大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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長谷川の名所めぐり その2(緒方町)

 引き続き長谷川地区の名所を紹介します。今回はたった3か所だけですから短い記事になります。特に金銀六箱寺跡の石幢はみなさんに見学をお勧めしたい、優秀作です。

 

6 湯迫の棚田

 大字栗生(くりう)は奥嶽川左岸の真茅・土入(つちばみ)・上栗生と、右岸の湯迫(ゆのさこ)の4部落からなります。このうち湯迫は、ほかの3部落とは深い谷を隔てていることから昔は不便を託ちましたが、妙見橋(かわせみ公園のところ)の架橋により改善されました。ところが今年、台風で妙見橋が破損して通行止めになっていたので、前回申しました奥嶽橋経由で行きました。県道7号から奥嶽橋を渡り、下滞迫を過ぎてしばらく道なりに行きますと、左側に立派な「竣工記念碑」が立っています。この先に適当な駐車場所がないので、この記念碑の横のスペースに駐車します(1台なら可)。右の田んぼのへりに沿うて小道(車不可)を上れば、湯迫から下滞迫に抜ける旧道(車道)の三叉路に出ます。これを右折して道なりに下っていけば、右側に六箱地蔵尊の説明板が立っています。

 三叉路から六箱地蔵尊上り口へと歩いていくときの風景が印象に残りました。湯迫部落の棚田です。規模は大きくないものの、河岸段丘上にてかなりの高所にあたります。棚田の段々と屋敷の段々とが混然一体となり、この地域特有の農村景観をつくりだしています。

 

7 金銀山六箱寺跡の石造物(○内ノ口鉱山について)

 前項にて申しました説明板のところから小道を上っていけばほどなく到着しますが、軽自動車がぎりぎりの道幅しかなく地域の方の迷惑になりそうですし、適当な駐車場所がありません。歩いていきましょう。

 上り口の説明板です。内容を転記します。

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六箱地蔵尊

 この上50mのところに六箱地蔵尊が祀られている。御本尊は愛宕延命地蔵尊で、この地区の人々は毎年3月と8月に地蔵様祭をしている。
 昭和51年3月、有形文化財として県指定を受けた。金銀六箱寺の敷地内にあり、内の口鉱山が栄えていた頃は、参詣者も多かったと伝えられている。

平成10年6月 栗生老人クラブ

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 内ノ口鉱山と申しますのは湯迫部落から2kmほど山道を登ったところにあった鉱山で、のちに豊栄鉱山(旧九折鉱山)の傘下に入りました。滞迫にあった勇ヶ鶴(ゆうがつる)鉱山と同様、早くから拓かれた鉱山ですが大正の頃には廃坑になっています。

 さて、説明板のところから簡易舗装の道を上りますと、右側に参道の石段が分かれています。でもこの参道は荒れ気味で通りづらいので無視して、そのまま坂道を直進します。すると右側に湯迫石幢の文化財標柱がありますので、そこから折り返すように境内に入ります。

 この一帯が金銀六箱寺跡とのことです。伽藍は一切残っておらず、数々の石造物がその名残を留めます。特に石幢(文化財指定名は湯迫石幢)は見事なもので、一見の価値があります。写真に写っている小さな建物は石幢の鞘堂(覆い屋)です。

 右の、基礎が段々になった碑は井路の記念碑です。植物が絡みついており、しかも実際に訪れたときにはだんだん薄暗くなっていたので、その内容の読み取りは省きました。左の仏様は彩色がよう残っています。お慈悲のお顔が印象に残りました。

 説明板の内容を転記します。

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県指定有形文化財 昭和51年3月30日指定
湯迫石幢 緒方町大字栗生

 鞘堂に収められた総高283cmの巨大な石幢で、赤白の彩色が現在も鮮やかに残っている。基礎・竿・中台・笠の各部が四角の重制構造で、竿の四面上部に月輪を刻み、9弁の蓮花の上に四仏の種子を彫り込んでいる。正面の月輪の左右には「金銀山」「六箱寺」の陰刻がある。また、笠の右側面にある12行の刻銘には「享禄五年」(1532)、本願主「阿闍梨慶●」の名が記されている。龕部には正面に3体の像が刻まれ、ほかの3面にはそれぞれ2体ずつ地蔵像が陰刻されている。
 先述の陰刻にあるように、この境内は金銀山六箱寺という寺の跡地である。「阿闍梨」という言葉から密教系の宗派とも考えられているが定かではない。『旧長谷川村誌』に、「旧藩時代内の口鉱山隆盛の時代は信徒も多かった」という記述がみられる。内の口鉱山は、六箱寺付近を流れる駄床川を南に約1lmほどさかのぼったところに位置する。往古は白銀・鉛・錫が産出され、特に岡藩主中川氏直営であった江戸時代は産量も豊富で稼働者も多く、あたり一帯が栄えたといわれている(大正時代に廃坑になっている)。このことから、六箱寺は内の口鉱山の守護寺であったのではないかと推測する人もいる。

緒方町教育委員会

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 巨大な石幢は鞘堂に収まっており、残念ながら全体像を撮影することはできませんでした。見事な造りに惚れ惚れいたします。竿を見ますと、四面に彫った梵字にはめいめいに蓮の花を伴い、しかもその線が赤と白で美しく彩色されています。写真に写っている左の面には、梵字の左右に「金銀山」と「六箱寺」の文字がしっかりと読み取れました。説明文には「金銀山」「六箱寺」の文字と、3体の像を彫った面がいずれも「正面」とあります。でも実物を見る限りでは、3体の像は「金銀山」「六箱寺」の面の右隣になっているようです。何らかの事情で積み直した際に入れ替わったのでしょうか? その3体は線彫で見えづらいものの、正面向きではなく、左の1体を右の2体を斜めに向けて、動きのある表現になっているように見受けられました。上り口にある老人クラブによる説明板には「御本尊は愛宕延命地蔵尊」の旨が書いてあります。もしかしたら、この3体の中尊が愛宕様との伝承があるのかなとも考えましたが、定かではありません。いずれにせよ、矩形の龕部をもつ石幢に9体の像を彫った例は稀であると存じます。

