大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

長谷の名所めぐり その6(犬飼町)

 今回は大字栗ケ畑の名所の一部を紹介します。栗ケ畑は、栗ケ畑川沿いの細い谷筋に小部落が点在する地域です。人口はそう多くなさそうですが、石幢、道標、庚申塔五輪塔など石造文化財がたくさん残っています。特に九品寺跡の石造物は質量ともに豊富で、興味関心のある方にはぜひ見学をお勧めいたします。前回からの続きで、三ノ岳の道標を基点に谷筋のカサから順々に掲載していきます。

 

28 尾平の石仏

 水ノ元の霊場から下って、前回の末尾に掲載した「27 三ノ岳の道標」の辻を左折します。しばらくは曲がりくねった見通しの悪い道が続きますが、普通車までなら問題なく通れます。三叉路に出たら道なりに左に下ります。ここからは栗ケ畑川に沿うて下っていきます。相変わらず道幅は狭いものの、気を付けて運転すれば特に問題ないでしょう。

 尾平部落の民家の手前まで下ってきますと、右側に耕地跡の石垣が残っています(冒頭の写真)。植栽した杉が大きく育っており、耕作されなくなってからかなりの年月が経過していることが覗われます。この石垣はわりあい規模が大きく、印象に残りました。尾平部落は、今はほんの数軒のみになっています。栗ケ畑川沿いの最もカサにあたります。

 耕地跡の石垣から車道をはさんで反対側(下り方向にて左側)には、塚のようなところ(※)に1基の五輪塔と1体の仏様がひっそりと立っています。
※車道開鑿時に川べりに突き出たところが塚状に取り残されたのでしょう。

 少し傾いて立つ仏様は、優しいお顔です。体の横にずらりと平行に彫った手の様子から、千手観音様ではあるまいかと推量しましたが確証を得ません。今はこの前の道を通る人はごく少なく、通るとしても車ばかりなので、お参りは稀になっていると思います。昔、歩いて行き来していた時代には地域外の方も通りがかりにお参りをしていたのでしょう。

 

○ 炎部落について

 尾平部落の2軒の民家を過ぎたところで、右側に林道炎線が分岐しています。この林道を上っていったところが炎部落の跡地で、昭和30年代まで5~6軒の民家があったそうです。林道は離村後に開通したもので、当時は車が上がらず、下の道路から歩いて30分かかったそうです。

 『長谷の里生活誌』に炎部落についての説明があり、その中には元住民の佐藤夏実さんからの聞き取り内容が含まれています。長谷地区の歴史の一端ですし、炎という珍しい地名の由来も考察されておりたいへん興味深い内容ですから、その概略を記しておきます。

佐藤夏実さん曰く、
○ 炎の住民は全戸佐藤姓で、系図には大友軍の一員として石垣原の合戦に敗れ、炎に逃れて百姓となったと記されている。大友の残党と連絡をとり、有事の際にはのろしをあげて合図をするという密約があり、それが炎という地名の由来である可能性がある。
○ 高所にて見晴らしがよく、夏は涼しく冬はわりあい暖かく、気持ちのよい場所であった。
○ 耕地は全部で3町歩ほどで、全部畑作であった。陸稲、大豆、麦、小麦、たばこ、みかんを作っていた。土がよく高品質のものができ、殊にみかんは優れていた。養蚕もしていたほか、冬には炭焼きをした。
○ 戦後になっても電灯がなく、子供の教育の心配が大きかった。車が上がらず、水も乏しかった。どこかの家が風呂を沸かすと、皆で貰い風呂をしていた。昭和30年代に電線を引いたが、ほどなく全世帯が山を下りた。

 詳しいことを知りたい方は図書館で『長谷の里生活誌』を閲覧するか、ながたに振興協議会のウェブサイトを参照してください。

 

29 栗ノ木の石造物

 さて、炎線の分岐を無視して道なりに下っていきますと栗ノ木部落にて谷筋が少し広がります。道なりに小さい橋を渡ったところの辻(※)を直進します(道なりは左)。左に田んぼを見ながら狭い道を進めば、三叉路のところの石幢や道標が立っています。なお、この道は軽自動車でもちょっと不安になるような幅員ですので、※印の辻を一旦左折して少し行ったところの左側、路肩の広いところに駐車してから歩いて行った方がよいと思います。

