大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

野津市の名所めぐり その2(野津町)

 前回に引き続き、大字老松は芝尾部落の名所旧跡の残りを紹介します。説明が一続きになっていますので、前回の記事から通してご覧いただいた方が分かり易いと思います。今回はたった2か所だけですが、たくさんの石造文化財があります。

 

8 芝尾の観音堂(寄せ四国)

 前回、旧道「殿様街道」沿いの文化財を巡りました。茶屋跡から「芝尾地区案内板」の辻まで戻ってきたら右折して、駐車場所には戻らずにすぐさま左折、次の角(※)をまた左折します(※)。右カーブして、二股(道が三角形になっているところ)は左、次の二股は右(直進)、すぐ先の二股は左へ。左に畑を見ながら進んで、次の二股も左(直進)です。この辺りから、軽自動車がやっとの道幅になります。普通車は通れません。右カーブして少し行き、左側の民家の手前に参道石段があります。民家から先は車の通れない幅になります。そして徒歩道に切り替わる末端には駐車はおろか、転回可能な余地もありません。当日、過って車で入ってきてしまい、切り返しのできる場所まで後退するのに難儀をしました。駐車場所からは少し離れていますが、歩いて行くことを強くお勧めします。

 もし道順が分かりにくいときは、少し遠回りになりますが※印のところを左折せずに直進してください。右に田んぼを見ながら左にカーブしていくと、「花原方面→」の道標があります。これを目印に右折して、左カーブの急坂を上っていきますと後ほど紹介する表平の石幢のところに出ます。ここまでは車で通れます。石幢の先を左折し、左に庚申塔を見て車の通れない道を先へと進めば参道、石段の下へとつながっています。

 石段の下には、宝篋印塔がこの上にある旨の案内表示があります。石段は踏面が狭いものの、鎖を渡してくださっていますので安全に通行できます。上り詰めたところの観音堂の坪には、ほかにもたくさんの石造文化財があり、特に寄せ四国の石仏群は見事なものです。四国八十八所と同等のお蔭があるたいへんありがたい場所であり、芝尾部落はもとより大字老松の中でも屈指の名所であると感じました。今から詳しく紹介します。

三界萬霊等 ※界は異体字

 石段をあがってすぐ、右側に立っています。宝暦年間の造立ですが、銘の状態がすこぶる良好で墨がよう残っています。灯籠も、派手ではないものの形がよう整うています。火袋の窓の形状や、竿の上部を面取りしている点などに注目してください。

金剛妙典一石一字塔

 左側には一字一石塔が立っています。こちらも銘は容易に読み取れました。「塔」の字の下にはささやかな彫りで、蓮の花を表現してあります。金剛妙典とは金剛般若経のことと思われます。このお経の一字一石塔ははじめて見た気がします。

 この宝篋印塔を見てまず感じたのが、基礎の造りの豪華さです。一段々々は低いものの、末広がりの形状にて立派な造りではありませんか。基壇は苔がついているもののよう見ると格狭間もしっかり残っています。塔身には梵字の痕跡があります。笠は隅飾りが外向きに広がり、へりの中央にごく小さな円弧の突起が見て取れます。おそらく江戸時代以降のものでしょう。段々は少なく、露盤の下部には特徴的な形状の請花が目立ちます。露盤は連子模様です。

 そして、上にはまた別の笠が乗っているではありませんか。一見して、2階建ての形状の宝篋印塔の、上の塔身が失われたのかなと思いました。でも、よう見ますと上の笠と下の笠とで形状が違いすぎますし、そもそも2階建ての宝篋印塔なら、下の笠の上には露盤をつくらないはずです。このことから、本来は別々のものであると考えます。残部を合体させたのでしょう。もっといえば、上の笠の上部も何かほかの石塔からの流用と思われます。

 しかしながら、後家合わせとはいえ上下の笠の接合部がちょうどぴったり合うており、よう馴染んでいます。本来の姿ではないものの、なかなか豪勢な感じがするではありませんか。立派な塔であると感じました。

 左奥にも、宝篋印塔など数種類の石塔の部材を組み合わせた塔が立っていました。

大野西国三十三所 第二十四番
野津郷八十八ヶ所 第二十九番
霊場

 この場所は、大野西国と野津郷八十八所それぞれの札所になっていることが分かります。後者は、現在の「吉四六さんの八十八ヶ所巡り」と同じものと思われます。堂様が新西国の、屋外に並んでいる石仏群が新四国の札所です。今回は新四国の札所を紹介します。

