大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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城山公園の石造文化財 その2(杵築市)

 引き続き、城山公園周辺にある石造文化財を紹介します。元の所在地が分かるものについては、なるべくその情報も記載していこうと思います。

 

10 明治百年敬老記念碑

 冒頭の写真の碑銘には「明治百年敬老記念之碑」と彫ってあります。昭和43年、明治百年祭と称して国を挙げての記念行事が執り行われました。各自治体においてもそれに関連する行事が行われましたので、その関連の碑でしょう。神楽坂はん子の唄った「明治百年音頭」を覚えている方もおいでになるかと思います。

 

11 鴨川 鴨田家の石塔群

 鴨田家の石塔群の一部を紹介します。風化摩滅は目立ちますが、興味深い作例です。

 左は無縫塔です。残念ながら風化摩滅が目立ち、特に中台のへりの傷みが目立ちます。しかしながら反花などはよう分かり、優美な印象を受けました。宝珠は後家合わせです。無縫塔は五輪塔や宝塔、宝篋印塔などとは異なりまして、いちばん上に卵型の塔身が乗っています。こちらは、残念ながら塔身が失われているというわけです。なお、この種の塔は僧侶の墓碑として造立されていることがほとんどで、お寺の境内ないしそれに付随する墓地などで盛んに見かけます。今までこのブログにはあまり出てきていませんが、方々に残っています。

 右の塔は、よう見ますと塔身の下に基壇からの造り出しで反花座をこしらえてあります。塔身の下部に反花を彫りつけてある例は数度見たことがありますが、基壇からの造り出しでこしらえる例は初めて見た気がします。元は格狭間を伴う基壇もあったのかもしれませんが、残っていません。また、露盤の上には請花を伴う饅頭型の宝珠が乗っています。大きさがややちぐはぐなことからこれは後家合わせで、元は相輪が乗っていたと見てよいでしょう。ところで、説明板には国東塔とあります。確かに塔身の下部に反花はありますが、現状として基壇が一重しか残っていないのと相輪もなく尖端の形状も分かりません。反花座のみをもってして国東塔と見るのか、或いは異相宝塔の範疇と見るのかは、見解が分かれるのではないでしょうか。

 

12 加貫の庚申塔・イ

 公園には、もとは加貫部落にあった庚申塔が1基寄進されています。個人でお祀りされていたものかなと思いましたが、加貫のどこにあったのかは説明板には記されていません。それで、加貫にはほかにも庚申塔がありますので、区別のために項目名に「イ」と付記しました。

青面金剛4臂、2童子、3猿、2鶏、2仏像!?

 この庚申塔にはおもしろいところ、興味深いところがたくさんあります。上から見ていきましょう。笠は破損が著しいものの、ふっくらと丸みを帯びた形状にて優美な雰囲気ですし、破風のとりかたも上品でよいと思います。塔身は板碑状で、碑面を大きく枠取りしてあり、半ばに仕切りはありません。この広い区画に諸像をめいっぱいに配してあり、レリーフ状の薄い彫りですけれども賑やかで、豪勢な感じがいたします。

 まず目につくのは、最上部に配された2体の坐像です。お地蔵様のような気がしますけれども、委細は分かりません。めいめいに雲に乗っているようです。或いは、日輪・月輪の代わりに日光菩薩月光菩薩を配したのかなとも思いましたが、像容がかけ離れています。このように、主尊(青面金剛)よりも高い位置に別の像を配した例は稀です。主尊は目をつぶり、お慈悲の表情が見て取れます。丸いお顔にささやかな炎髪がよう合い、自由奔放に弧を描く腕の表現も、一見すればあまりにもバランスが悪く珍妙な感じがしますけれども、お顔の丸みと相俟って一種独特の風情と申しますか、優美な雰囲気すら感じられるではありませんか。非常に短い脚との対比も面白うございます。そして主尊や童子の足元の蓮の花がまた優美な雰囲気でよいと思います。

 童子はお地蔵さんのような立ち姿にて、ありがたい感じがいたします。猿は仲良う並んで見ざる言わざる聞かざるのポーズをとり、その下で鶏が向かい合わせになっています。全体的に、石工さんの豊かなアイデアが感じられました。享保9年の造立とのことです。

 

13 加貫の地蔵堂の石幢

 加貫の地蔵堂と申しますのは、浜から生常に上がる途中にある堂様のことだと思います。そこにあった石幢が公園に移されています。

 残念ながら幢身が大きく傾き、龕部から上は脱落し下に安置されています。一見して龕部は材質が異なるように思いますので、おそらく元の所在地でかつて破損したか何かで、別でこしらえてすげかえたものでしょう。六角形で、彫りがごく浅い物の1面あて1体のお地蔵様(立像)が確認できます。龕部の下にすけてあるのは笠でしょう。

 わりあい高さがあるので、傾きを修正するのは容易なことではないのかもしれません。できたら基壇を水平にし、幢身を垂直にしたうえで、龕部および笠を元のとおりに積み直していただきたいものです。

 

14 年田の庚申塔・ロ

 年田部落の庚申塔が1基移されていますが、こちらも年田のどこにあったものか分かりませんでした。年田は広く、部落内が複数の土居に分かれており、庚申塔が点在しています。以前、東地区のシリーズの中で河内の庚申塔を2基紹介しました。区別のために、こちらの項目名には「ロ」と付記します。

