大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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長谷の名所めぐり その5(犬飼町)

 今回は、前回からの続きで三ノ岳の名所を紹介します。前回の中ほど、21番から続けて読んでいただくと分かりやすいと思います。

 

23 三岳道路開通記念碑

 前回の末尾にて紹介した三ノ岳の地蔵堂から上の車道に引き返しまして、鋭角に右折します(麓からなら直進)。まだしばらく狭い道が続きます。なかよしパークが賑やかだった頃はさぞや離合に難渋したことでしょうが、今はほとんど通りがありませんので、そこまで困ることはありません。

 いよいよ山頂も近く、景色が開けてきますと二股になります。標識によれば右は駐車場、左は水ノ元です。右に行った先の駐車場は少し遠いので、左に行った方がよいでしょう。左の道を進んでいけば右側に道路開通記念碑が立っており、その辺りから、冒頭の写真の景観を楽しむことができます。車は、このすぐ先の右側の広場に停められます。

昭和四十九年五月竣工
三岳道路開通記念碑
犬飼町長後藤栄書
 元三ノ岳在住者(19名)

 基壇には元住民の方のお名前が19名分彫ってあります。男性名ばかりなので、全員ではなく1世帯あたり1名ずつということでしょう。もう少し早い時期に道路ができていたら住民の方の苦労も少しは軽減できたのでないかと思わずにはおられませんで、部外の者ながら歯痒い気持ちもございますが、記念碑に住民の方のお名前を記したのはそのことに思いを致してのことかと存じます。その意味でも、この記念碑は意義深いものであるといえましょう。

 このブログでは、このような新しい碑銘の類に単独で項目を設けることはしてきませんでした。しかしこの記念碑の場合は、前回説明した三ノ岳部落との関連性がありますので特別に項目を設けた次第です。

 

24 三ノ岳の尺間様

 前項にて申しました場所に車をとめて、車道を歩いて後戻りますと右側に尺間様の参道入口があります。

三ノ岳尺間嶽
平成六年二月吉日

 参道入口のプレートは一見して山名を2つ連ねてあるような感じがしますけれども、この「尺間嶽」には、単なる山名というよりは霊山、信仰の対象としての意味合いがあります。いつ頃のことかは存じませんが、弥生町の尺間様を勧請してお祀りしたのでしょう。

 この参道は、入口のところは車道開通に伴い付け替えてありますが、ほどなく古い石段が長く続きます。先月歩いたときは1段のみ傾いていましたがぐらつきはなく、ほかはほとんど傷みがありませんでした。古い石段は150段以上もあり、これは尺間様を信仰する方が大昔に運び上げて寄進した石材にてこしらえたそうです。今のような道路もない時代に、重たい石材を運ぶのは容易なことではなく、よほどの信心によるものでしょう。

 石段を上り詰めた正面に立派な覆い屋が建っており、その中には石組の上に尺間権現の石祠、両脇には大日様の坐像と、立像(詳細不明)がお祀りされています。境内は手入れが行き届き、今も信仰が篤いようです。『三の岳の記録』によりますと三ノ岳以外にも信者が多いとのことで、かつて盆と正月には三ノ岳の方が掃除をして、お花やお飾りを備えてお経をあげお祀りをしていたそうです。

 なお、昔は三ノ岳部落内もしくはその付近に尺間神社があったそうです。現在上の写真の場所にお祀りされている石祠は、その奥の院であったのかもしれません。

 向かって左側の仏様です。残念ながらお顔と腕が傷んでおり、どの仏様か分かりません。尺間権現の本地仏は十一面観音様とのことですが、この仏様は違うと思います。お不動様でしょうか?

 下の枠の中には、曲がりくねった木に1羽の鳥がとまっている様子をレリーフ状に表現してあります。これと似たような表現を石塔の格狭間などで稀に見かけますので、何らかの意味があるものなのでしょう。

 向かって右側の仏様は、残念ながら首から上が欠損しています。しかし手の様子から、こちらが大日様であることは明白です。牛馬の守り本尊として信仰が篤く、縁日は盆正月の28日とのことです。

 参拝して参道を振り返りますと、この踏面の狭い石段を下るのに気が引けまして、別の道を探すことにしました。石祠を向いて右側の道は通れなかったので、左に行ってみますと天文台の方に抜けられました。たいへん見晴らしがよいので、もし参拝される場合は少し左の方に行ってみてください。

 

25 三ノ岳の景勝と天文台

 冒頭にて道路記念碑の辺りからの風景を紹介しましたが、あれよりももっと眺めがよいのが尺間様から天文台に抜ける通路からの風景です。

 いかがですか。山と谷の織り成す大野地方ならではの複雑な地形が一目の景勝地です。天候にもよるとは思いますが、近隣在郷でも指折りの景観ではないでしょうか。歩く距離は知れており簡単に訪れることができますので、みなさんに探勝をお勧めいたします。

 この立派な天文台が長らく閉鎖されており、周囲も荒れてきているのは残念なことです。この天文台からは犬飼星を眺められるとのことで、以前は一般の方も利用できていました。犬飼星と申しますのは彦星の別名です。これが犬飼町の「犬飼」に通じますので、犬飼星が特にきれいに見えるということを売りにしていたのでしょう。いつか再開できれば、地域内外の子供達の自然学習の場としての活用が期待されます。

 

