大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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中井田の名所めぐり その1(大野町)

  このシリーズでは、大野町のうち中井田地区(旧中井田村)の名所を紹介します。中井田地区は大字杉園・十時(ととき)・後田(うしろだ)・代三五(だいさんご)からなります。この地域で著名な名所と申しますと木下磨崖仏(吉祥庵跡)くらいなものですが、ほかにも岡のなまこ墓、中道神社、豊尾神社など、たくさんの名所旧跡・文化財があります。まだ行ったことがない場所ばかりなので、これからの探訪が楽しみな地域のひとつです。

 さて、初回は庚申塔を中心に、大字後田と代三五で見つけた未指定の石造文化財と、それから大字十時の吉祥庵跡を紹介します。珍しい銘の庚申塔も出てきます。また、石幢についてはこれまで大野地方の記事に出てきたいろいろな石幢とぜひ見比べてみてください。見比べることで、夫々の個性・よいところや特徴がより分かりやすいと思います。

 

1 広戸の石造物(下)

 国道57号中九州自動車道)から、大野東インターを出て南に進みます。しばらく行くと、右カーブするところの右側に広々とした墓地があります。その中に、2か所に分かれて庚申塔や石仏がお祀りされています。車は、この少し手前で左側の路肩が若干広くなっているところがあるので、そこに停めるしかなさそうです。ここは大字後田は広戸部落のうちと思われますが、小さい地名が分かりませんでした。後ほど、広戸部落の別の場所の庚申塔も紹介しますので、区別のために「下」と付記します。

 こちら側は、車道からでもすぐ分かります。右は仏様のおさまった御室、中央は馬頭観音様、左は庚申塔です。庚申塔は全部文字塔で5基程度あります。手前に3基立っているうち、右の塔のみ銘が読み取れました。後ろには破損したものを倒してあります。

 笠と龕部とが後家合わせになっている気がします。仏様は頭部が破損したようで、別石で補修してあるようです。そのお顔のなんと朗らかなことでしょう。丸いお部屋がよう似合う、優しそうなお顔ではありませんか。コンクリートブロックには花立やお水を置いてお供えしています。

 馬頭観音様は3面8臂の坐像です。印を結んだ手やお顔の表情など、細かい部分まで丁寧に表現されています。それだけに、地衣類の侵蝕が惜しまれます。今のところ夫々のお顔の違いや御髪の櫛の目までよう分かりますけれども、こんなに苔などが付着しているとその部分の傷みが進んでしまわないでしょうか。杞憂であればよいのですが。この辺りは全くの農村地帯です。尾根筋と谷筋が複雑に入り組んでおり、少しの土地も無駄にせで一面に田畑が開かれております。昔は、平素の耕作はもとより、開墾や運搬その他に牛馬が大活躍したことでしょう。馬頭観音様を拝見いたしますと、牛馬を家族同様に大切にした昔の方の心根が思われます。

文政十三 年
庚申塔 待■七人
二月■■

 不整形の細長い形状の塔で、碑面が荒れています。地衣類の侵蝕もひどく、銘の全部は読み取れませんでした。紀年銘の「三」と「年」の間には小さい字で「庚寅」と彫っていたのではないかと思いますが、痕跡も定かではありません。「庚申塔」の銘の上に卍を置く事例は、数回見たことがあります。卍を伴うものが近隣地域にどの程度残っているのか定かではありませんが、少数派であることは疑うべくもありません。これからも大切に保存されることが望まれます。

庚申

 この庚申塔だけは、墓地内で少し離れたところに立っています。道路沿いの、先ほど紹介した馬頭観音様などのところとは反対側にあたる端の方で、後ろには畑が広がっています。やはり碑面が荒れて、「庚申」の文字とその上の梵字は分かりましたが、紀年銘は小さめの文字がいよいよ見えづらくなっていたので読み取りは省きます。

 

2 広戸の段々畑と彼岸花

 庚申塔のある墓地を過ぎて道なりに行きますと、中央線がなくなり狭い道になります(いずれは道路改良が進みこの辺りも広くなるかもしれませんが)。この辺りの左側にはなだらかな段々畑が広がっています。

 畝町がわりあい広く、なだらかな傾斜の段々畑です。何でもない風景のようですが、畑どころである大野町らしい風景であると感じました。彼岸花の時季は特によいので、通りがかりにでも景色を眺めてみてください。

 

3 広戸の石造物(上)

 右側の家並みが途切れてほどなく、道路端に庚申塔が立っています(冒頭の写真)。すぐ分かります。ここも秋がよくて、庚申様や仏様が尾花や彼岸花、コスモスにかこまれています。

庚申塔

 左の庚申塔は、「庚」の字の上の梵字がよう残っています。このように、上端を三角形に尖らせた形状の庚申塔もときどき見かけます。享保20年の造立です。

 右も庚申塔と思われますが、銘は全く読み取れませんでした。その手前に安置されている仏様は頭部が失われています。

 

4 代の石造物

 庚申塔を過ぎてほどなく、中央線が復活します。突き当りを左折して、右側にカーブミラーのある角を右折します(左側に小さな青看板あり「→代三五」の指示に従います)。少し行くと代三五(だいさんご)部落のうち代で、左側に代バス停があります。バス停の後ろには代三五の公民館があり、その坪にたくさんの石造物が寄せられています。なお、代三五と申しますのは代と三五の合成地名であり、三五は代の少し先です。今は、航空写真を見る限り代三五全体でせいぜい15戸程度しかなさそうです。江戸時代もそんなに人口が多かったとは思えないような土地なのに、石造文化財の数が多いことに驚かされました。いずれも未指定ですけれども、多種多様な石造物が一堂に会する光景は壮観です。

