大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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南野津の名所めぐり その1(野津町)

 このシリーズでは、南野津地区の名所旧跡・文化財を紹介します。南野津地区は野津町大字前河内(まえがわち)・吉田・秋山・東谷・西畑および三重町大字西畑(入北)からなります。
※大字西畑のうち入北部落は、地域の方の要望により昭和32年に三重町に分離編入されました。

 南野津地区で著名な観光名所としては、三重町との境にかかる虹澗橋があげられましょう。この橋については菅尾地区その1の5番で紹介していますので、当該記事をご覧ください。また潜伏キリシタン関連の史跡として、一つ木の礼拝所も知られています。全域に亙って石造文化財が多数残っており殊に石幢は質量ともに豊富ですし、栃原の新四国霊場、臨川庵跡、打睡庵跡、長尾野の磨崖仏などといった地域信仰に関する史蹟も点在しており、まったくどちらに行っても名所だらけ、文化財だらけでございます。

 初回は大字西畑の名所の一部を紹介します。この地域は特に名所が多いものの探訪が不十分で飛び飛びの掲載になりますので、不足分はまたの機会に補います。

 

1 栃原の石造物(旧道上)

 ローソン野津店の三叉路から国道502号を三重方面に進みます。南野津小学校への入口を過ぎると、道路沿いの人家がしばらく途切れます。栃原部落の民家が右の山すそに見えてきたら、左側の路側帯が広くなっているので車を停めます。歩いてすぐ先の角を右折すれば、山裾の小高いところに石幢が立っています。

 このように灌木に隠れがちですし、葉が落ちていない時季は車の中からだと見落とすかもしれません。石幢のすぐ下には旧道(車可)が通っています。小さい地名が分かりませんでしたが、栃原部落内にはほかにも石造物がありますので区別のために項目名には「旧道上」と付記しました。石幢は岩盤上の平場に立っており、その直下までは簡単に近寄れます。しかしながら参道がないので、間近で見学したいときは岩が段々になっているところを適当に上がるしかありません。景観としては花の時季が最適ですが、石幢を細部まで見学するには晩秋から冬場でないと難渋すると思います。

 この石幢は龕部が八角で、ほかは円形です。実際に間近で見ますと取り立てて大きいわけではありませんが、道路からですと見上げる高さですから立派に見えました。このような石造物、石塔類というものは、少し低い位置から見ますと特に格好がよく見えるようです。

 銘文は見当たりません。また、幢身や中台、龕部はさておき、笠がずいぶん傷んできているのが気がかりです。風化摩滅のためでしょうか、表面およびへりに凹凸が目立ちます。酸性雨等の影響もあるのでしょうか?その表面には苔ばかりか草も生えてきています。宝珠は別石をあてごうたものかと思えば、『野津町の文化財』によればこれも風化の所為とのことです。

 龕部には六地蔵様と二王様が彫ってあります。めいめいの像は細部がぼやけてきていますけれども、今のところその姿はよう分かります。沈め彫りに近い彫り方であることも関係しているのかもしれません。

 傍らには宝篋印塔や五輪塔の残欠を組み合わせた塔が立っています。転倒したか何かで破損した塔の部材のうち、再利用できそうなものを組み合わせて粗末にならないようにお祀りされたと思われます。

 

2 ヲムレの石幢

 前項の石幢のところから、道路から石幢を見て左方向へと山裾の道を歩いていきます。道なりに行けば国道に出ます(栃原バス停のところ)。横断歩道を渡って、正面の道を進みます。道なりに右カーブして上り坂にかかり、少し行けば左側の高いところの石幢がチロリと見えます。

 道路からこのように見えます。草がしこっていると見えないかもしれないので、見学は秋から冬にかけてがよいでしょう。ここから崖をへつるように小道がついていますので、気を付けて辿れば石幢のすぐそばまで上がれます。地面が乾いている日でなければ滑りそうです。

 なお、この場所も栃原のうちですが、文化財の標柱から字名が分かりました。「お(お)むれ」という地名は県内に点在しておりまして、その土地々々で小牟礼とか於牟礼、大牟礼、大村などさまざまな表記を見かけます。こちらは片仮名で「ヲムレ」で奇異に感じる方もあるかもしれませんが、このような事例は珍しくありません。小字やシコナ、通称地名と申しますのは口伝によるもので、漢字表記が不明ないし表記に揺れがある場合も多いのです。

