大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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長谷の名所めぐり その4(犬飼町)

 先日、大野地方を訪ねました。それで、今回からしばらく大野地方の記事を掲載していきます。まずは長谷地区のシリーズの続きを、3回から4回程度に分けて投稿します。

 今回からは大字黒松のうち三ノ岳周辺や大字栗ケ畑・山内の名所をメインに、大字柴北・高津原の名所も少し掲載します。まことほんとに長谷地区は名所だらけ・文化財だらけで、しかも自然環境がすばらしく、楽しい道中でした。

 

19 柴北熊野社

 柴北熊野社には壮麗な社殿をはじめとして磨崖字、狛犬などたくさんの文化財があるほか、広々とした境内の自然景観もすばらしく、ところの名所です。みなさんに参拝・見学をお勧めいたします。

 道順を申します。県道57号沿いに「トンネルを抜けると長谷だ!」の看板があります。それを目印に県道632号に入り、トンネルを抜けてずっと道なりに行きます。熊野神社の道標の角を左折して橋を渡れば、正面に参道入口があります。車は、少し左に行ったところから境内に上がる簡易舗装の道があるのですが、その入口のところに1台はとめられます。

 参道の入口に立ったとき、景観・雰囲気の素晴らしさに感激しました。何より参道両脇の木の大きいこと大きいこと、樹齢何年でしょうか。葉が落ちていたので、樹形の美しさがよう分かります。もちろん青葉若葉の時季もよいでしょう。何度でも訪れたくなる場所です。

 さて、ここに『犬飼町誌』を読んで分かったこの神社の由来を簡単に記しておきます。詳しい内容を知りたい方は、図書館で同著を閲覧するか、ながたに振興協議会のウェブサイト(外部リンク)を参照してください。

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○ 現存する棟札のうち最も古いものによれば、享保8年2月に熊野大権現社頭を造立した。明治42年4月19日には近隣の神社を合併している。
○ 合祀は以下のとおり
  大字柴北字井の元 奥津彦命・埴安命
  同字シバノヲ 菅原神
  同字市 大歳神
  同字岩下 大己貴命
  大字高津原字歳ノ神 大歳神
  同字今宮 保食命
○ 祭神行事は、祈願祭が旧4月18日、例大祭が旧10月28日と29日、霜月祭が旧11月18日。例大祭には獅子6頭(柴北・高津原・黒松)と羽熊(三の岳)が出る。山車を沈み橋のお宮側から斜めに川の中を曳き、渋谷一利氏さん宅の母屋の前に曳き上げ御旅所まで行き、翌日反対方向に曳いて御還りをしていた。

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 上記のうち、祭礼行事は様子が変わっている可能性があることを申し添えます。

 灯籠が立派です。宝珠のふっくらとした感じと、尖端へのすぼまりがよいし、基壇を五重にしてあるので重厚感があります。竿が短めでややずんぐりとしているのも、段々になった基壇とよう馴染んでおり、塩梅がよいと思います。

 狛犬は唐獅子で、細部まで丁寧に表現されています。特に足の爪や胸のあたりがよいと思います。お顔が大きく、迫力満点でほんに強そうな感じがするではありませんか。斜めを向いて、参拝者の方をジロリと見て睨みをきかせています。

 吽形の方は、つぶらな瞳の所為でしょうか、なんとなく愛嬌があって親しみ深うございます。作者の意図からは離れるかもしれませんけれども、可愛らしくてチャーミングで、心に残りました。

 参拝時には天井画を忘れずに確認してください。残念ながら経年の色褪せはいかんともしがたいものの、非常に風雅な絵が多く、立派なものです。近隣でも屈指ではないでしょうか。

 社殿の建築も素晴らしい。さすがは旧村社と思いましたが、同等の社格を有する神社の中でも頭一つ抜きん出た、見事な造りです。妻や軒口に施されたものすごく繊細かつ豪勢な彫刻は、ほとんど傷んでいません。組物も豪華で、匠の技の結晶の感があります。この社殿をこしらえた宮大工さんの技量たるや、いったいどれほどの修練を重ねてきたのか想像もできません。

