大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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直見の庚申塔めぐり その1(直川村)

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 引き続き直川村の庚申塔を紹介します。赤木、横川、仁田原ときて、今回は大字下直見を巡ります。下直見は直川5ケ村のうち最も佐伯市街地に近く、直見駅もこの地にあります。右に左に屈曲する久留須川べりの平地には田んぼが広がり、なんとも長閑な風景でございます。写真がないので今回は省きますが籾崎山の新四国をはじめとして、部落ごとに多種多様な石造文化財が多く残っております。

 

1 間の毘沙門庵の石造物

 直見駅前から国道10号を佐伯市街地の方向にほんの少しだけ進み、1つ目の角を右折し踏切を渡ります。突き当りを左折して、間部落に入ります。右に川べりの小道を見送って、次の角を右折し道なりに行きます。道路右側にかかっている橋のガードレールに「四十九番札所 毘沙門庵」の小さな看板がついていますので、それに従って右折します。右の階段を上がればすぐ境内に着きますが、車の場合は下に停められませんので階段を無視して狭い道を直進します。ほどなく右側に盆踊り等のできそうなグラウンドがあります。右折して、そのへりに沿うようにして奥にまいりますと毘沙門庵の境内まで車で上がることができます(駐車可)。

 毘沙門様にお参りをしたら、坪に寄せられている石造物を見学いたしましょう。坪の端に2つのグループに分かれて立っています。手前が冒頭の写真で、お弘法様と六地蔵様が並んでいます。その隣が下の写真です。

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 大乗妙典一字一石塔や保食神様の祠などに並んで、中央に庚申様が1基立っています。紹介の順番が後回しになってしまいましたが、こちらは直川村の探訪で最初に行き当たった庚申様でございまして、たいへん立派な造形に感激し、その後の探訪への期待感がいや増してまいりました。

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青面金剛6臂、2猿、2鶏、ショケラ

 こちらの主尊は、前回紹介しました仁田原地区は大鶴部落の大師庵にある刻像塔の主尊とよう似ております。このような造形の主尊は本匠村でも見た覚えがございまして、南海部方面で比較的よく見かけるパターンのようです。その全てが同一作者によるものとは考え難く、ある種の流行と申しますか、評判のデザインであったのでしょう。厳めしい風貌や火焔光背、たくましい腕など、青面金剛の力強くて怖い雰囲気がよう表現されていますし、しかも6本の腕の付け根が自然な収まりになっていて、秀作といえましょう。直川村では碑面全体に赤い彩色を施した刻像塔をときどき見かけましたが、こちらは色をつける部分をきっちりと区分して丁寧に塗り分けています。また、直川村で見かけた庚申塔で猿の刻まれている塔はたいてい3猿であったように思いますけれども、こちらは2猿が主尊の両脇に刻まれています。これも大鶴庚申塔と同じです。さらに猿の真上には2羽の鶏も見られて、特に向かって右の鶏など猿に肩車をされているように見えてまいりますのもほんに面白うございます。猿も鶏も左右で動きを違えて変化を持たせておりますので、生き生きとした感じで楽しいではありませんか。

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 堂様の壁に『毘沙門庵誌』が掲示されていました。文字が小さくて画像では読みにくいので、全文を起こします。

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   毘沙門庵誌
 この地区の中心の小高い丘の上に一八三九年(天保十年)に仁田原の正定寺の境外仏像として建てられた毘沙門庵があり、常に地区民を眺め下して見守っている。佐伯四国八十八ケ所の四十九番札所として知られる霊験あらたかな庵であります。この毘沙門庵は、山号が善利山、寺号は護国寺で善利山護国寺と云っていましたが、毘沙門天様を詞りし多くの願いごとをかなえさせて下さる神様で、「毘沙門天様、毘沙門天様」と親しまれてきましたので、今私達は「毘沙門庵」と呼んでいます。
 この毘沙門天様の外にお釈迦様、お大師さま、お地蔵様をお祭祀しており、地区民は毎日交代でご仏飯をお供えにいき、地区民の健康と幸せを祈っています。お釈迦様の誕生日の四月八日は、毎年世話人が庵に在ります。甘茶の木の葉で甘茶をつくり、お釈迦様をタライの中に入れ屋根をつくり、蓮華や菜の花、蛇杓子などで飾り、そのお釈迦様に甘茶をかけ、ご仏体を洗って無病息災を祈り、その甘茶を各戸に分けて飲み健康を願っています。
 また、毘沙門天様は軍の神様であり、城を築くときや寺を築くときに真北、子の方向で北の護りの神様とも云われています。この毘沙門庵は、正定寺の真北にあたります。毘沙門天様は、軍の神様でありますから「間地区」から日支事変、大東亜戦争に二十三名の人が出征していますが、この毘沙門天様が見守ってくれたお陰で一人の戦死者、病変者もなく全員元気で復員することができました。この戦争で戦病死者がなかった地区は珍しく、私達は本当に有難く霊験あらたかと思っています。
 また、この庵には涅槃像絵の掛け軸が一八五五(安政二年七月)に弥生町堤内の「岩助さん」と云う人から寄進があり、地区の宝物としています。この涅槃とはお釈迦様は印度の人で仏教を開いた偉い人であったが、旧二月十五日に亡くなられており、その亡くなられたとき、お釈迦様のお弟子さんや鳥類、獣類、爬虫類がみんな嘆き悲しんで弔いをしている絵であり、雲の上にいる人はお釈迦様のお母さんです。
 この庵も建物の老朽化が激しく雨もれがあるため昭和三十九年に庫裏の新築を、昭和四十九年に本堂新築をしていたが、平成元年八月二十五日夜の大雨で本堂裏側の石垣が崩壊したので翌日地区民が現地をみて検討した結果、本堂の土台や参道にも亀裂が入っているので、この本堂を別の場所に移転新築してはどうかとなり、全員賛成で移転新築することになった。場所はすぐ近くにある下口の岩井芳金氏の土地の寄進を受け細目等は地区民の寄進と全員奉仕により、平成二年九月十九日正定寺和尚様の導師のもと建立致しました。正定寺檀信徒の方々には過分な浄財を寄進いただき、また和尚様からは壇引きの寄進をいただき重ねてお礼申し上げます。
 文 村西勇
 区長 中津留幸雄

