大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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三重の名所・文化財 その16(香々地町)

 先日、香々地町真玉町をめぐりました。それで今回は、大字上香々地は長小野部落から竹田川を隔てて対岸にあたる字上ノ平および下ノ平の墓地周辺で見つけた石造文化財を紹介します。特に下ノ平の山中で見つけた庚申塔は、今回の目玉です。これは『香々地町誌』や『香々地町庚申塔』『豊後國香々地荘の調査』にも記載がなく、おそらく調査から漏れていたものと考えられます。上ノ平の庚申塔は今回も見つけられなかったのですが、それを捜す過程で全く想定外の庚申塔に行き当たったというわけです。

 さて、長小野部落の対岸の墓地は、斜面に沿うてかなりの広範囲に展開し、大きく4群に分かれており夫々に石造文化財が多数所在しています。その一部は前々回の51番で紹介しておりますので、あわせてご覧ください。

 

55 下ノ平の石造物・イ

 先ほど申しました、前々回の51番にて説明したところに車をとめたら、川べりの道を下流方面に歩いていきます。するとほどなく、左側の崖に六地蔵様と三界万霊塔が並んでいます。字の境界が定かではありませんが、おそらく下ノ平のうちと推量しまして、便宜上「下ノ平の石造物」としました。

 獣害防護柵に阻まれておりますし、そもそも段差が高いので近寄ることは困難です。でも、道路からでも容易に見学できます。

 明らかに人為的にこしらえた岩棚の上に六地蔵様がずらりと並び、その上には大岩が屋根のようにかかり、岩屋を形成しています。非常に印象深い光景であります。はっとしたことには、両端に木材をあてごうてつっかい棒にしてあるではありませんか。大岩がかやってお地蔵様が破損することを懼れての処置であることは明白ですが、こんなに細い木材であの大岩を支えられるのか心配になりました。きっと地域の方が、お地蔵様が粗末にならないように精一杯の対処をされたのでしょうから、大岩が金輪際動くことのないように願うてやみません。

 それにしてもこちらの六地蔵様は、めいめいにきちんと所作を違えており、衣紋の袖の襲などもふっくらと仕上げており、なかなか手の込んだ作例であると存じます。残念ながら頭部が破損していたり別石ですげ替えたと思われる像が目立つ中で、右端のお地蔵様は特に状態が良好です。拝見いたしますとお顔の彫りまでよう整い、お慈悲の表情に心が救われる気がしました。

安政三年
三界萬霊塔
二月■■

 三界万霊塔は、苔で下半分が見えづらくなっています。銘は、末尾以外はどうにか読み取れました。三界万霊塔は、簡単に申しますと生きとし生けるすべてを対象に、そのお供養を願うたものでございます。この種の石造物は方々で見かけますのでややもすると等閑視されがちな気がしますけれども、その目的・願いを考えますとほんにありがたいお塔でありますと同時に、現代社会を生きるわたし達に何か大切なことを示唆しているような気がします。

 

56 下ノ平の石造物・ロ

 六地蔵様や三界万霊塔をあとに、車道を進みます。左の獣害防護柵越しに五輪塔などが見えます。少し進めば、路側帯が広くなっているところに出ます。

 ここから左の柵を開けて向こう側に抜けられるようになっています(必ず元通りに閉めてください)。あとで紹介しますが、山の上の方には庚申塔もあります。

 対岸には前回紹介した日枝神社狛犬が見えます。こちら側の車道が開通したのは昭和に入ってからのことだそうです。それ以前は、神社の辺りから堰ないしトントン橋を渉って行き来していたのでしょう。

 柵の向こう側は墓地で、数段に分かれています。その最下段には壊れた五輪塔や宝塔ないし国東塔の相輪などがかなりの数散らばっています。

 今は竹が生い茂り、かなり荒れています。元通りに積み直すことは困難でしょうが、ざっと見たところ10基や20基の規模ではありません。これらはかなり古い時代のめいめい墓でありましょう。小型の板碑の残欠と思しき石材も確認できました。

 壊れた五輪塔群の1段上には国東塔が立っています。下の車道から柵越しに見えるのですが、墓地の中からだと見落とし易いと思います。それにしてもこの立地にあっては、竹の影響でかやりはしまいかと心配になりました。

 この塔は相輪以上を欠き、五輪塔の部材ですげ替えてあります。笠の軸がぶれているほか基壇の傷みもひどいのが惜しまれますが、それ以外は元の姿をそれなりによう残しております。請花を省いて塔身から反花がなめらかにつながっており、この部分が特によいと思います。反花は二重花弁で、そのふっくらとした風合いがよう出ています。基壇の格狭間は各面あて2区画ずつで、やや薄れてきているものの今のところは形が分かります。

 墓地の最上段には立派な墓碑が横並びになっており、その入口には六地蔵様が並んでいます。立像は全部で7体あり、1体は頭部を欠きます。六地蔵様なのに7体とはこれいかにと思われるかもしれませんが、稀にこのような事例があります。六地蔵様と能化様(六地蔵様を統べる仏様)の7体が並んでいるのを数か所で見たことがあるので、こちらもそうではなかろうかと推量いたします。ただ、7体のうちどちらが能化様にあたるのかは判断できませんでした。物言わでたたずむ仏様はお優しそうなお顔です。ほんにありがたいお姿ではありませんか。