 脇障子の彫刻も素晴らしく、繊細な彫り、細やかな表現にため息が出ます。木彫りというものは、ひとつ彫り間違えれば取り返しがつきません。特に上の方の松の枝のところなどは、ずいぶん難しい彫り方をしています。慎重に、一つひとつ丁寧に彫っていく昔の職人さんの姿が目に浮かぶようです。

 反対側もこの通りです。まさに芸術作品といえましょう。参拝時には必ず見学していただきたいと思います。時間に余裕をもって参拝し、細かいところまでゆっくり観察してみてください。きっと、多くの方が見惚れてしまうことでしょう。

 説明板の内容を記します。

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柴北熊野社
○ 崖に彫られた巨大文字
 柴北熊野社は1909年(明治42年)に柴北地区周辺の9社の合併により誕生した神社ですが、社殿の棟札からは、江戸時代中期にはすでに神社が存在したことがわかります。社殿の背後の崖には「熊野宮」の3文字が大きく彫られています。この文字は、整形した崖面に丸彫りで深く彫られており、古老の言い伝えなどから、江戸時代末期にこの地区に住んでいた名石工の二代目後藤郷兵衛によって彫られたと推測されます。
 文字が彫られている崖は、約9万年前に阿蘇火山(阿蘇カルデラ)が4回目の巨大噴火を起こした際に流れ出た火砕流が冷えて固まった、溶結凝灰岩という岩でできています。火砕流とは高温の軽石や火山灰、火山ガスなどが高速で流れ出る現象です。火砕流が冷えて固まる際、しばしば柱状節理という縦の割れ目が入りますが、この場所では柱状節理ができなかったため、非常に滑らかな崖となっています。崖のうち下から3分の1ほどの部分には横方向の縞模様が見られますが、この部分は火砕流が流れる前に空から降り積もった軽石や火山灰の地層からできています。この層の境界部分が水を通しやすいため、崖から常に地下水が流れ出ています。

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 「野」が異体字なので一見して分かりにくいと思います。確かに「熊野宮」と彫ってあります。実に堂々とした、力強い字形ではありませんか。この立派な岩壁を依代と見做したのかなと推量しました。

 なお、この磨崖字は一時期は植物に隠れて全く見えなくなっていたものを、平成28年から同29年にかけて地域の方々が環境整備をしてくださったとのことです。お陰様で容易に見学できました。

 磨崖字は社殿の右奥にあります。左奥の坂道を少し上れば、写真のように岩肌から水が滲みだしているところに出ます。委細は先ほどの説明板の箇所をご覧ください。

 水が湧いているところの左側には、人為的にこしらえたのではないかと思しき矩形の岩屋があります。昔は何かをお祀りしていたのでしょうか。

 参拝を終えて参道を下るとき、田んぼの向こうに民家が見えます。のどかな風景にほっといたしました。

 

20 ウソノヲの磨崖庚申塔と石仏

 熊野社から県道に返って黒松方面に進みます。大字高津原は山田部落に入ると、道路右側に天満社が鎮座しています。その手前を右折します。右折してすぐ二股になっているので、これを右にとります。なお、三ノ岳方面に行くときはこれを左にとります。

 さて、二股を右にとったら道路左側の岩壁によく気を付けて徐行してください。ほどなく磨崖仏(おそらく磨崖庚申塔・後述)や小型の石仏が目に入ります。このあたりの字をウソノヲというそうです。車は路肩ぎりぎりに寄せて停めるしかありません。

 岩壁手前の平場は旧道敷で、舗装されています。この下段には現道が通っており、ご丁寧に旧道敷に上がるための通路を作ってくださっていますので、容易に近づくことができます。

 岩の窪みに嵌まり込むように安置された石仏は、お顔の表情こそ読み取りづらくなっているものの概ね良好な状態を保っています。紀年銘がもともとないのか、見落としたのかわかりませんけれども、いつ頃のものかは分かりません。たっぷりとした袂のふくらみが上品で、全体的に細やかな表現がなされています。