 このように、前列には板碑、庚申塔(刻像)、石幢、五輪塔が並んでいます。後列には庚申塔(文字)がずらりと並んでおり、後ろの車道からも見えます。石幢は完成系のものはありませんが、4基分あります。庚申塔もたくさんあります。これらの中からいくつかピックアップして、詳しく見てみましょう。

青面金剛6臂、2猿、髑髏

 この庚申様には個性的なところ・おもしろいところがたくさんあります。それなのに、碑面の荒れと地衣類の侵蝕により折角の彩色が薄れているばかりか、細かい部分が分かりづらくなってきているのが惜しまれます。

 まず、主尊の頭部に注目してください。まるで神官さんに見替えの防止をかぶり、その中央には髑髏がついています!このように、主尊の頭に髑髏がついていたり、または髑髏の首飾りをしていたりする事例はこれまでにも数基紹介してきました。作例は少ないものの1基や2基ではないので、何らかの共通の意図をもってなされたものと思われます。お顔は、眉が立派で、鼻筋が通り細い目をキッとつり上げています。よう整うた顔立ちであると感じました。体を見ますと、向かって右の腕(左腕)は明らかに3本ありますのに、左の腕(右腕)は2本のように見えます。これは、体の横に出した腕が風化摩滅で消えたか、または体前に2本の腕を回しておりそれが重なっているかだと思います。弓や脚の異常なる小ささ、寸胴型の体躯などバランスが優れているとは言い難いものの、非常に個性豊かで、型にはまらないデザインです。

 主尊の外側には、ごく小さく2匹の猿が彫ってあります。一見して童子かなとも思いましたけれども、「見ざる」などのポーズから猿であると分かりました。主尊の足元では2羽の鶏が戯れているようにも見えますが、この部分は風化がひどく、確証を得ません。

 塔と基壇の接合部が合わず、ややゆるいのが気になります。おそらく、本来の基壇ではないのでしょう。何らかの理由ですげ替えたのでしょうか、または移設する際に誤ったのででょうか。

 この板碑は比較的大きいもので、上部を三角形にこしらえ、額部は張り出さず2条の線でもってその区画を分かつタイプのものです。この種の板碑は大野地方で盛んに見かけます。2条線の下には梵字(2文字)、その下には長い漢文の銘が彫ってあります。読下しは省きます。

 手前の供養塔(納経の銘あり)は追善供養のために造立されたようです。このタイプの供養塔は佐伯方面で特によう見かけます。こちらは、上に乗った仏様の頭部の破損がおいたわしい限りです。

 この石幢は残念ながら笠から上が失われています。そのためでしょうか、龕部のお地蔵様の風化摩滅が目立ちます。元は細かい彫りで表現されていたようです。龕部には蓮の花を線彫りで表現し、たくさんの花びらが互い違いになっています。幢身に大きな亀裂が走っているほか、台石も割れています。地震などによる倒壊が懸念されます。

 写真では見切れていますが、この石幢は中台が逆さまになっています。崩れたものを積み直したときに間違えたのでしょう。龕部は矩形で、1面あて2体、計8体の像を彫ってあります。六地蔵様と二王様です。やはり風化摩滅が目立ちますものの、笠で守られているからでしょうか、こちらの方がまだ良好です。どうもお地蔵様は坐像のようです。石幢のお地蔵様を坐像で表現してあるのは珍しい気がします。

 このほかにも、龕部が失われた石幢もあります。

 五輪塔も傷みが目立ちます。各部材が、本来の組み合わせではないような気がします。

庚申拝石

 この庚申様の銘を確認したくて前の枝を動かそうとしたところ、とげで指をかかじってしまいました。「庚申拝石」という銘は初めて見たきがします。痛い思いはしましたが、枝をはぐった甲斐がありました。待ち上げのたびに拝石(庚申石)を立てていき、大待ち上げで塔を立てたなどの事例が方々に残っています。庚申石は無銘であることがほとんどですが、こちらは「庚申拝石」という銘や、講員の方のお名前も彫ってあります。

■■■丙■
庚申塔
霜月十五日

 この塔は横幅から推してそれなりに大きいものであったと思われますが、上部がナタで切ったようにすっぱりと割れています。「庚」の字にぎりぎりでかかっていないのはこれ幸いでした。

 左と中央は銘が全く読み取れませんでした。少なくとも左の塔は、その形状から何らかの銘を有していたものと思われます。右の塔は、先ほど紹介した「庚申拝石」です。

 このように、前後が密接したり倒れたりしていて、銘の読み取りが困難な庚申塔(ないし庚申石)もあります。文字塔ないし庚申石は、少なくとも合計8基はあります。

 

5 吉祥庵跡

 大字十時は木下部落にある吉祥庵跡には、磨崖仏のほか、石幢などの石造文化財が残っています。一般に「木下磨崖仏」として知られていますが、磨崖仏以外にもいろいろありますので、項目名としては吉祥庵跡としました。詳細は下記リンクから、以前の記事をご覧ください。

oitameisho.hatenablog.com

 

今回は以上です。次回は養老地区の名所を少し紹介します。

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