大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上真玉の名所めぐり その11(真玉町)

 明けましておめでとうございます。今年最初の記事は、上真玉地区の名所めぐりです。今回は行き方の少し難しい名所を3か所紹介します。

 

46 堀切の山神社

 大字黒土のうち堀切部落は中黒土のもっともカサにあたり、上真玉から長岩屋への峠道の途中に位置します。その山手には山神社が鎮座しており、石造仁王像や狛犬に興味関心のある方の参拝があるようです。ところが場所が分かりづらく辿り着けなかったという方もあるようなので、道順を詳しく説明します。

 大字長岩屋(豊後高田市)は天念寺のところから県道548号を上っていき、上長岩屋は一ノ払部落の三叉路を青看板「←真玉」を目印に左折します。少し上ると左側に小さな溜池があって、どうにか1台駐車できる程度に路側帯が広くなっているのでそこに駐車します。道路を横断して、簡易舗装の細道を上ります。この道は軽自動車ならどうにか進入できそうな幅があるものの、途中から車が通れなくなるうえに転回が難しいので、歩いて行きましょう。畑跡ないし屋敷跡と思しき平場が、道の左右段々になっています。その段々を見ながら、簡易舗装の道を辿ります(枝道に入らないようにします)。道なりに急坂を上っていきますと、途中から舗装が途切れます。草付の道になって、羊歯がしこっているところがあります。マダニの被害が懸念されますので参拝は冬の方がよいでしょう。羊歯を適当によけながら進み、小さな谷を跨いで左奥方向に進んでいきます。この辺りが最も迷いやすいところで、間違って右の尾根筋に上がらないようにします。

 少し行くと道筋は明瞭になります。倒木を適当によけながら進みます。

 頑張って上っていくと、右カーブするところの右奥に石祠が見えてきます。本来は正面からの参道があったと思われますが谷筋で道が途切れているので、左側から回り込むようにして近づきます。

 堀切の山神社に着きました。駐車場所からゆっくり歩いて15分程度です。道中、特に危ないところはありませんでした。尾根筋に上がらないように気を付けて歩けば、問題なく辿り着けると思います。

 山神社には石祠と壊れた灯籠、狛犬、仁王像が残っています。手前の平場はそれなりの広さがありますので、昔は拝殿もあったのかもしれません。参拝時は積雪のため、礎石の有無の確認ができませんでした。

 境内に上がり着いてはっとしましたことには、枯れ枝などが思いの外少のうございます。積雪により隠れているということもあるのかもしれませんけれども、道中の状況に比べますとずっと環境がよいように感じました。この山中にあっては地域の方のお世話も難しくなっているのではと思いますが、気にかけている方もおいでになるのかもしれません。よし興味関心のある方(地域外の方)の参拝があろうとて、その人数は知れたものでしょう。それだけであれば、もっと荒れていそうな気がします。

 石燈籠の施主は、右が中川久冶良さん、左が吉蔵さんです。

 素朴な狛犬が心に残りました。少し傾いていますが状態は良好です。親しみやすいお顔で、ちょっと上を向いていますのがなんとなくかわいらしい感じがいたします。

 お参りをしたら右に行きますと、仁王像が前後に並んでいます。おそらく本来は参道両脇ないし石祠の正面に横並びになっていたことでしょう。神仏分離の際に、隅に動かされたのではないでしょうか。

 吽形が前に、阿形が後ろに並んでいます。

 吽形は破損個所がほとんどありません。まことほんとに、この立地にあっては奇跡的とも思える状態のよさです。殊に天衣は破損し易く、この部分が折れた像を盛んに見かけます。ところがこちらは元の形をよう保っており、しかもなめらかな曲線の表現が見事なものではありませんか。髷や額の皺、大きな鼻、口許の表現なども何から何まで素晴らしい。体つきもまた写実的で、腕や手、膝のあたりの彫りも非常に優れています。大きくひだをとった衣紋も優美です。非の打ちどころのない優秀作といえましょう。

 阿形は首から上が欠損しており、おいたわしい限りです。廃仏毀釈で破壊されたのであれば吽形も同様の壊れ方をしていると思うので、これは意図的なものではないでしょう。何かの拍子にかやって折れたと思われます。当日、その折れた首のところに雪が積もっておりなおのことお可哀そうな気がいたしました。でも、かやったままにせずきちんと立て直してあるのは立派なことです。

 

