大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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小野市の名所めぐり その1(宇目町)

 このシリーズでは宇目町は小野市地区の名所旧跡をとりあげます。ひとまず2回に分けて、写真がある分だけ先に紹介します。初回は探訪済みの石造文化財を一通り掲載することにします。

 さて、小野市地区は大字小野市・南田原(みなみたばる)・木浦内・木浦鉱山からなります。今でこそ鄙びた農村・山村の様相を呈しておりますけれども、この一帯は鉱山と林業、それから交通の要衝として栄えたところで、小野市の商店街や木浦鉱山の鉱山街は昔はたいへん賑おうたと聞きます。そうかと思えば悪所内(あくしょうち)、払鳥屋(はらいどや)、藤河内(ふじかわち)などといった小部落は、山また山のその奥を極めるの感があります。これらの小部落を結ぶ細道に沿うて、素晴らしい自然景勝地が点在しています。特に藤河内渓谷は県内屈指の景勝と言えましょう。西山渓谷、鷹鳥屋神社、木浦鉱山の千人間府など訪ねるべき名所も数多うございます。まだ行ったことのない場所も多いので、今後の探訪が楽しみな地域です。

 

1 田代橋

 道の駅宇目(唄げんか大橋)を起点とします。適当な写真がないので省略しますが唄げんか大橋と北川ダムの風景も素晴らしいので、展望所にぜひ立ち寄ってみてください。

 唄げんか大橋の風景を景色を眺めたら、国道326号を小野市市街方面に進みます。信号のない三叉路にて右手に分かれる最初の2車線の道(国道と平行気味に下る)に入ります。道なりに行き、突き当りを右折すれば今の田代橋がかかっています。渇水期にこの橋の上から左を見ますと、昔の田代橋が姿を現していることがあります(冒頭の写真)。時季によっては水に浸かっています。ですからせっかく訪れても昔の橋が見えないかもしれませんが、国道からもほど近いので何かのついでに立ち寄ってみることをお勧めします。車は橋を渡った先の路肩に停められます。

 北川ダムの建設により水没されるまで通行されていた橋です。明治41年の架橋で、昭和37年に水没しました。遠目に見る限りでは良好な状態を保っているように見えますが、やはり水没の影響により傷みが進んでいるそうです。北川ダムに沈んだ石橋としては、ほかに旧の時間橋と夏木橋があります。わたしはまだ見たことがありません。

 

2 田原の石造物

 田代橋から国道326号に引き返して、小野市方面に進みます。「ととろ入口」信号を左折して道なりに行き、大字南田原は田原部落の中心部に石幢や庚申塔などの石造物が並んでいます。南田原バス停のすぐ近くです。

 このように三叉路になったところで、道路から少し引っ込んだところに立っています。気を付けないと行き過ぎてしまいますので、バス停を目印にしてください。車は邪魔にならないように停めます。

 立派な石幢と庚申塔が目につきます。ほかにも小型の庚申塔五輪塔の残欠などたくさんの石造物が密集しており、壮観です。この中から一部を詳しく紹介します。

奉供養六地蔵塔敬白

 笠の傷みと宝珠の欠損が惜しまれますが、ほかはほとんど傷んでいません。宇目町では、臼杵市や大野地方でよう見かける大きな笠を載せたものと、小型の笠を載せたものと、両方を見かけます。こちらは後者にあたりまして、笠の内刳りがほとんどなく、しかも龕部が縦長の、特徴的なデザインになっています。龕部のお地蔵様はめいめいに蓮台に乗り、振袖も優美に、ほんに写実的な表現でございまして素晴らしいと思います。中台と基壇が夫々六角形になっており、龕部に比して装飾性は乏しいものの、造形美が感じられます。

 説明板の内容を転記します。

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町指定文化財 田原石幢
昭和53年8月18日指定
宇目町大字南田原字田原
田原区所有