 これは素晴らしい。町内に数ある石幢の中でも屈指のものであると存じます。紀年銘が見当たらず造立年は不明ですがそう新しいものとも思えませんのに、傷みがほとんどありません。各部材の比率の塩梅がよく、しかも細かいお細工が見事なものです。

 まず宝珠の造りが凝っています。このように火焔を伴う作例は以前、三重町の石幢を紹介した中で沢山出てきましたが、野津町では珍しいように思います。笠は円形の照屋根で、カーブの取り方がほんに上品な感じがいたしますし、へりを若干下すぼみにするなどの工夫によりどことなく優美な雰囲気を漂わせています。このように高さのある笠の場合、内刳りが深くて龕部が半分くらい隠れている例もあります。ところがこちらは内刳りはそれなりにしておいて、龕部が大きく露出してあります。それがために円形の笠と矩形の龕部との形状の違いが目立ちますものを、径の比率がよいためでしょうか、思いの外両者の親和性が高く全く違和感がありません。

 中台は薄く、幢身から外に広がるところの角度が浅めです。これは地厚の笠とは対照的で、へりの連子模様はさておき、装飾性よりも中台としての機能面が前面に出ており、龕部から塔身への連続性が保たれているように思います。基壇には一段の造り出しが見られ、この箇所もほとんど傷んでいません。

 笠には垂木の装飾がよう残ります。龕部には1面あて2体ずつの像で、六地蔵様と二王様が彫ってあります。めいめいの像にもほとんど傷みがなく、細部までよう分かります。六地蔵様は夫々舟形の中に沈め彫りの様相を呈しております。その沈め方が、舟形のへりから急に深くなるのではなくて、外からなだらかに、だんだん深くなっていて像のきわのところにてくっきりと角をつけています。沈め彫りと申しましてもレリーフ状の平板な造形ではなくて、像の立体感が際立っているのもそのためでしょう。この彫り方はたいへん難しいと思います。石工さんの技量のほどを感じました。

 なお、各面の前に別石の線香立てと、カネでこしらえた小さな鳥居が置いてあります。この種の石造物に鳥居はそぐわない気もしますが、或いは愛宕様地蔵様のような信仰形態である可能性もあります。『野津町の文化財』には地域内における位置づけやエピソードは載っておらず、その辺りのことはわかりませんでした。

 二王様の表現方法は、六地蔵様とはまるで違います。矩形の枠をとっており、余白が平面です。そのため像の立ち上がりの谷筋が浅いので、輪郭線がお地蔵様にくらべるとややぼやけています。それでもお顔の表情や冠の細い部分など、細かい部分までよう残っています。威厳に満ちた感じがして、優しそうなお地蔵様との対比も見事なものです。

 

3 田中の庚申塔(公民館そば)

 車に乗って国道を先へと進みます。鼓石バス停の手前を左折して、中央線のない道をずっと道なりいきます。公民館のところで「止まれ」の交叉点に出たら直進して、すぐ先の右側、高いところに庚申塔が並んでいます。右側に気を付けながら行けばすぐ分かりますが、草が伸びている時季は見えないかもしれません。

 このように、道路よりもそれなりに高い位置に並んでいます。この左側の方から回り込んで、塔の下の段まで上がる道があります。車はこのあたりの路肩ぎりぎりに寄せて停めるか、または先ほど申しました公民館のあたりに停めます。

 なお、ここは田中部落のうちですが小さい地名が分かりませんでした。部落内のほかの場所にも庚申塔がある可能性が高いので、一応区別のために項目名には「公民館そば」と付記しています。

 この場所は平場が2段になっています。上の段に、少なくとも6基の文字塔と1基の刻像塔が確認できました。文字塔は2基が倒伏、もう2基は苔に覆われて銘が全く読み取れません。さらに写真の左に前後に並んで立っている文字塔のうち、後ろの塔の銘も読み取れませんでした。これは、そばに寄れば分かったと思うのですが、上の段に上がる通路がなくて高い段差を攀じるよりほかありませんで、そこがひどく滑ったので諦めて下段からの見学ですませたためです。それで、今回は手前の文字塔と刻像塔のみ詳しく紹介します。