三界萬靈 ※靈は異体字
爲七世之父母六親
眷屬有无二縁菩提 ※眷は異体字
現當二世

 墓地の一角には立派な三界万霊塔が立っています。この塔の銘にある「七世父母」とは両親をはじめ七代遡るまでのご先祖様、「六親眷属(屬)」とは一切の親類縁者、そして「有無(无)二縁」とは有縁無縁を問わずすべての人をさします。その菩提(冥福)のために建立した旨が銘記されているのです。最下部の別枠にある「現当(當)二世」と申しますのは現世安穏と後生善処を意味します。

 

57 下ノ平の庚申塔

 下ノ平の墓地の六地蔵様の右側から山道を上ります。上がり端が少し通りにくいのですが、すぐに歩きやすい道になります。墓地の上を斜めに横切るように上っていきますと、左側に段々畑の跡が上の方まで広がっています。少し行くとまた古いお墓があって、右方向への分岐があります。この道は無視して左上に行きます。とにかく段々畑の跡の右端に沿うて上っていけばよいのです。間違って段々畑の畦道(横道)に入らないようにします。

 しばらく上ると、道に沿うた右側の尾根筋のはるか上に倒れた庚申塔がかすかに見えます。写真にも写っていますが、分かりにくいと思います。ここから尾根伝いに行くには急すぎるので、この尾根の左側に沿うた道を辿ります。

 しばらく上って右側の尾根筋と同じ高さになったら、折り返して尾根上を歩けば簡単に庚申塔に近寄ることができます。この尾根の突端に、刻像塔と文字塔が1基ずつあります。刻像塔から見てみましょう。

 後ろから回り込んで、あっと驚きました。事前情報が何もなかったものですから、刻像塔を見つけた嬉しさもありますし、思いもよらぬ大きさであったためです。高さとしては凡そ1.5mほどでしょうか、巻き尺を持っておらずしかも倒れているので私の身長と比較することも難しかったので、あやふやではありますけれども、高さだけ見ますと近隣にもこの程度の大きさのものはざらにあります。けれども横幅がこれほど広いものはそう見かけません。残念ながら斜めに大きく断裂しています。しかし、横から見ますと裏に石をあてごうて、塔をなんかけるように安置してあることが分かりました。断裂部位の接合は叶わずとも、せめてできるだけずれないようにして安定のよい方法で安置されたのでしょう。

 最下部には20名ほどのお名前がずらりと墨書されています。地名は見当たりませんでしたが、対岸の長小野部落の講組によるものでしょう。長小野は上長小野・仲ノ坪・大力・下長小野に分かれています。こちらの庚申塔は、位置関係から大力組か下組の造立ではあるまいかと推量します。

 諸像の様子は別の写真で説明します。

青面金剛6臂、2猿、2鶏
二持寛文拾三天
二■月一■

 幅広で左右非対称の中央を深めに彫り込んで、諸像を配しています。その様子を見るにつけ、断裂が惜しまれてなりません。細かいところまで丁寧に彫り込み、デザイン的にも優れたところのある優秀作です。お顔は表情が全く読み取れなくなっており、まるで頭巾をかぶったような髪型です。その後ろには光輪がくっきりと残っています。6本の腕は自然に収まり、その曲がりも自然です。ウエストがきゅっとしまって、そこからだんだらのひだをとって裳裾までゆたかに広がる衣紋の表現など見事なものです。

 主尊は高い台の上に立っています。その両脇の下の方には、猿が低い台の上で内向きにしゃがみ込んでいます。その上には鶏の痕跡も確認できましたが細部が分からないほど磨滅していました。

 紀年銘は一部読み取りづらいところがありましたので、分かる範囲で記しています。「二持」は、明らかにこのように書いてあるのですが意味が分かりません。また、「二」と「月」の間に小さく「口」のような字が書いてあるのもよう分かりませんでした。

 全体的に見て、近隣で申しますとカンガ峠とか横岳、塔ノ本などの庚申塔と同系統のものと言えましょう。それにしてもこの立地にあっては、お世話も大変だと思います。たくさんの枯葉や土などがかかっていました。見学時にできる範囲で除去しましたが、完全にはきれいにできませんでした。

 横から見ると、かなりの厚さです。これだけのものがぽっきり割れたというのは、かやったときに余程の衝撃があったのでしょう。或いは石目によっては案外さほどの衝撃でなくても割れてしまうものなのかもしれません。

 塔が立っていたときの、庚申様の目線で撮ってみました。今は樹木が茂って展望が利きませんけれども、このあたりの段々畑が耕作されていた時代はきっと見晴らしがよく、対岸の長小野部落を一望できたはずです。地域を広く見守っていただくために、このような高所に造立したのでしょう。