 こちらは野津郷八十八所の第29番札所として位置づけられているばかりか、寄せ四国の様相を呈しています。境内に88体の仏様と、尊名・番号・奉納者名を彫った別石が対になってずらりと並んでおり、壮観です。かつてはよほどの信仰を集めてきたものでしょう。本場の四国八十八所を巡拝するのが今よりもずっと困難であった時代、新四国の札所を巡る方が今とは比べ物にならないくらい多かったと考えられます。そして、新四国の全部の札所を歩いて巡るのが難しい方は、ひとまず29番札所にお参りすればただの1か所で1番から88番まで全部お参りできるというわけです。

 それにしても、普通このような霊場の仏様は、台座ないし光背に番号などを彫っているように思います。別石になっている例は珍しいのではないでしょうか。より費用も手間もかかったと思います。

 右側の一角には、札所の仏様とは別に丸彫りの坐像などもお祀りされているほか、石塔も立っています。このうち宝塔は、笠の形がよいと思います。カーブの取り方の塩梅がよくて、首部とよう馴染んでいると感じました。塔身の四面には梵字がよう残っています。

第八十六番
本尊十一面観世音
花原 川野悦■

 十一面観音様の頭をご覧ください、少し傷んでいますが、寄り集まった小さな頭の一つひとつの表情もきちんと彫ってあります。花原の方による奉納です。

 手前左の薬師様は、彫りの細かさ、調和のとれた表現など、何から何まで素晴らしい。ちょっと、新四国・寄せ四国の札所としての小さい石仏とは思えないほど、立派なお姿ではありませんか。大きめの鼻、にっこりと笑うたお顔、衣紋のしわ、手の握りなど、写実的な表現です。しかも16臂です!この種の石仏で16臂という事例は稀であると存じます。ようまあここまでというほどの素晴らしさに感激いたしました。

 右奥は馬頭観音様です。これまた素晴らしく、3面のお顔を半肉彫りという制約の中でどう表現するかという難しい問題をものの見事にクリアしています。夫々の表情の違いもよう分かりました。御髪の半ばに浮き出た馬の頭もしっかりと表現されています。

 88体の中から、特に3体の仏様をくわしく見てみました。このほかにも彫り・表現に優れた仏様がたくさん並んでいます。ぎゅっと集まっていますが全体を見て終わりとするのではなく、ぜひ1体ずつつぶさに見学されることをお勧めします。

 仏様のたくさん並んでいる前の通路を辿ります。左カーブしてほんの少しの距離で、88番札所です。少し高いところに特別の区画を設けて、御室に収まった丸彫りの薬師様がお祀りされています。こちらの薬師様は風化摩滅がやや進んできていますが、そのありがたいお姿はよう分かります。田野地区は備後尾(びごお)の方の奉納です。こちらの霊場は、大字老松にとどまらず広範囲の方々から広く信仰されていたことが分かります。

 

9 表平の石造物

 観音堂からほど近い場所に、庚申塔や石幢、角塔婆などの石造物が集まっている一角があります。石幢の文化財指定名から、表平という小さい地名が分かりました。観音堂から下の道に戻って、民家の下を通っていきます。ここからは車が通れません。

 ほどなく、行く手の小高いところに数基の庚申塔が立っているのが目に入ります。石幢と角塔婆を見学するつもりでしたが、思いもよらず庚申塔を見つけて嬉しくなりました。なお、車で来たい場合は、先ほど観音堂への道順として2通り示したうちの、後者の道順をたどってください。

 中央には御室に収まった刻像塔が立ち、その後ろにはコの字型に文字塔が並んでいます。文字塔は8基ほど確認できました。このように、刻像塔を中心に据えてそのぐるりに文字塔を並べるという配列は、野津町など大野地方一円や南海部地方でよう見かけます。こちらはロケーションもよく、印象に残りました。それでは刻像塔から見てみましょう。

