでお祀りされています。眼科などなかった時代、めがねが庶民には高嶺の花であった時代には、特に信仰の篤かった神様です。でも「生目八幡宮」という文言はなかなか珍しいと思います。

金比羅神社

 屋根の造りが凝った石祠で、戸は開いていました。軒口に「金」の字を1字彫ってあり、中に納まる小さな板碑は「金比羅神社」、その前には小さな鳥居を立てかけてあります。下部には「◆発村中」の文字が確認できました。金毘羅様は航海や漁に関する神様のように思われていることが多いと思いますが、実際にはそれ以外の霊験も言われており、山間部でも信仰が篤かったようです。

 こちらのお地蔵様は「市木の地蔵さん」です。戸の外側に「一木地蔵」と彫ってあり、用字は違いますけれども意味は同じです。これと同じお地蔵様が、中野地区は笠掛(かすかけ)の公民館から登った小山の頂上にもお祀りされています。以前紹介しましたので当該記事をご覧ください。市木とは宮崎県は美郷町宇納間の地名です。宇納間の全長寺のご本尊で、奈良時代行基が一刀ごとに三礼をもって彫刻したというお地蔵様は、江戸市中の大家を鎮火させた霊験をもって火切地蔵・火伏地蔵として広く信仰されています。本匠村では愛宕様や秋葉様と同等の信仰を集めていたのでしょう。

 

19 小鶴の石造物(ロ)

 少し道順が飛びます。県道を虫月まで進み、三叉路を右折して大字山部に入ります。小鶴部落の手前の道路端にて、2体のお地蔵様と庚申塔を見つけました。カーブの内側なので、気を付けないと見逃してしまいます。このシリーズのその1で、小鶴部落の石造物を紹介しました。小字名が分からないので、便宜的に以前紹介した方に「イ」、今回紹介する方に「ロ」と付記します。

 不安定な立地で、地震等による転落が懸念されます。左の仏様の台座には文化7年の銘があります。右端が庚申塔です。銘は「庚申塔」のように見えましたが傷みが進んでおり、確証はありません。

 この辺りは山部の入口で、番匠川もいよいよ渓流の様相を呈してまいります。岩壁と屈曲した流れの自然美が素晴らしいので、ぜひ邪魔にならないところに車をとめて景色を眺めてみてください。ここから奥はまさしく大自然で、四季折々の景観を存分に楽しむことができます。道が悪いので運転に往生しますけれども、自然探勝をお勧めいたします。詳細は「その1」「その4」をご覧ください。

 

20 土紙屋の金毘羅様の灯籠

 小鶴をあとに、上流方面へと進みます。1つ目の分岐を右折して下り、沈み橋を渡った先が土紙屋(つちごや)部落です。沈み橋は普通車でも問題なく通れる幅がありますが、脱輪に気を付けて渡ります。

 土紙屋に着きました。数軒の家屋が残っていますが、すべて空家です。今回、土紙屋の庚申塔を見学したくて久しぶりにここまで来ました。でも地域の方に尋ねることができませんので、ヤマ勘で捜すしかありませんでした。少し時間はかかりましたがどうにか見つけることができ、それはそれは見事なお塔に感激したのですが、先に金毘羅様の灯籠を紹介します。

 この辺りに邪魔にならないように車を停めたら、車道を松葉方面へと少し歩きます。

 そう遠くないところに、折り返すように石段があります(奥から手前に歩いて来ました)。ここが金毘羅様への上り口です。

金毘羅宮 明治廿五年十月十日

 少し上ると対の灯籠が立っています。基壇を二重にした立派な灯籠です。

土佐国幡多郡
午細川村
北原亀太郎

 これは一体どうしたことでしょう。高知県の北原さんが、どのような経緯で土紙屋の金毘羅様にこんなり立派な灯籠を寄進されたのでしょうか?いろんな可能性をあれやこれやと考えてみましたが、どれも推測の域を出ませんのでいちいち記すことは控えます。

 金毘羅様は、ここからかなり登ります。荒れ気味の山道をかなり進んだところからものすごい急傾斜の石段が山の上の方まで続き、参拝は容易なことではありません。ずいぶん昔に一度参拝したことがありますが写真がないので、金毘羅様自体はまたの機会といたします。

 

21 土紙屋の石造物

 土紙屋の庚申塔を捜してずいぶん右往左往しました。どうにか行き当たりましたが、私の辿ったルートは危険を伴います。はたしてそれが本来の道筋であったのかどうかも定かではありませんが、ほかのルートだとなお危ないと思います。場所の説明は控えます。

 ようやっと行き着いて、驚きました。5基の文字塔、2基の刻像塔が倒れており、その並びには石仏やほかの石塔も倒れていました。しかもそのほとんどが良好な状態を保っています(枯葉がかかっていたので、できる範囲で払いのけてきれいにしました)。

 それにしても、土紙屋にこんなにたくさんの石造物があるとは思いませんでした。先ほどの金毘羅様もそうですが、昔の土紙屋にはたくさんの石造物や立派な石段をこしらえることができるだけの人口があったことが分かります。