○ 民話「おべん柿の由来」と「あおし柿」について

 山神社から下の道路まで後戻って、車で先へと進みます。道なりに下って行くと左側の路側帯の広いところに「おべん柿」の説明板が立っています。

 内容を転記します。

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おべん柿(豊後高田市黒土)
指定 市の木「柿」
   県特別保護樹林
樹齢 230年
高さ 16m

(由来)
 昔、黒土におべにさんという老婆が住んでいた。ある日、一人の僧がこの地を訪れ水を求めたところ、ただ一人おべにさんだけが優しく僧をもてなした。すると、僧はそのお礼に3粒の僧を手渡して立ち去った。
 その後、おべにさんがその種を蒔いたところ、見事な柿に成長し、たくさんの実をつけるようになった。これが、現在のおべん柿である。

(説明)
 この話の中に登場する旅の僧は、六郷満山寺院を開基した仁聞菩薩で、「おべにさんの柿」が訛ってお「おべんさの柿」「おべん柿」となったと伝えられています。
 おべん柿は渋柿ですが、渋抜きをするととても美味しいのでたちまち国東半島一帯に広がり、現在でも愛好されています。
 県内に現存する柿の古木としては大分郡庄内町阿蘇野の「えぶくろ柿」も有名ですが、おべん柿はこれと同年代かそれよりも古く、幹周り、高さともに大きいといわれています。
 平成17年には、1市2町の合併に際し、この原木から「市の木」を柿に指定しました。

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 この説明板の下手に原木があります。時季が適当でなかったので写真はありませんが、枝もたわわに実をつける時季は見事なものなので、ちょっと車をとめて眺めてみてはいかがでしょうか。

 ところで、国東半島一円で昔から小粒の渋柿が親しまれています。この種の柿を黒土以外の地域でも「おべん柿」と申しますので、この原木のおべん柿の種を持ち帰って植えて、それから育った柿の種をまた植えて…というようにして方々に増えて行ったものと思われます。きっと椿のお弘法様のお参りが盛んであったことと無関係ではないでしょう。昔は半島のあちこちから、歩いて黒土を訪れる方が多かったのです。

 さて、渋柿を食べる方法としては熟柿になるまで待つか、干し柿が一般的です。ほかに、今は稀になっておりますが「あおし柿」と申しまして、焼酎や風呂のお湯などを用いまして渋抜きをする方法もあります。おべん柿のような小粒の渋柿は、干し柿にしてもお味はよろしいものの、どちらかというとあおし柿に向いています。このあおし柿というものは干し柿とも熟柿とも、もちろん甘柿とも異なる、一種独特の風味がございまして、めいめいに好みは分かれますけれども、あの味を御存じの方には盛んに懐かしがられます。昔は家庭でこしらえていたのですが、あれは丁度良い塩梅に始末をするのが案外難しいようです。漬物にしても柿の始末にしても、昔の方は上手になさっていました。

 

47 堀切下組の庚申塔

 おべん柿の説明板のところに車を停めて小道を辿りますと、古い墓地に出ます。その一角に昔は堂様があったと思われる平場があって、そこに庚申塔が立っています。こちらは堀切下組の祭祀とのことですが、現状からお祀りが絶えて久しいように見受けられました。

 墓地の横を辿りますと、このように壊れた石段があります。今は竹が茂ってきていますが、昔はこの上に堂様があったのでしょう。また、写真はありませんが墓地にはお観音様の石像もあります。蓋し、古い時代の墓碑でしょう。

青面金剛4臂、2童子、2猿、2鶏 

 この庚申塔は半ばで断裂して、夫々が安置されています。風化摩滅が著しく、諸像の姿もだんだん薄れてきています。今のところ輪郭線はどうにか分かりますが、今後傷みが進めばそれも難しくなるかもしれません。

 竹に隠れがちにて、見つけにくいかもしれません。見学したい場合は、先ほど申しました壊れた石段のあたりを注意深く捜してみてください。

 

48 萩原の山神宮

 少し道順が飛びます。堀切を下って三叉路に出たら左折して、市街地方面に下ります。大字城前(じょうのまえ)まで来ましたら、大岩屋方面への分岐のところを左折して旧道に入り、その半ばで左折して橋を渡ります。以前紹介した寄四国霊場はその先を左折しますが、そちらには行かずに道なりに直進します。坂を上ったところが上城前のうち萩原部落です。

 萩原部落を過ぎて道なりに上っていきますと、右側に鳥居が見えます(写真にも写っています)。道路から少し離れているので、車からだと見落としてしまうかもしれません。この道は普通車までなら通れますが近くに適当な駐車場所がありません。ですから、少し離れていますが寄四国の近くの墓地のところに邪魔にならないように停めて、ここまで歩いて来る方がよいと思います。右側に気を付けながら歩けば、鳥居を見落とすこともないでしょう。