 この石幢は大野地方でよう見かけるタイプで、笠は円、龕部以下は矩形です。経年の風化摩滅はありますけれども特段大きな傷みはないようにありますが、残念なことには龕部が別石にてすげ替えてあるようです。表面には一切の像が見当たりません。風化摩滅により消えたのであれば何らかの痕跡がありそうですが、のっぺらぼうなので、後補と見て間違いないでしょう。

 栗ノ木部落では笠地蔵と呼んで信仰し、縁日は正月24日と8月24日で、昔は笠の上に石を投げ上げて、よいお嫁さんが来るようにお願いをしていたそうです。重制石幢は、一般に六地蔵様(六道能化)や愛宕様(火伏)の信仰であった例が多い中で、嫁もらいの祈願をしていたというのは珍しい事例ではないでしょうか。

 幢身の1面には銘文がびっしりと彫ってあります。地衣類で一部読み取りづらくなっているので、転記は省きます。末尾には紀年銘が彫ってあり日付は読み取れますが、肝心の年が読み取れませんでした。

右 ■■らみち
左 ■■■みち

 碑面が荒れて、地名を読み取れませんでした。右は「をひらみち」のような気もしますが、確証を得ません。

 

30 九品寺跡の石造物

 九品寺跡こそは栗ケ畑を代表する名所といえましょう。堂宇は一切残っておらず、一見して痕跡も分からない状況です。しかしながら五輪塔庚申塔、石幢などが多数集積しており、確かにこの場所にお寺があったことを示しています。九品寺の由緒や廃された経緯などは存じておりません。

 九品寺跡周辺には適当な駐車場所がないので、前項に示した場所に車を置いたまま、歩いて行きます。駐車場所から道なり(*)に進むか、栗ノ木の石幢経由であれば石幢の立つ三叉路を左折し、突き当りを右折します(*のルートに合流)。道なりに寒須橋を渡ってすぐ、鋭角に左折します。この辺りに月待塔と橋の記念碑がありますが、都合によりそれらは次回に回します。少し上って、民家よりも手前にて右に折り返すように折れて未舗装の道を辿ればすぐ着きます。

 寒須橋のところから舗装路を上り、折り返したところです。畑の入口のような道ですけれども、少し先に庚申塔が見えているのですぐ分かると思います。この九品寺跡というところは、石塔群が大きく3区画に分かれて分布していますので、下段から順々に紹介していきます。下段には庚申塔と石幢があります。

 庚申塔の向かい側に立っている石幢は、残念ながら幢身しか残っていません。残部だけでも1.5mほどありますので、完成形であればかなりの大きさであったはずです。

 幢身には銘文が彫ってあるそうですが、私にはさっぱり読み取れませんでした。幸いにもこの石幢は市の文化財に指定されていますので、書籍等によりその内容が分かりました。曰く、この塔は文安2年3月27日に大神実次と藤原氏の出で戒名が祥妙の2人が、七分全得を祈願して造立した逆修塔であるとのことです。大神氏は、大友氏の台頭以前に大野地方で勢力を伸ばしていました。ふつう、追善供養によって死者が得られる功徳は7分の1で、残りは供養をする者の功徳になるところを、生前に功徳を積んでおきますと7分の7、すべて全部の功徳を得られるとのことです。これを七分全得と申します。それにしても文安2年ということは、580年も昔です。途方もない年月ではありませんか。

 九品寺跡の石塔群は土に半分埋っていたものを、土地所有者の方が昭和初期頃に修復し、お祀りし直されたとのことです。一度は信仰が薄れていたものを個人でお祀りし直すのは、なかなかできることではありません。しかもその数が1基や2基ではないのですから。立派な行いだと思います。庚申塔については、それよりも後に近隣から移されたのかもしれません。今もきちんとお祀りされており、近隣の方のお世話が続いているようです。

 さて、この区画の庚申塔は全部文字塔で、8基あります。いずれも小型のシンプルな造りですが、銘の内容やその配置など、なかなか興味深いものが多うございます。一つひとつ紹介しますので、これまでに掲載してきたいろいろな文字塔の内容と比べてみてください。なお、刻像塔は上段にありますのであとで紹介します。

延享三酉■
梵字)奉待青面金剛 ※面は異体字
九月二十七日

 この塔は上がナタで切ったように折れているのが惜しまれますけれども、幸いなことには銘にかかっていません。一段彫り込んだ箇所の銘は朱が入っていることもあり、容易に読み取れました。ただし最下部、枠外の部分は読み取り困難です。この部分にも何かを彫ってあり、僅かに「待」と「四」のみ分かりました。