26 水ノ元の霊場

 天文台のところから通路(車道ですが閉鎖されています)を辿れば、回り道ですが安全に駐車場所まで戻ることができます。もちろん、気を付けて下れば尺間様の参道から戻っても全く問題ありません。好きな道順で戻ったら、車に乗らずに駐車場所を少し通り過ぎます。ほどなく、左側に水ノ元の霊場があります。ここは三ノ岳周辺を訪れる際には必ず立ち寄るべき名所中の名所です。

 見事な大杉がつっかい棒で支えられています。そのねきにはお弘法様がお祀りされ、すぐそばの井の子からは滾々と水が湧いています。お弘法様のお水は涸れることを知らぬと申しまして、近隣在郷からは雨乞いの信仰が篤かったそうです。

 

○ 栗ヶ畑の雨乞いについて

 『三の岳の記録』には、大字栗ケ畑の雨乞いの様子(阿南芳美さんへの聞き取り)が記されています。内容を簡単に記しておきます。

○ まず氏神様の参道両側に松明を焚いて祈願する。それでも降らないときは村の代表が竹筒にお神酒を入れ、お供え物を持って三ノ岳に登って祈願をする。
○ 三ノ岳から村に帰った代表は、お神酒を水の取り入れ口に注ぐ。その後、お神酒と肴で、村人総出で降水を祈った。
○ 雨が降れば「うろいよこい」といって農作業を1日休みにして氏神様に感謝し、お座をした。
※うろいよこい うろい=潤い、よこい=休み

 お弘法様のほかにも数体の仏様がお祀りされており、霊場を形作っています。夫々きちんとお供えがあがっており、信仰の篤さを物語ります。どなたでも自由にお水が汲めるようにしてくださっていますが、環境保全にはことさらに留意したいものです。

 

○ 民話「水ノ元の伝説」

 水ノ元には弘法大師伝説があります。お弘法様が杖で突いたところから水が湧き始めるという内容です。他地方にも類似する内容が伝わっております。いったいどのような経緯で類似する民話が遠隔地に伝わっているのか、たいへん興味深いではありませんか。民話や伝説に関する勉強もしてみたやと思いながら、なかなか時間がなくままならないのが残念です。

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 大同元年のことです。弘法大師様が三ノ岳を訪れました。お弘法様は麓から登ってきたので、喉が渇いて仕方がありません。ちょうど村の人を見かけたので、水を所望しました。すると村の人は、「すぐお持ちします」と言うやすぐさま、はるか下の谷まで駈け下りていくではありませんか。水の入った竹の筒を持ち、ふうふう言いながら汗びっしょりになって坂道を上ってくる姿を見て、お弘法様はこの土地の人が水に苦労していることを悟りました。

 差し出された水を一気に飲み干したお弘法様は、村の苦労を思いやり、水のお礼に杖で地面を数回突きました。すると、不思議なるかや、ここは山の上なのに清水が滾々と湧き出てきたではありませんか。爾来、この土地には水の絶えることがありません。ありがたい、お弘法様のお水は雨乞いに霊験があると評判になり、今では麓の村からもお水もらいに来ています。

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27 三ノ岳の辻の道標

 車に乗って水ノ元を通り過ぎ道なりに下りますと、辻に出ます。その辻の角に古い道標が立っています。

右 たは(以下欠落) ※変体仮名
左 川原内
  ふな(以下欠落)

 右の「たは」は、変体仮名なので私の読み間違いの可能性があります。「太」に似た字は「た」のはずですが、その下の字は今ひとつ自信がありません。おそらく「者」をくずした字で「は」ではなかろうかと思います。そうであれば、欠落部分はきっと「ら」で「たはら」、つまり犬飼町田原のことでしょう。

 左の川原内は、大分市河原内ではないでしょうか。昔は川原内の用字も通用していたのかもしれません。「ふな」は「ふない」、つまり「府内」ではなかろうかと推量しました。

 つくづく考えるに、この道標が元々この場所にあったのか、甚だ疑問に思います。それと申しますのも今この場所は辻になっていますが、それは車道開鑿後のことと考えるのが自然です。しかも右左の方向もちぐはぐです。どこか違う場所にあったものを、何らかの事情で移したのではないでしょうか。

 この道標は、上に8臂の坐像が浮き彫りになっています。残念ながら傷みがひどく、仏様のお顔はまるで分からなくなっています。ときどき、仏像や庚申塔と道標とが合体したものを見かけます。それは、歩いて旅をしていた時代には道中の安全祈願がよほど真に迫っていたからであるのは言うまでもありません。

■■四年 辰 正月吉日
楠郡 上旦村
梅■■
女ふじ

 あっと驚きました。楠郡とは玖珠郡に違いありません。上旦村と申しますのは九重町の地名です!どうして上旦の方がこんなに遠いところの道標を寄進されたのでしょう。経緯を考えても全く思い浮かびませんでした。まさかこの道標が上旦にあったわけではないと思います。なお、「上旦村」の下の「梅」の字は、崩し字で彫ってあるので私の読み間違いの可能性もあることを申し添えます。その下の2文字は読み方が分かりませんでした。

 道標のすぐそばに立つ角柱です。上に何かの文言が彫ってありますが、読み方が分かりません。

 

今回は以上です。次回は大字栗ケ畑の名所を紹介します。石幢や庚申塔など、興味深い石造文化財がたくさん出てきます。

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