大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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西庄内の名所めぐり その1(庄内町)

 このシリーズでは、庄内町は西庄内地区の名所を紹介します。西庄内地区は大字平石・長野・高岡・畑田(はたけだ)・庄内原(しょうないばる)・西・中からなります。この地域の名所としては平石の棚田や新四国霊場などがあるほか、各種石造文化財も多数残っています。また、梨の産地としても知られています。

 

1 平石の棚田

 由布市役所のところから国道210号湯布院町方面に進みます。右側に「ようこそ平石へ ホタル舞う棚田と水と美味い米 ひらいし」と書いた茶色の看板がありますので、これを目印に右折します。右側に住居案内図のあるところで二股になっています。どちらに行ってもよいのですが、右の道は狭いので左(直進)の道を進む方がよいでしょう。道なりに行くと、右側に大展望が開けます。

 夕方になっていたうえにやや雲が多かったので、思うような写真が撮れませんでした。擂鉢状に落ち込んでいく地形の一面に棚田が広がり、大分川沿いの低地をはさんで遥か向こうの山なみまで一目の、見事な景観です。

 平石の棚田は、内成や詰の棚田ほど有名ではないと思いますので、地域外の方が訪れる頻度は少ないかもしれません。しかし景観のよさは折紙付きです。道が狭いところが多いので農繁期などは地域の方の迷惑にならないように配慮する必要がありますが、ドライブがてら、ちょっと立ち寄ってみてはいかがですか。

 上の写真の景色の見える場所のあたりに、「改修記念碑」と彫った大きな碑銘が立っています。その角を右に折れて突き当りを左折します。

 少し行くと、旧西庄内農協の平石倉庫が建っています。写真(進行方向から振り返って撮影したもの)に写っている白い建物がそれです。この辺りで右後ろを見返りますと、さきほどとはまた違った景勝を楽しむことができます。返す返すも、雲の多きを恨むの不首尾でございまして、ここからの景色はお天気の日がいちばんです。

 

2 平石の石幢と庚申塔

 農協倉庫を過ぎてほどなく、コミュニティバスの「旧農協倉庫前」停留所があります。その辻を左に折れてすぐベンチが置いてあって、後ろには石幢と庚申塔、石灯籠が立っています。バスを待つ方にお蔭のありそうな立地です。

 世間一般に六地蔵様や庚申様の信仰は薄れてきておる中で、ここでは生活の場面(バス停のべンチ)に近いうえに、この景観が棚田や昔ながらの民家とよう馴染んでいます。非常に印象的な風景でした。たとい石造文化財に興味関心がなくとも、心に残る風景ではないかと思います。

 このように、灯籠と石幢、庚申塔が並んでいます。庚申塔は刻像塔が1基のみで、文字塔や庚申石は見当たりませんでした。庄内町ではまだ数か所でしか庚申塔を見つけていないのですが、他地域のようにたくさんの庚申塔が並んでいる例は少ないような印象です。

■故三界城悟故■■空

 幢身に銘が残っていますが、読み方の分からない字もあり内容が今一つ分かりませんでした。供養塔として造立されたと思われます。

 さて、この石幢は中台や笠の径が小さめで、龕部が大きく露出しています。でも、龕部の状態は良好です。レリーフ状の彫りで立体感は乏しいものの、お地蔵さんの姿が細かいところまでよう残っているうえに彩色も残っており、感激しました。幢身と中台の接合部がやや歪んでいます。その部分で幢身の上端がなめらかにくびれていて、歪みもものともせできっちりと接合されています。

青面金剛6臂、1猿、1鶏、ショケラ

 残念ながら傷みがひどく、特に主尊の首を横切るように走った亀裂が痛々しく感じました。地衣類が多く付着しているうえに風化摩滅が著しいので、細かいところは分かりません。分かる範囲で、この塔の個性的なところ、興味深いところを申します。

 まず、ごく僅かですが赤い彩色の痕跡が認められます。主尊の腕は、体の前に回した腕以外はほとんど分からなくなっていますけれども、向かって左側には外向きに伸ばした2本腕の痕跡が僅かに見て取れました。このことから、6臂であると判断しました。なお、向かって右側の腕はさっぱり分からなくなっています。ショケラは輪郭からかすかに判別できる程度で、左向きのようです。

 主尊の足は真横に向いており、この部分が失礼ながら稚拙な感じもいたしますけれども、なかなかどうして、勇ましい感じがよう出ているではありませんか。その両脇には童子ではなくて、鶏と猿が彫ってあります。向かって左は鶏で、首をぐっと上げて凛々しい姿を見せており、豊かな尾羽も見て取れます。反対側の猿は合掌しており、まるで童子に見代えの姿です。しかし童子が片割れのみということはないと思うので、これは猿でしょう。