右)
宝暦九卯天
奉待庚申塔
十一月十四日

中)
宝暦四戌年
奉待庚申塔
十二月十六日

左)
安永三午天
奉待庚申塔
十一月一日

 この3基は、倒れていながらも碑面の状態がすこぶる良好で、銘を容易に読み取れます。しかも下部に彫った講員の方のお名前もよう残っています。文字塔の銘がこれほど残っている事例は稀ではないでしょうか。立ったままだと前向きに倒れたりして、もっと傷んでいたかもしれません。おそらく破損を懼れて、地域の方が仰向けに倒して安置されたのでしょう。それが功を奏したと思われます。

青面金剛6臂、2鶏、3猿、ショケラ

 この場所に2基ある刻像塔のうち、小さい方の塔です。これは素晴らしい。上部が少し傷んでいるほかは、ほとんど傷みがありません。しかも主尊の立体的な彫りが素晴らしいし、丁寧な彩色もよう残っています。もはや信仰も絶えて久しいと思われますのに、これほど良好な状態を保っているのは奇跡的なことであると言えましょう。上から見ていきます。

 まず主尊のお顔の凛々しさと言いましたらどうでしょう。細い眉には墨を入れて、眼も墨で表現し、おつばの朱も丁寧に施されています。よう整うた表現に感銘を覚えました。腕の表現もとてもよく、その太さや曲がり方、重なりなど違和感が全くありません。膝や足も立体的に仕上げています。宝珠の細やかな彩色も見事なものです。安らかな表情のショケラもよいと思います。また、弓の彩色の細やかさにも注目してください。猿や鶏も、小さいながらも立体的に彫ってあります。特に丸々と肥った雄鶏のかわいらしいこと。よう見ますとトサカにもチョンチョンと朱を入れています。猿は大きなお腹で、めいめいに見ざる言わざる聞かざるにてしゃがみ込んでいます。

 なお、この塔も台座の手前に倒れていたのですが、少しぐらついていたうえに枯葉などがかかっていました。それで一旦台座の上に引き上げてきれいにしてから、もと倒れていた場所のすぐ近くに下ろして倒し、ぐらつきのないことを確認しましたことを申し添えます(その途中で写真を撮りました)。庚申様が粗末になることなく、少しでも長く状態を保つことができればと願っています。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2夜叉、2鶏、邪鬼、ショケラ

 比較対象がないので分かりにくいと思いますが、この塔はかなり横幅があって大型です。台座の手前に倒れています。重量がありますので、小さい方の塔のようにぐらつきはありませんでした。枯葉などのゴミをできる範囲で払ってから写真を撮りました。

 さて、この塔は諸像の立体感こそ小さい方の塔には及びませんけれども、たくさんの眷属を伴い、それを大型の碑面いっぱいに賑やかに配していますので豪勢な感じがいたします。本匠村に数多い刻像塔の中でも、5本の指に入るほど豪勢で立派な塔であると感じました。眷属の多い塔は相対的に主尊が小さくなりがちですけれど、こちらはものすごく大きく表現してあります。それは、猿・鶏・邪鬼を最下部に横1列に押し込めてあるからこそのことです。しめて7体もの像を横並びにするという思い切ったレイアウトであり、アイデアが素晴らしいと思いました。上から見ていきましょう。

 まず上部の庇状のところの内側が小さな弧を連ねた表現で、優美な印象を醸し出しています。月輪は三日月型で、日輪には赤い彩色がよう残ります。瑞雲は見当たりません。主尊は櫛の目の残る炎髪で、お慈悲の表情に親しみを覚えました。とても優しそうなお顔です。宝珠を掲げる手の自然な表現にも注目してください。衣紋や武器など細かいところは風化が進んでいます。でもショケラは一見してすぐ分かりました。駄々をこねる稚児のような表情で、ごく小さく彫ってあります。童子は神妙な表情で、たっぷりとした袂の装束を纏うています。細かいひだまで丁寧に彫ってあることが分かります。四つん這いの邪鬼は舌を出しています。

 下段の帯状の区画の中央は猿で、見ざる言わざる聞かざるで仲よう立っています。顔と尻どころか全身を赤く塗られた猿です。その猿を左右から夜叉が護っており、さらに外側から鶏が見守っています。夜叉や鶏は傷みが進んでおり残念に思いました。

 光背がずいぶん縦長の仏様です。その箇所に何らかの文言が墨書されていたのかもしれません。お顔の傷みが惜しまれますが、ほかは手の指に至るまで細かく残っています。

五穀神

 おそらく地神塔や社日塔と同じような意味合いでしょう。土紙屋には平坦な土地がほとんどなく耕地は僅かで、畑の作物よりも山の産物が主要な収入源であったと思われます。その分、僅かな耕地からの安定的な収穫の願いが真に迫っていたのかもしれません。

 土紙屋の石造物を見学して、山部という地域への興味関心がいよいよ増してまいりました。わたしの知らない文化財や信仰の痕跡が、もっともっとあると思います。人口の減少や昔の道の荒廃等により、それらを訪ね識る術が乏しくなるばかりですが、粗末にならないことを願うばかりです。

 

今回は以上です。次回は別府市は浜脇地区のシリーズの続きを書きます。

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