山神宮
奉寄進花表柱 氏子中
安永二癸巳九月吉日

 鳥居は笠木の反り具合などがよいと思いますが、貫の中央に大きなひびが入っており、破損ないし脱落が懸念されます。当該箇所の補修が必要です。

 この辺りから竹林が荒れに荒れて、参道がだんだん通りづらくなってきています。適当に竹をよけて進みます。

 この石段は、参拝時は途中1段だけが壊れていましたけれども、特に危険を感じるほどの状況ではありませんでした。ただしこの環境ですから、今後ますます荒廃が進み、石段がさらに傷む可能性も考えられます。

 石段を上ったら平場に出ます。竹が茂って荒れているものの、本来はそれなりの広さがあったと考えられます。正面には対の仁王像が睨みをきかせています。こちらは場所が分かりづらく、見学に訪れる方は稀でしょう。しかし思いの外状態がよく、造形的にも優れていますから、興味関心のある方は足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

嘉永元年氏子中

 阿形は髷以外は完璧な状態で残っています。迫力満点のお顔はずいぶん怖い感じがいたします。けれどもその立ち姿、特に右手の所作などになんとなく愛嬌が感じられるではありませんか。よう肥った体で脚は短く、トコドスコイドスコイなぞと相撲でも取りそうな雰囲気です。

奉寄進土谷貞吉

 吽形は鼻を欠きます。それ以外はほとんど傷んでいません。やはり怖いお顔立ちで、いかり肩や上腕の力こぶなど、勇ましい感じがよう出ています。台座が大きく傾いており、かやりはしまいかと心配になりました。

 対の仁王さんは、周囲が荒廃する中で物言わで立ち続け、神社を守ってくださっています。地域の方も、人口の減少や高齢化が著しい中でお世話が大変になっていると思われます。興味関心のある方の見学が増えますと、これ以上の荒廃を防ぐ助けになるかもしれません。見学される方が、倒れかかった枯れ竹を取り除けるなどされるだけでも違うと思います。

 仁王さんの間を通って先に進むと、右側に壊れた石祠があります。扉には「奉」の字と「山神」の字が確認できました(ほかは苔で読み取り不能)。こちらが山神社であることが分かりました。立派な鳥居や仁王さんまで伴うのですから、昔は拝殿もあったのではないでしょうか。

 山神社の石祠の辺りから左を向くと、石組の上にひときわ大きい石祠があります。確かこちらは金毘羅様であると聞いたことがあるような気がしますが、私の記憶違いかもしれません。やはり荒廃著しいものの、かなり立派な造りであり、かつては地域内外の信仰が篤かったと推察されます。

 こちらは狛犬がほんに個性的で、おもしろうございます。興味関心のある方には見学をお勧めします。正面から見ますと平べったい体つきで、前脚から後足にかけて曲線と渦巻き模様が連続的に施されています。これは唐獅子を簡略的に表現したものでしょう。優秀作とは言い難いかもしれませんけれども、石工さんのアイデアが感じられる、興味深い作例です。

 この石祠はお屋根の造りがまことほんとに素晴らしい。木造のお宮を模したお細工は非常に手が込んでいます。

 横から見てもこのとおりです。

 さて、最後の最後に種明かしをしますと、私は当初、あの道路右側の鳥居に気付きませんでした。先へ先へと車で進んでいき、上の写真の場所まで来ました(奥から手前に進んできました)。この左側には小屋があります。インターネットの情報を参考に、小屋の横を歩いて下りましたが、道なりに行くと椎茸の栽培をしているところに出て通れません。それで、右側の尾根筋を進んでみたのですが、これがものすごい竹藪、もう荒れに荒れて荒れ放題です。ほんの少しの距離を通るのにも難儀を致しましたが、友人と声を掛け合いながらどうにかこうにか進みました。ところが行けども行けども、何もありません。残念に思うて引き返しかけたところ、左下にあの大きな石祠が見えました!ヤレ嬉しやで強引に斜面を下って、無事山神社に行き当たったというわけです。

 こんなふうに行きつ戻りつ、迷いに迷うてやっと辿り着くことも多々ありますし、往生した挙句に行き着かなかったということもあります。分かったようなことを書いていますが探訪時はこんな始末ですよということで、ちょっと経緯を書いてみました。

 

今回は以上です。次回は豊後高田市の記事を予定しています。

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