文三丁巳天
梵字)皎命青面金剛 ※皎と命は異体字
十月初五日

 この塔は上を三角形にこしらえて、額部とでも申しましょうか、上の方に梵字を堂々と彫ってあります。枠の取り方がかわっていて、上端が3つの円弧をなしています。そして、あっと驚いたのが「皎命青面金剛」という言い回しです。これと同じ銘をもつ塔が、この区画にもう1基あります。これは局地的なものなのでしょうか?私はこの種の銘を、近隣在郷はおろか県内他地域でも見た覚えがありません。庚申塔の銘としては珍しいものかと思います。

 それにしても、2文字目を「命」の異体字と推量するのは易かれど、「皎」の読み取りには難儀をしました。「皎」という字は恥ずかしながら存じておりませんでしたうえに、これも異体字で彫ってあります。「皎」には、明るく清いという意味があるようです。

元文五庚申天
梵字)奉待庚申塔
十月二十三日

 この塔は少し傾いておりますけれども状態は良好で、難しい漢字や異体字もないので銘を簡単に読み取れました。塔の形状や梵字の位置など、ひとつ前の庚申塔によう似ています。ただし枠取りの仕方が違います。こちらの枠の上端の曲線は、よそでも何度も見かけたことがあります。

※年は略
梵字)奉待青面金剛
十月十一日

  この塔はひどく傷んでいます。転倒による破損というよりは、風化摩滅によるものでしょう。

(左)
(欠落)穏 享保十九甲寅 ※穏は異体字
(欠落)金剛塔 ※塔は異体字
(欠落)十月十八日

(右)
享保十■巳
梵字庚申塔一基
九月二十六■
(7~8名)

 左の塔は残念ながら上が折れており、それが銘にかかっています。「享保」の上に残っている1字は「穏」の異体字で、おそらく「現世安穏」と彫ってあったとのでしょう。そうであれば、「十月十八日」の上には「後生善処」と彫ってあったのではないでしょうか。

 右の塔はわりあい良好な状態ですが、最下部のお名前を彫ってあるところはほとんど読み取れなくなっています。凡そ7~8名分が彫ってあるようです。梵字の細い曲線の彫り方が優美でよいと思います。「庚申塔一基」という銘はわりと珍しい部類でしょう。

享保十六■■白
現世安穏 ※現と穏は異体字
梵字)皎命青面金剛 ※皎・命・青・剛は異体字
後生善処
八月三十日
(8名)

 この区画に並ぶ文字塔群の中でも、目玉と申しましょうか、特に注目すべき塔がこちらです。珍しい銘については先ほど申しましたので繰り返しません。形状も、同じ銘の塔とほぼ同じです。それらの特徴に加えて特に興味深いのは「現世安穏」「後生善処」の銘で、これが「皎命青面金剛」の両脇に彫ってあります。一般に時代が下がるにつれ、庚申信仰は作の神としての信仰に移り変わっていったり、多分にレクリエーション的な要素を含むようになっていき、この「現世安穏後生善処」の銘は稀になっていくようです。享保年間においては、旧来の庚申信仰が維持されていたということは注目すべきでしょう。また、紀年銘を側面ではなく、へりの部分に彫ってあるのが珍しいと思います。

享保十三甲天
梵字庚申塔
九月十三■
(9名)

 同じ享保年間の造立ながら、この塔には「現世安穏後生善処」の文言がありません。そのかわり、文字のバランスはさておき「庚申塔」の銘が実に堂々たる字体で彫ってあり、なかなか存在感があります。しかも、その文字を朱だけでなく黄色でも着色しており、色鮮やかです。「九月十三」の下の字はおそらく「日」の異体字かと思うのですが、確証を得ません。

紀州 山口

 この塔には「山口」とだけ彫ってあり、何の塔か分かりませんでした。形は横に並ぶ庚申塔とそっくりです。「紀州」が左横書きになっている点に注目してください。

 左の塔は、五輪塔の笠を重ねて層塔の様相を呈しています。右には五輪塔などの部材が集積されています。復元は困難かと思いますが、元々はそれなりの数の塔があったと推察されます。