 刻像塔から右後ろに回り込んだところに、1基の文字塔が倒れています。銘は全く読み取れませんが、位牌型の彫り込みをなしています。これとそっくりの庚申塔が近隣の数か所に残っておりますので、こちらも庚申塔と見てまず間違いないでしょう。

 

58 上ノ平の石造物・ロ

 庚申塔から車道まで下り、元来た道を後戻ります。駐車場所を過ぎて、右側に垣添家墓地を見送りなおも進みますと、左方向に斜めに下っていく道が分かれて、右側には獣害防護柵が開閉できるようになっているところがあります。この左右いずれも中山家墓地とのことで、以前は一続きになっていたものが、車道の開通により上下に分断されたのです。まず右に行きます。柵の向こう側の道を進みますとお墓がたくさん並んでいます。通路を奥詰めまでいきますと、壊れた石幢が安置されていました。

 左に立っているのは幢身と思われます。銘の文字が残っていますが読み取りは省きます。右には中台と龕部が安置されています。笠は見当たりませんでした。

 龕部の状態は一部傷んでいるところもありますけれども、おしなべて良好です。六角で、各面に五角形の浅い龕をなしめいめいに同じ所作の像が配されています。六地蔵様と思うのですが、ちょっとお地蔵様らしからぬお姿です。腕を組んで、手先を袖の中に隠して立つ姿は、お地蔵様というよりは庚申塔童子のようにも見えてまいります。お顔はにっこりとほほ笑み、朗らかで優しそうな雰囲気が感じられました。

 

59 上ノ平の石造物・ハ

 石幢から車道に引き返して直進し、小道を下っていきますと中山家墓地の最下部に着きます。この一角には国東塔が数基立っています。わりあい新しい時代のものもありますけれども、前列の4基は戦国時代のものと言われているそうです。

 このように石積みで立派に平場を設けて、区画を明確にしてあります。車道より上の墓地とは様子が異なります。

 この2基は、基壇・露盤それぞれ格狭間が見当たりません。後者はともかく、基礎はやりかえてある可能性があります。首部が目立ち、全体の特徴からは古い時代のものである印象を覚えました。台座は一石造で、請花と反花は対称ではなくお花の表現がそれぞれ異なるようですが、風化摩滅が進んでいます。右のお塔の方がまだ分かります。相輪は、左は斜めになっておりますけれども尖端の火焔までそれなりに残っています。右は後補でしょう。

 この写真の左の塔(左から3番目)には興味深い点があります。それは塔身の下部です。請花は別石ではなく、塔身の下部に彫り込んであるのです。これは本来的な造り方ではないとは思いますけれども、お花と塔身がよう馴染んで、優美な雰囲気を醸し出しています。しかも別石の反花との接合部もなめらかで、その反花のふくらみもまた見事なものではありませんか。笠がやや扁平なので相輪の長さが目立ちすぎる気もしますけれども、これはこれでよろしいのではないかと思います。石工さんの工夫がたくさん感じられました。国東塔の類型を研究するうえでも大きな意味を持つ文化財ではないでしょうか。

 右のお塔は破損が著しく、残念に思います。こちらも国東塔と見てよいでしょう。

 近くには笠塔婆なども安置されています。対になった像の、素朴でお優しそうな雰囲気のお姿が心に残りました。

 

60 上ノ平の石造物・ニ

 車道に返って先に進みます。獣害防護柵を開閉できるところから右に上れば、斜面の上から下まで、非常に大規模の墓地が広がっています。ここは入会墓地とのことで、下から上に向けて徐々に年代が新しくなっていくようです。一般に想像する墓碑の形状のみならず仏像型をはじめ様々な形態の墓碑が数多くあります。これに関しては『豊後國香々地荘の調査』に詳細な調査結果が記録されており、その内容は郷土の石造文化財および民俗の資料として非常に価値の高いものです。興味関心のある方は同著をご覧になるとよろしいかと思います。

 入会墓地の入口、左側には六地蔵様が等間隔に並んでいます。お世話が行き届いており、きちんとお祀りされています。立地も相俟って、心に残りました。

(左)
梵字)三界萬霊等
安永四戊戌天

(右)
宝暦四■戌天
三世萬霊七世父母有无二縁等 ※界と等は異体字
二月吉日   与八志

 六地蔵様のすぐそばには三界萬霊塔が2基立っています。左の塔が小さいのではなく、右の塔が大きいのです。銘の意味については繰り返しません。

寛保二壬戌天 結衆廿十三人
梵字)奉供養南無阿弥陀佛百六十万遍 ※陀と遍は異体字
正月吉祥日

 百万遍供養塔というものは方々で見かけますけれども、百六十万遍とは初めて見たような気がします。私が不勉強なだけで一般的なものなのかもしれませんが、いずれにせよよほどの信心によるものでしょう。銘の「廿十三」の表記については「廿三」か「二十三」が一般的です。或いは、当時は「廿十三」のような表記も慣用的に行われていたのかもしれません。

 

今回は以上です。次回は上真玉地区の記事を考えていますが、おそらく年内には仕上がらないと思います。今年もたくさんの名所旧跡をめぐることができました。新年も見分を広め、学びを深めていきたいと思います。

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