 通称六地蔵塔と呼ばれるこの石幢は、凝灰岩の複制六角形で総高186cmある。下から基礎、幢身、中台、龕部、笠、宝珠からなっているが、宝珠は紛失したのか無い。
 本町にある地蔵塔の龕部はほとんど刻像のものであるが、このように厚く陽刻されたものは珍しい。幢身には造立趣旨が記されていたと思われるが、長年の風雨のため磨滅し、詳細はわからないが、常敬寺住職と小庄屋佐保善佐衛門が造立している。
 当時のことを記載している明信寺過去帳(元木浦山正蓮寺道場常敬寺)によれば、常敬寺檀家だけでも変死3人、疱瘡で5人が死亡するなど疫病の流行は止まるところを知らず、享保の大飢饉による犠牲者をいたみ供養のため田原村小庄屋が、同村に派遣されている鶴崎村出身の住職と共に、同村の石工を呼んで造らせたものである。

宇目町教育委員会

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 一点補足します。説明文中に「田原村」とあります。ところが所属していた大野郡内には田原村が3つあり、これでは障りがあるので、この地域は南田原に改称されたのです。

庚申塔

 半ばで折れた痕が痛々しいものの、それが銘にかからなかったのが幸いです。碑面の縁取りがほんに優美ではありませんか。基礎は3重にするという念の入れようで、上段には格狭間を彫り、その中に「田原村中」と彫ってあります(村は異体字)。

奉供養石塔龕 敬白

 今まで見たことのない銘文です。上部の突起から、元々は上に何かが載っていたことが推察されます。銘の内容から上には龕部が載っていたのでしょう。つまり、こちらは石幢の残欠であると思われます。

(左)

享保三年
庚申塔
正月十二日

(右)

享保●年
庚申塔
二月十日

 この2基は大きさこそ違えど、よう似ています。いずれも享保年間の造立です。先ほどの説明板の内容から、疫病の流行や享保の飢饉により庚申信仰が隆盛したと思われます。悪霊(疫病)除けおよび作の神の霊験を期待して、庚申様に頼るよりほかなかった苦しい時期であったのでしょう。石幢と同様に庚申塔もまた、この地域の歴史を伝える大切な文化財です。

 

3 宮津留の庚申塔

 田原の石造物から国道326号まで後戻って、小野市方面に進みます。右側に「大規模林道宇目小国線←」の青看板が立っているところを左折して道なりに行き、国道の高架下をくぐります。しばらく進んで佐保自動車整備工場のすぐ先を右折します。浅い切通になったところの左上にも石仏などが遠目に見えましたが時間の関係で立ち寄れませんでしたので、今回は省きます。その切通しを過ぎて家並みが途切れ、次の家並みが宮津留部落です。道路左側にたくさんの庚申塔が並んでいるのですぐ分かります。

 以前は鬱蒼としていましたが枝を下ろして明るくなっていました。写真に写っている以外にも、上の段にたくさんの文字塔が並んでいます。その銘はほとんどが「庚申塔」や「奉待庚申塔」でした。また、単独の写真を撮り忘れてしまったのですが、1基のみ刻像塔もあります。写真中央の石祠の奥壁に6臂の青面金剛を彫ってあるのです。このような例は何度か見たことがありますが、近隣では稀です。御室の中ですけれども風化摩滅が進み、細部は分かりづらくなっているのが惜しまれました。けれどもこの場所の庚申様は信仰が続いているようで基礎を立派にやりかえていますので、倒伏等の心配が少なく安心です。

 

4 釘戸の石造物

 国道326号を三重町方面に進みます。小野市市街を過ぎて、三国峠への登りにかかる手前、道路端に釘戸バス停があります。そのバス停の少し手前から右に下りて橋を渡った先を左折したら、道路端に庚申塔などの石造物が並んでいます。国道からでも遠目に見えるのですぐ分かると思います。近くに適当な駐車場所が見当たりませんでした。