青面金剛6臂、ショケラ、鶏(猿は不明)

 こちらは文化財に指定されておらず、ながたに振興協議会のウェブサイトなどを見ても情報がなく、詳細が分かりません。けれども磨崖仏に興味関心のある方は、地域外にお住まいでもご存じの方もおいでになるようです。私は、こちらは一般的な磨崖仏というよりは磨崖の庚申塔であろうと推量します。この像は、像容や持ち物から青面金剛であり、下部には傷みがありますが左下の隅の方に、鶏と思しき小さな像が確認できました。おそらく猿ではあるまいかと思しきところもありますが風化摩滅によりそう見えるだけかもしれず、猿の有無は不明です。庚申塔を磨崖でこしらえた事例としましては、大野地方では稀であり私は他を知りませんが、他地方におきましては香々地町に作例があります。大野地方においても、国東半島同様に磨崖仏が多数見受けられますから、庚申塔を磨崖でこしらえるという発想があっても不思議ではありません。

 それにしても、こちらは主尊の彫りがすこぶる丁寧で、しかも全体的によう整うておりデザイン的に優れています。指先まで丁寧に彫っているほか、線彫りに近い弓や矢も実物を見ますとすぐ分かります。なんだか土偶のようなお顔立ちが、語弊がありますけれども不気味な感じがしまして、神怪しき力を持っているような雰囲気が伝わってきます。ここは山田部落の外れの方ですし、かつては利用頻度が高かったと思われる道路沿いにて、庚申塔の所在地としても納得できる場所です。作の神というよりは、賽ノ神としての信仰でありましょう。

 

21 三ノ岳部落

 磨崖庚申塔のところから二股まで引き返して、鋭角に右折して柚河内方面に行きます。しばらく行くと、左側に虎御前様(宝篋印塔)への参道入口があり、その脇に庚申塔があります(その2で紹介しています)。庚申塔を過ぎて、「三の岳なかよしパーク」の標識に従って道なりに上っていきます。ほどなく中央線がなくなり、九十九折の急坂になります。この道はなかよしパークが閉鎖されて以降は利用頻度が激減し、転石や落ち葉などの堆積物により実際よりも道幅が狭まっています。見通しも悪いので運転に注意を要しますが、普通車までなら問題なく通れます。

 途中、左側に大展望が開ける場所があります。なおも上れば一旦ゆるやかな下りに転じ、木森の中の道になります。しばらく行けば二股のところに「三ノ岳地蔵堂→」の看板が立っていますので、それを目印に右折して急坂を下ります。この脇道も普通車までなら通れます。

 地蔵堂に下り着く手前に、1軒の廃屋が残っています。ここ三ノ岳部落は、今は無住になっており耕地も屋敷跡もすべて山林の様相を呈していますが、かつては20軒ほどの家がありました。元お住まいだった方々が里に下りて久しいものの、地蔵堂(次項)や尺間様(次回紹介します)の信仰は続いているようです。

 三ノ岳部落について、ながたに振興協議会教育文化推進部会による『三の岳の記録』という書籍があり、同協議会のウェブサイトにて誰でも自由に閲覧できます。県内各地に、無住になった部落がありますが、その殆どが市町村誌にも記載が乏しく、年月の経過により生活の痕跡も乏しくなるばかりです。その意味で、同協議会がこのような書籍を作成されたことはたいへん意義深いと思います。たしかに三ノ岳には、人の暮らしはなくなっています。けれども、地蔵堂や尺間様は元住民の方のお世話が続いていますし、書籍の発行により、生活の記憶・記録は永久に残ります。ですから、よし耕地跡や屋敷跡が荒廃しようとて、「廃村」と呼ぶのは憚られます。