青面金剛6臂、2童子、3猿、2鶏、邪鬼、4夜叉

 写真が悪くて見えづらいと思うのですが、この塔は4夜叉を伴うものとして、杵築市内では稀な作例です。像の数が多いので隙間がせまく、いあたりレリーフ状の彫りになっています。碑面の状態があまりよろしくなく、特に猿や夜叉、鶏の様子が分かりにくくなってきているのが惜しまれます。主尊の丸顔、不気味な表情、異常なる細さで自由奔放に曲がった腕などは、年田方面でこれとよう似た特徴を有する塔を見たことがあります。或いは、作者が同じなのかもしれません。デザインとして優れているとは言い難いかもしれませんけれども、自由奔放で独創的な表現がおもしろいではありませんか。

 主尊の踏んだる邪鬼の真下は、ふつう猿が来て、最下段に夜叉が並んでいることが相場です。ところがこちらは、どうも邪鬼の真下に夜叉が並び、その下に3猿、猿の脇に鶏が彫ってあるようです。こんなところにも個性があります。

 

15 高須御堂の宝篋印塔

 高須と納屋は境界が複雑で、どこからどう線を引いているのか分かりにくうございます。いま、西納屋の埋め立てのところから尾本まで新道ができていますが、あの道ができるまでは少し高いところを迂回する狭い道を通っていました。その高いところは高須のうちで、道路端に堂様があります。庚申塔などは堂様の坪に残っていますが、宝篋印塔のみ城山公園に移されています。

 残念ながら塔身が失われ、相輪も半ばで折れてしまっています。残部の形状からは、杵築周辺に分布する宝篋印塔の特徴が感じられました。説明を繰り返すことは控えますが、穴井の地蔵様のところにある宝篋印塔などと同じ文脈のものです。

 

16 大手前の井側

 大手前と申しますのは広小路の三叉路から杵築中央病院前を経由して錦城に抜ける横通りの辺りです。以前にも申しましたように、かつては城内でしたがのちに町方として商店や旅館が軒並びにて、大変賑おうた地域です。

 手前にならぶお地蔵様は、次の項目で紹介する即心庵跡にあったもので、奥にある矩形の構造物が「大手前の井側」です。説明板には「大手前広小路の中央にあった唯一の井側です」とあります。井側という言葉は私にはあまり馴染みがないのですが、おそらく「いのこ」のことでしょう。湧水ないし井戸の類で、殊に共有のものに関しては水汲みなどの利便性を考慮してきちんと石組をこしらえてある例が多々ありました。

 

17 即心庵跡の石仏群

 即心庵と申しますのは猪尾にあった堂様です。永徳から猪尾住宅経由で外ゾノの方に行きますと、左側に天王様(牛頭様)が鎮座しています。その参道上り口を過ぎて右に折れるところを左方向に行ったところにありました。境内にあったたくさんの石仏が城山公園に移されています。

 ひとつ前の写真に写っている六地蔵様も即心庵跡にあったもので、6体のうち4体は頭部を欠いています。ほかの石仏が破損していないことを考えると、廃仏毀釈の影響というわけでもなさそうな気もします。或いは、元はほかの場所にあったものが即心庵跡に移された可能性もありますので、ほかの石仏の状態との比較をもって廃仏毀釈とは無関係と言い切ることもできないとは思いますが。

 お地蔵様以外にもたくさんの石仏が寄せられています。左から2番目の坐像など、お顔の表情や指など細かいところまでよう行き届いています。蓮坐の花びらの尖端がゆるくカールしているのも上品でよいと思います。

 こちらは風化摩滅が進んでいます。素朴なお顔が心に残りました。

 右の御室には、笠の正面に1字、厨子前面の上左右に2字、あわせて3字の梵字が彫ってあります。屋根の形など、なかなかよいと思います。大きく傾いており破損が懸念されますので、水平に直していただきたいものです。

 ところで、説明板には「大威徳明王大日如来石室内安置」とあります。どうして「大日如来石室」に「大威徳明王」が納まっているのかと申しますと、前にも申しましたように速見郡から国東半島にかけて、牛に乗って仏様を大日様と大威徳明王様の区別なく、一列に「牛乗り大日様」と呼んで信仰してきたためです。私も、子供の頃に「牛に乗っているのは大日様」と教わりました。今でも、「大威徳明王様」と申しましても、一般には伝わりにくいと思います。

 

18 三川村旧庄屋墓地の筆塚

 三川村と申しますのは今の三川部落で、おそらく三川新田も含むと思います。その旧庄屋墓地にあった筆塚です。ここでいう筆塚とは筆子塚(寺子屋のお師匠さんの供養のためのもの)ではなくて、書写に用いる筆を供養するものです。

念佛 十一億■■

 伏字の箇所は「八千」のような気がしますが定かではありません。

 

19 出原の天神社の弁天様

 出原の天神様は天神山にあります。高原建設の横から入って、少し先を右に行ったところから長い石段を上れば着きます。その天神様から弁天様の石像が移されています。

 左奥に写っているのが弁天様の石像です。写真が小さくて見えづらいと思います。実物を見ても、像容がはっきりしないほど風化が進んでいます。出原の天神様は、今も地域の方によりお世話が続いています。ところが寄進された弁天様は、基壇から後ろに傾き、あまり顧みられていないようです。この様子であれば、差し出がましいようですが元の場所に戻した方がよいのではと感じました。

 

20 近松寺渡場の波戸工事碑

 錦江橋がかかるまでは、渡し舟で行き来をしていました。杉山に昔、近松寺というお寺があったとのことで、杉山から須賀の辺りには近松寺浜という地名も残っています。渡し場もその辺りで、「近松寺渡し」と呼んでいました。その波戸の工事費が城山公園に移設されています。前項の写真をご覧ください。

 

今回は以上です。このシリーズは一旦お休みにして、次回からは大野地方の記事を書いていきます。

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