 さて、庚申塔群の後ろの急斜面の上には五輪塔や宝篋印塔などが集積されている一角があります。ここに上がる細道は、見学時には地面が乾いていたので問題なく通行できましたが、下りには注意を要します。雨あがりだと滑りそうです。

 このようにたくさんの五輪塔が密集しており、中には宝篋印塔や宝塔の部材ないし後家合わせの塔もあります。お供えがあがっており、手入れがなされていることが分かりましたが、この立地ではどうしても、塔と塔の間の草などは除去するのが難しいと思います。また、傾斜地にて大雨や地震などによる破損も懸念されました。

 宝篋印塔は欠損部位が多いものの、残部の様子からして元々はそれなりの大きさがあったと水猿されます。どの塔にも蔓草が絡んだりしており、気になったのですが簡単に除去できそうな立地ではなかったので、諦めました。

 五輪塔群の横を上り詰めた一角に平場を造成し、ここにも石造物が並んでいます。この場所で特に興味深いのは、右端に写っている塔です。これと、左端で倒れかかっている庚申塔(刻像)は、夫々詳しく説明します。右から2番目は板碑です。左右が直線ではなく中膨れで、額部の形状にも特徴があります。

 板碑と庚申塔の間の塔(左から2番目)です。残念ながら銘の痕跡すら分からず、上の方が傷んでおり、何の塔か分かりませんでした。おそらく上端の破損しているところは仏像でしょう。南海部地方などで、矩形の塔身ないし角柱状の竿に「三界萬霊」とか「四国八十八所」などの銘を彫り、上に仏様の乗っている石造物を盛んに見かけます。あの類ではないかなと推量いたします。

青面金剛6臂 ※ほか不明

 写真ではまっすぐ立っているように見えるかもしれませんが、実際には左に大きく傾いており、下の方が土に埋もれています。そのため、鶏や猿の有無の確認ができませんでした。右上を大きく打ち欠くなど保存状態はよろしくないものの、主尊の細かい彫りはよう残っています。日輪・月輪の間には梵字を彫っていた痕跡があり、その関係で上の方を長くとっています。詳しく見てみましょう。

 まず、片側だけ残った日輪・月輪と瑞雲がなかなか優美でよいと思います。図案化を極めており、瑞雲は雲というよりは蓮の花のようにも見えてまいります。主尊の頭周りに線彫りで表現された光輪ともよう馴染んでいるではありませんか。主尊は目をつり上げ、ずいぶん不気味で怖い表情をしています。頭や体は半肉彫りで表現しておいて、外に広がる腕や武器の類はごく薄肉で表現するという大胆な手法をとっています。これは、全体としてのバランスを犠牲にしても、前後差と申しますか、奥行きのある立体感を表現しようとしてのことかと思われます。腕の形状などには失礼ながら稚拙なところもございますが、衣紋の優美なドレープ感などはなかなか優れていると感じました。

 この塔は後家合わせで、上には宝篋印塔の笠が乗っています。注目すべきは塔身です。一見して、この項の冒頭にて紹介した石幢の幢身ではあるまいかとも考えたのですけれども、よう見ますと立方体ではなりませんので違うと思います。石殿でしょう。この石殿には六地蔵様、十王様、大王様、不明像(おそらく能化様)、しめて18体もの像が彫ってあり、たいへん賑やかで立派なものです。傷みが進んでいるのが惜しまれます。

 このように、長手の面には上段に横長の区画をとって、3体のお地蔵様(坐像)が彫ってあります。裏表あわせて6体、六地蔵様です。下段は2区画に分かち、夫々十王様のうち2体が彫ってあります。裏表あわせて4体になります。

 この面の下段は、長手の面と同様に2区画に分かり十王様のうち2体が彫ってあります。上段は1区画で、左右にやはり十王様のうち2体、中央は1段高くした蓮坐の上に不明像が彫ってあります。おそらく能化様(六地蔵様を統べる仏様)でしょう。この反対面は、写真はありませんが上段は1区画で十王様を統べる大王様が、下段はほかと同様に二王様が彫ってありますから、裏表で大王様と能化様とが対になっているのではないでしょうか。後生善処を願うて造立されたものと考えられます。

 宝篋印塔の相輪と、ごく小さい板碑が安置してあります。

 

今回は以上です。九品寺跡の石造物がたいへん多く、長い記事になってしまいました。次回、もう1回だけ長谷地区の記事を投稿したら、三重町に移ります。

過去の記事はこちらから