 この内刳の深さをご覧ください。笠のへりに沿うて垂木を彫り出し、その垂木にも赤い彩色が見てとれます。中台の形もよいと思います。緒方町のあちこちに石幢が残っていますが、こちらは何から何まで素晴らしく、近隣在郷きっての秀作であるといえましょう。

 

8 堂内の地蔵堂の石造物

 湯迫部落から元来た道を後戻って奥嶽橋を渡り、県道7号を下ります。長谷川郵便局を過ぎてなおも道なりに行き、大字小原は堂内(どうのうち)部落に入りますと道路右側に「堂内宝塔」の文化財標柱が立っています。ここから折り返すように右の坂道を上がったところが地蔵堂(公民館を兼ねる)です。この上り口を見落としやすいと思いますので、実際に訪ねる際には反対ルートの方がよいでしょう。軽自動車ならどうにか坪に上がれます。

 地蔵堂のはずですが、玄関にはシメがかかっていました。或いは、公民館の中に何らかの神様も同居しているのかもしれません。

 このお地蔵様はおちょうちょが新しく、地域の方の信仰の篤さがうかがわれます。御室の屋根が立派で、異常なる大きさの唐破風に大きく梵字を彫ってあります。その梵字を彫った面が鉛直ではなく、軒口と同様の傾斜になっているのが風変りであると感じました。

 こちらが市の文化財に指定されている宝塔です。相輪が折れているのと、笠の傷みがひどいのが残念です。けれども笠と塔身に彫られた梵字はくっきりと残っていますし、基礎の上端をぐるっと削って段をつけたる点など、よう見ますと凝った造りになっています。豊後大野市のホームページによれば、「永享9年(1437)の造立であるという銘文が墨書されてあったが、現在はっきりとは判読できない」とのことです。帰宅後にこのことを知って、685年も前の塔であったのかと驚いた次第です。

 境内入口の杉の木に凭れるようにして地神塔が立っています。碑面は荒れてきていますけれども、朱を入れた「地神塔」の文字ははっきりと読み取れます。この地神塔に破損した石塔あるいは石碑をなんかけています。もしかしたら庚申塔かもしれませんが詳細はわかりませんでした。

 

9 小仲尾の石造物

 県道7号を進みます。谷門(たにかど)部落を抜けたら人家が途絶えて、次が小仲尾部落です。小仲尾からは道路改良が済み2車線になっています。曲がりくねったところをショートカットして、ずいぶん走り易くなりました。小仲尾のなかほどで、2車線の現道の左に狭い旧道が並走する区間があります。この場所の旧道を行けば、左側の高いところに庚申塔とお地蔵様が並んでいるのが道路から見えます。路肩に寄せて車を置いて、斜面を上がればすぐの場所です。

 庚申塔は5基で、このうち中央が刻像塔です。あとで詳しく紹介します。文字塔は銘の読み取りが困難でした。

 庚申塔の並びの仏様です。全部で7体あって、このうち右から3番目がほかの6体より少し大きめです。おそらく、大きいのは能化様(六地蔵様を統べる仏様)なのでしょう。能化様を中心に、左右に3対ずつ六地蔵様を配してある事例を稀に見かけます。こちらは、何らかの事情で並べ直した際に入れ替わってしまい、能化様が中央に来ていないのでしょう。めいめいの仏様は地衣類の侵蝕が著しいものの、諸像の傷みはそこまで進んではいません。彩色の痕跡も認められました。用地は荒れ気味ですけれども、お供えが枯れていないことから信仰が続いていることが分かります。

青面金剛6臂、2童子、ショケラ ※猿と鶏は確認困難

 5基の庚申塔の中央に立つ刻像塔です。上部の折損は惜しまれますが幸いなことに主尊にはかかっていません。全体的に風化摩滅が進んでいる中で主尊のお顔はよう残っています。ほんに凛々しいお顔立ちが印象に残りました。6本の腕はさても珍妙なることに、外に向けた2対は上下の付け根の位置などコチャ知らぬとばかりに自由奔放な表現で、しかもガッツポーズをするように曲げた腕が上下に平行になっているものですから、たいへん威圧感があります。そうかと思えば体前に回した腕は幾分ささやかな表現であるのもおもしろいではありませんか。左手にさげたショケラは今や消え入らんとする状態で、今際の際の感がございます。

 童子は傷みがひどく細部は分かりませんけれども、主尊に遠慮して恭しく控えている様子がうかがえます。鶏と猿も彫ってあると思いますが、下の方は傷みがひどいうえに植物に隠れて、確認できませんでした。

 これまで、緒方町でも数か所で庚申塔を見かけましたが、ほとんどが文字塔です。だいたい大野地方の庚申塔は、文字塔が大多数を占めているように感じます。その中でも野津町は比較的刻像塔の作例が多いものの、緒方町では刻像塔は稀のようです。今のところこちらと、瑞光庵でしか刻像塔を見かけていません。

 

今回は以上です。長谷川地区のうちごく一部しか紹介できていませんが、適当な写真がなくなったのでこのシリーズは当分の間お休みとします。次回から、杵築の旧市街散策のシリーズを再開します。

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