 石灯籠と庚申塔(刻像塔)は良好な状態を保っていますが、ほかは傷みが進んでいます。中央は半肉彫りなった仏様で、その種別は分かりせん。その左は三界万霊塔か一字一石塔と思われますが銘がすっかり消えており正体不明です。上に乗った仏様も傷みが著しく、おいたわしい限りです。左端は庚申塔(文字塔)と思われます。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、邪鬼、ショケラ

 一見して、既視感を覚えました。本匠村や直川村で、よう似た塔を見たことがあります。素晴らしい保存状態に感激しました。上から順に見てみましょう。

 まず日輪と月輪および瑞雲が、対称性を崩した配置になっていておもしろうございます。特に月輪が三日月型になっているのと、月輪側の瑞雲の渦巻き模様が楽しいではありませんか。主尊はさても恐ろしげなお顔で、眉間のしわも見事に表現してあります。顎のラインがふくよかで、ヘルシアをお供えされてあるのも、さもありなんといったところでしょうか。腕の表現は失礼ながらやや稚拙です。長さがまちまち、手首の曲げ方も尋常ではなく、角ばった指など、漫画的なデフォルメがなされています。けれどもバランスの狂いなどものともせでとにかく碑面いっぱいに堂々と表現してあり、これはこれで、力強く勇ましい感じがよう出て、効果的であるように思います。特に中の腕を短く、上の腕をことさらに大きく表現してある点などは明らかに意図的なものでありましょう。

 ショケラは横向きで、手足をぐっと曲げています。四つん這いになったタイプの邪鬼をそのまま縦にしたようなデザインです。鶏は主尊の裳裾にちょこんと乗って戯れています。邪鬼は苔と風化で分かりづらいものの、宇目町や直川村でよう見かける、お顔を正面向きに彫ったタイプのものです。その左側には正面を向いて立った猿が「見ざる」、右では左向きの猿が2匹、夫々「言わざる」「聞かざる」になっています。猿の配置がなかなか面白うございます。

 

○ 小野市の子守唄

 宇目の子守唄はレコードやラジオ放送により他県の方にも広く知られています。特に木浦で唄われたものが著名ですが、小野市など町内他地域をはじめとして、南海部地方の沿岸部から大分市に至るまで、県内のかなり広範囲に亙って同種のものが唄われました。いずれも赤子をあやすためというよりは、子守奉公の娘が気晴らしに唄ったものです。

〽ねんねねんねと寝る子はかわい 起けて泣く子は面憎い ヨイヨイ
〽面が憎けりゃ田んぼに蹴込め 上がるそばからまた蹴込め ヨイヨイ
〽私ゃ唄いとうぢ唄うのじゃないが あまり辛さに泣くばかり ヨイヨイ
〽あまり辛さに出て山見れば 霧のかからぬ山はない ヨイヨイ
〽嫁にやるなら田原にゃやるな 田原田どころ畑どころ ヨイヨイ
〽人の子じゃとてわがまま気まま いつかお前の恥が出る ヨイヨイ
〽あの子よい子じゃ牡丹餅顔じゃ 黄な粉つけたらなおよかろ ヨイヨイ
〽黄な粉つくるよりゃ白粉つけて 晩は二階で客となる ヨイヨイ
〽よいやよいやと与一を見なれ 与一金ゆえ殺された ヨイヨイ
〽あの子覚えちょれ後日の晩に 怨み殺さにゃ取り殺す ヨイヨイ
〽守子三人寄りゃ喧嘩の元よ 喧嘩せにゃよいさせにゃよい ヨイヨイ
〽二十五日はたびたび来れど 帰る五日はさらになし ヨイヨイ
〽二十五日のいとまの風が そよと吹いたら帰りましょ ヨイヨイ
〽辛抱し厭いた床とり厭いた 様の機嫌もとり厭いた ヨイヨイ
〽小野市ゃ照る照る釘戸は曇る 並ぶ楢ノ木ゃ槍が降る ヨイヨイ
〽天の星々数えてみれば 九万九つ百七つ ヨイヨイ

 

今回は以上です。次回もう1回だけ小野市地区の記事を書いたら、宇目町の記事はしばらくお休みになります。

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