青面金剛6臂、2猿、2鶏、ショケラ、髑髏

 何から何まで個性的な庚申様です。しかも彩色がよう残り、細かい部分の彫りが鮮明に残っています。これは素晴らしい。たいへんおもしろい造形に目が釘付けになりました。非常にささやかな日輪・月輪の周りには瑞雲は確認できません。那須与一の口説の冒頭、月は清澄日は満々と…のくだりを思い出しました。主尊のお顔は、厳めしさとか威厳というよりは、なんだか不機嫌そうな雰囲気に見えます。大きな耳の上に炎髪が広がり、ヘルメットのような髪型になっている点も見逃せません。細い腕は自由奔放にカクカクと曲がり、極めて漫画的な表現がなされています。弓に対して異常なる大きさの矢など、持ち物も記号的なデフォルメがなされており、調和や写実性というよりは、分かり易さに主軸を置いた表現の工夫が感じられました。腹には髑髏と思しき顔がよう目立ち、それに対してショケラは今わの際の様相を呈しています。

 猿や鶏もいきいきとしていて、型にはまらない表現がおもしろいではありませんか。特に右の鶏の異常なる脚の長さやことさらに強調した尾羽、反対に左の鶏のよう肥った姿など、雄鶏と雌鶏をこれまた記号的に表現しています。猿はまるでコサックダンスの首尾にて、大浮かれのドンチャン騒ぎの感があります。そして中央の栗の実のような物は、いったい何でしょうか。これと同じものが彫ってある庚申塔を、以前にも見た記憶があります。これが何かご存じの方には、ぜひ教えていただきたく存じます。

 それにしても、野津町の庚申塔(刻像塔)は個性豊かでおもしろい造形のものが多いと改めて感じました。塔自体の数がたいへん多いようで、今まで偶然に行き当たった塔がかなりあります。これからの探訪が楽しみです。

梵字庚申塔

 この塔は碑面がやや荒れ気味ですが、梵字の堂々たる彫りがよいと思います。蔓草をできる範囲で除去したつもりでしたが、ちょっと不十分でした。

 この並びの文字塔の中はすべて「庚申塔」ないし「庚申」です。左端のものが特に状態良好で、文政6年の紀年銘が容易に読み取れました。今からちょうど200年前の造立です。梵字にも墨がよう残っています。また、日輪と月輪(線彫り)には彩色の跡が認められます。

 この3基もすべて梵字の下に「庚申塔」でした。碑面がやや荒れてきています。

 ところで、全部の紀年銘は確認していないのですが、このように刻像塔の後ろにコの字型に並んでいる場合、最初からそのつもりで並べていくのでしょうか。全部が一度に並んだのではなく1基また1基…と立てていったのであり、しかもその間隔は1年や2年ではないはずです。或いは、刻像塔を造立した時点で文字塔の配置を少し調整したりするものなのでしょうか?このあたりの事情がとても気になっています。

 庚申塔の右隣の木森の中には、古い墓碑ないし供養塔が数基並んでいます。

五峰修行 感應院宥辨奥通法印

 高僧の墓碑でしょうか。でも上にはお不動様が乗っています。このように、上に仏様の像が乗った墓碑は古い墓地でときどき見かけますけれども、お不動様が乗っているのは初めてみました。或いは、墓碑ではなく供養塔の可能性もあるかなとも思いました。委細は分かりません。

 さて今度は、庚申塔の裏側の道路(花原部落への道)に出て右折します。ほどなく、墓地(現代墓)の手前右側に石幢と角塔婆が並んでいます。

 この石幢は保存状態がすこぶる良好です。龕部は六角、ほかは全部円形であり、雨降りのあとの椎茸のように大きく扁平気味に開いた笠が立派で、よう目立ちます。中台には装飾がありません。だいたい、大野地方の石幢は十中八九、龕部や幢身が矩形です。しかし野津町は、大野地方とはいえ臼杵に近いので、石幢の特徴が大野町や朝地町などとはずいぶん異なり、このように円形を強調した作例も多々残っています。

 ご覧のように龕部の六地蔵様もよう残っています。この状態のよさは、大きな笠に守られていることと無関係ではないでしょう。それと、各像が沈め彫りのようになっているのも関係しているかもしれません。夫々お顔の表情は読み取りがたいものの、お慈悲の表情が思い浮かびます。

明徳五年甲戌九月十●●

 驚きました。630年も前の造立です!それなのに明徳年間の紀年銘が末尾を除いて容易に読み取れます。へりの部分に風化摩滅が感じられますけれども、長い年月を考慮すればあっと驚く状態のよさと言えましょう。

 

今回は以上です。次回も続きを書きます。生野原の石幢や庚申塔、音波橋などを掲載する予定です。

過去の記事はこちらから