 ここに、同著から分かった内容を簡単に記しておきます。産業や生活の様子、昔の思い出話などをもっと詳しく知りたい方は、ウェブサイトにて同著を閲覧してください。

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○ 部落は東西の土居に分かれており、昔はあわせて20軒以上あった。大正10年、当時26軒あったうちの10軒が全焼する火事があり、この時点で転出者が出始めていた。戦後、復員してきた人で一時は賑やかになった。しかし数年のうちに過疎傾向が強まった。昭和47年には行政区「三の岳」が廃止となった。しかしその後も数軒は残っていたし、椎茸の作業などで元住民が通ってくる例もあった。
○ 産業は、野菜や柑橘類、椎茸、林業、畜産(牛)、たばこなど。気候がよく、玉ねぎなどはできがよく近隣でも評判の産地であった。牛も有名であった。水田もあったが急傾斜の土地で苦労が大きく、収穫量も多くなかった。大正末期には養蚕も盛んであったが戦後に廃絶した。
○ 分教場がなく、長谷小学校まで長い長い坂道を歩いて通った。道が悪く草履がすぐだめになるので、子供の頃から自分でこしらえていた。行きはずっと下りだが、帰りは上り坂が続き難渋した。中学校が統合してからは犬飼中学校に通うのに難渋し、町の方に住む親戚の家に下宿させる例が増加した。高校通学の困難さはなおのことで、通学問題が特にネックになった。戦後、子供の通学のことを考えて里に下りる家が増えた。
○ 昔は水汲みに苦労した。水場に近い家でも1回10分、遠い家では1回30分もかけて水を汲んでいた。1日あたり5荷も6荷も担ぎ上げる労力は並大抵のものではなく、水を大切にしていた。
○ 三ノ岳部落に住民がいなくなったあと、昭和52年に車道が開通した。ご来光を拝みに、多くの若者が山頂を訪れるようになった。なかよしパークも開園し、町内外からのたくさんの親子連れで賑わった。頂上付近の道路沿いの桜並木は、元住民の方々の厚意により植えられたものである。

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 屋敷跡のそばで、石祠を見かけました。屋敷神でしょうか。道路端なのですぐ目につきます。

 

22 三ノ岳の地蔵堂

 先ほど説明した脇道を下り切ったところに地蔵堂があります。この堂様の前身は金倉寺というお寺で、元は別の場所にあったそうですがそのお寺が廃絶したので、御本尊のお地蔵様(愛宕様)を移してお祀りしてあるそうです。

 祭日は正月と8月の24日で、盆踊りや獅子舞があったそうです。また、この記事の冒頭にて申しました柴北の熊野社のお祭りでは、三ノ岳の方々により羽熊練りが行われていました。

 このように境内は立派に整備されており、枯れ枝ひとつ落ちていませんでした。車はここまでしか入れませんので、参拝・見学の際には坪に停めます。転回もできます。どなたでも自由に参拝できるようにしてくださっています。中の写真はありませんが、立派なお地蔵様がお祀りされています。ここでは坪に並んでいる石造物を紹介します。元々この場所にあったものもあれば、部落内のほかの場所から移されたものもありましょう。

 五輪塔は積み方がちぐはぐなものも見受けられます。中にはわりあい大きめの、立派なものもあります。また、左端に写っている五輪塔には宝篋印塔の笠が挿み込まれています。

 宝塔は首部が長く、塔身は下膨れにて素朴な印象を受けました。相輪は失われ、基壇以下も完成系ではありません。元々はそれなりに大きなものであったと推察されます。

 坐像は2段重ねの基壇に乗り、立派にお祀りされています。文政年間の紀年銘を確認しました。状態は良好で、お優しそうなお顔の表情まで容易に読みとれます。

 こちらのお地蔵様は、切れ長の目、眉の形などほんに上品な感じがして、特に心に残りました。文政2年の銘があります。御室に収まっていることもあるのでしょうか、江戸時代のものとは思えないほどの保存状態に感嘆しました。

 こちらの列も壊れたものや積み方がちぐはぐなものが目立ちます。けれども、部材ひとつに至るまで粗末にすることなく、きちんと並べてあることに感心しました。宝篋印塔は相輪が壊れており、その壊れた相輪を上下逆さまに立ててあります。

 

今回は以上です。心に残る名所ばかりでしたので長い記事になってしまいました。次回もこの続きを書きます。

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