 基礎には銘を彫ってあります。ほとんど読み取り困難な中で、末尾の「四月廿四日」は容易に分かりました。冒頭には「和」の字が見て取れ、「明和」ではあるまいかと推量しますが、草をはぐって確認するの忘れてしまいました。悔やんでも後の祭りです。

 

3 平石の新四国霊場

 農協倉庫前のバス停のところから、右に田んぼを、左に民家を見ながら道なりに進みます。左側の家並みが途切れるところに新四国霊場があります。

 参道の桁橋が傷んでいるのが気になりました。でも、この橋を渡らなくても右側から進入すれば問題ありません。左に小川を見ながら短い参道を進めば、あっという間に霊場に着きます。

 なお、この辺りには適当な駐車場所がありません。車の場合は一旦通り過ぎて突き当りを左折し、しばらく進んだところにある公民館の坪に停めさせていただき歩いて来るよりほかなさそうです。

改築記念 平石新四国八十八ケ所

 参道入口に立っている標柱です。

 さて、こちらの霊場は、新四国と申しましてもその中の札所の1つというわけではなくて、寄せ四国の様相を呈しています。つまり、すべての札所がこの場所に集まっているのです。大分県はお弘法様の信仰が篤い土地柄ですが、昔は、本場の四国八十八所の巡礼には今以上の困難を伴い、一度は行きたやと思うても叶わない方ばかりでした。それで代参講が各地で組織されたほか、写し霊場として地域内の札所を巡る「新四国」の霊場が方々に開かれ、その中にはこちらのような寄せ四国もあり、今も各地に残っています。お年寄りをはじめ、脚の不自由な方などはごく狭い地域内に点在する新四国霊場であっても巡拝に難渋する場合もあったことでしょうから、そういった方には特に、寄せ四国は喜ばれたのではないでしょうか。

 記念碑も経っているとおり、改築された堂様には立派な雛壇をこしらえて、88体のお弘法様が整然と並んでいます。このような霊場には、お弘法様と札所々々の御本尊が対になって並んでいる例もありますけれども、こちらはお弘法様のみです。みな同じつくりで、おそろいの帽子(手編み)とおちょうちょで、立派にお祀りされています。整備もよう行き届き、信仰の厚さが覗われました。なお、最上段にはお観音様が横並びで、30体以上ありました。西国三十三所の写し霊場も兼ねているのかもしれません。

 このように、台座から体まで一石造です。台座には、夫々に札所の番号と寄進者のお名前が彫ってありました。

 コンクリで段をこしらえるのではなく、大きな石を組み合わせています。このような手法は、より手間暇も費用もかかったと思います。地域内の霊場で、これほど立派にこしらえてある例は稀ではないでしょうか。

 最上段の中央の仏様です。この霊場は整備が行き届き、歩く距離もごく短く容易にお参りできます。棚田の景色を見に来たときなど、ちょっと立ち寄ってお参りをされてはいかがですか。

 

4 摺原の石造物・イ

 新四国の入口を過ぎて、突き当りを右折します。道なりに行って、二股は左にとります。ソーラーパネルのところに出たら道なりに右折して、突き当りをまた右折します。コミュニティバスの「水足上四差路」バス停の辻を左折してずっと上っていき、小松寮の手前を右折します。道なりに行くと、左側に六地蔵様が並んでいます。車は、少し手前の路肩が広くなっているところに停めるとよいでしょう。

 このように、墓地の入口などに単体の六地蔵様が並んでいるのは国東半島などで盛んに見かけますが、大分地方や大野地方にもあります。ただしこの地域は龕部に六地蔵様を彫った石幢が立っていることも多いので、単体の六地蔵様の比率としては、国東半島よりはずっと少ないでしょう。こちらの六地蔵様はこけし人形のような可愛らしいお姿で、たいへん個性的です。破損個所も補修され、今も立派にお祀りされています。

 この六地蔵様のところから右方向に、並行気味に2本の道が伸びています。その2本のうち、左(上段)の道に入ってほどなく、左側の笹薮に埋もれるように石塔が並んでいます。

 写真では1基しかないように見えますが、4基程度は道路から見えました。埋もれているものがほかにも数基ある可能性があります。銘はさっぱり読み取れませんでしたが、おそらく庚申塔でしょう。

 ここから道なりに行けば、左側に「摺原宝篋印塔」の標柱があります。それを目印に左に上がって林の中を行けば宝篋印塔が立っているのですが、当日はものすごい藪で近寄ることができませんでした。見学は冬場でなければ難しそうです。またいつか見学する機会があれば紹介します。そのときに備えて、一応項目名に「イ」と付記しました。

 

今回は以上です。次回は杵築市の名所を紹介します。

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