    寶暦七丁巳天
       拾二人
梵字庚申塔   講中 ※講は異体字
       ■立之
    十月朔日

 この塔は状態が良好で、銘の文字が容易に読み取れるばかりか全体に朱がよう残っています。伏字にした文字も状態はよいものの、読み方が分かりませんでした。写真をご覧いただくと分かると思いますが、銘の配置が巧みです。対称性に留意していることは一目瞭然で、特に「寶暦七丁巳天」の長さに合わせて「十月朔日」を均等に割り付けてある点にこだわりを感じました。

青面金剛6臂、3猿、2鶏、ショケラ
寛政五年
九月■日

 わたしは驚きました。このようなタイプの刻像塔は宇目町でしか見たことがなかったので、まさか野津町にもあるとは思わなかったのです。非常に立体感の富んだ、彫りの緻密な刻像塔の下には矩形の台座があります!このように、矩形の台座の上にいろいろな仏様が乗った供養塔の類はよう見かけますけれども、庚申塔でこのタイプは稀でしょう。費用も手間も余計にかかるのは明白で、祈願がよほど真に迫っていたことがうかがわれます。

 では、上から見ていきましょう。日輪・月輪や瑞雲は目視では確認できませんでした。上の方が少し傷んでいるので、消えた可能性があります。主尊の表現は素晴らしいの一言に尽きます。非常に立体感に富み、しかも指の握りや御髪など細かいところまで丁寧に彫り込んであるばかりか、対称性に留意したデザインにも優れたところがたくさんあります。こういった表現は形式的になりがちなところを、ほんにいきいきとした感じがするではありませんか。威厳に満ちた表情、腕の配置、とった武器を逆ハの字に配置するなど様々な工夫によって、いかにも青面金剛らしい雰囲気がよう出ていると思います。御髪の隅や腕輪などの朱がよう残り、何から何まで行き届いています。ショケラは横向きで、哀れなるかや主尊にすがりついています。

 主尊の足元はカーブを描いて前面に張り出しており、この部分に猿と鶏が並んでいます。通常、このような帯状の箇所に彫った猿や鶏は、レリーフ状の彫りか沈め彫りが相場です。ところがこちらは、特に猿は浮彫りの様相を呈してわりあい大きく表現されており、前に飛び出してくるような迫力があります。苔で見えづらいものの、猿の目や鼻まで丁寧に彫ってあるのが確認できました。鶏は非常に珍妙な姿で、なんだか禍々しい雰囲気で猿をにらみつけておりますのもまた面白うございます。

 特に文化財指定は受けていないようですが、野津町の庚申塔の形態を研究するうえで重要な作例と考えられますし、彫刻としても優秀作です。

 

4 田中神社

 庚申塔のところから先へと進みますと、道路左側に田中神社が鎮座しています。呼称からも明らかなように旧村社で、田中部落一円の尊崇を集めており境内はいつも清掃が行き届いています。

 このように、今は境内が道路より少し低くなっています。これは架橋に伴う変容と思われ、今のような道路ができる前はもう少し低い橋であったのでしょう。駐車場はこの少し手前にあります。

 そう広い境内ではありませんけれども樹木の手入れが行き届いていますし、横には小川が流れており気持ちのよい場所です。また、社殿の彫刻が見事なものなので、参拝時には見学をお勧めします。

 いかがですか、脇障子の彫刻をはじめとして組物、軒口の彫刻など、派手ではないものの精密なお細工が見事に施されています。写真を撮り忘れてしまいましたが、龍の彫刻は文化財に指定されています。参拝すればすぐ分かります。龍だけでなく、正面、左右すべての面を確認してみてください。

 なお、この神社から一石づくりの立派な桁橋を渡れば臨川庵跡に至ります。両者は横並びというわけで、神社参拝の折には庵跡の石造物も見学できるというわけです。長くなるので、臨川庵跡は次回紹介します。

 

今回は以上です。次回は臨川庵からはじめて、細枝部落の石造物を少し紹介します。

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