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 ここまで詳細な説明板はなかなかありません。その中に庚申様への言及がなく、庚申講が絶えていることが覗われます。それでも地域の方が交代でお仏飯をお供えされていること、花祭りが続いていることなど、毘沙門庵ならびに境内の諸仏に関する細かいことまでよく分かりました。

 

2 新洞の庚申塔(川べり)

 直見駅前から県道608号を進み、田んぼの端まで行ったら鋭角に左折します。川べりを進んで右折して橋を渡り、あとは道なりです。川と法面に挟まれた狭い道の途中、道路端に庚申塔が立っています。『直川の庚申塔』によればこちらには4基の庚申塔が並んでいるはずなのですが…

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 現状、写真の1基だけしか残っていません。グーグルマップのストリートビューを見ますと2013年の時点では、写真の塔の向かって左側の1基は既になくなっていますが、右の2基はまだしっかり立っています。特に右隣の塔は大きくて、台座に接している部分の厚みもしっかりあり倒伏しそうな様子はございません。それなのに、どうしてこの1基を残してなくなってしまったのでしょうか。もしかしたら、いつか大水が出た時に破損したのかもしれません。いずれにせよ残念なことでございます。

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青面金剛4臂、邪鬼

 童子はおろか猿も鶏も伴わないシンプルな塔ですのに、非常にインパクトのあるデザインの主尊と邪鬼が碑面いっぱいに配されていますので、全く淋しそうな雰囲気がございません。むしろ堂々とした印象を受けました。主尊の大きな顔、その恐ろしげな風貌が立派で、不幸を撥ね退けてくれそうな心強さがございます。特に眉間の横じわやその上の丸いイボのような突起が特徴的です。両腕にちょいとひっかけている衣紋のヒラヒラの先がクルリと外向きに跳ね上がっているところの表現もよいと思います。そして邪鬼の大きな顔といったら、得体の知れない怪しげな雰囲気がよく出ていて、明らかに悪者のような感じがします。大きな舌を出しているのがおもしろいではありませんか。直川村で見かけた邪鬼は大抵横向きで四つん這いにて表現されていましたが、こちらは四つん這いになった邪鬼を正面から描いているようです。それで、大きな顔の両脇に前足を刻むというなんとも珍妙なデザインになっているのでしょう。色褪せてきているものの赤・黒・白と3色も使い分けて丁寧に彩色を施されていることから、新洞部落の方によほど信仰されていたことが分かります。庚申講は止んで久しいものの、お賽銭が上がっていましたので今でも塔の前を歩く方が手を合わせたりされていることが分かりました。3基が失われ、ただ1基残っているこちらの塔が今後も破損することなく、これから先も永く新洞部落を守って頂きたいと願っています。

 

3 新洞の石造物(壇ノ前)

 ただ1基残った庚申塔をあとに少し進めば、新洞部落に入ります。ほどなく左側に公民館が建っており、その辻に庚申塔ほかの石造物が数基寄せられています。こちらの通称地名を壇ノ前というそうです。壇と申しますのはおそらく祭壇の意で、石造物の並んだところを指して、その前の土地という意味でしょう。

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青面金剛6臂

 主尊だけを刻んだ庚申塔です。このように諸像を伴わない青面金剛像は、大野地方ではときどき見かけますものの直川村においては稀であるようです。しかもこちらの塔では主尊の姿勢も変わっています。普通、刻像塔の主尊と申しますと正面を向いて立っています。ところがこちらはどう見ても坐っています。胡坐か正坐か判断に迷いますが、立っていないことは確かです。以前倒れたことがあるのか塔身の上部の破損が著しいのが惜しまれます。主尊のお顔も削れてしまっていて、表情をうかがい知ることはできません。ただお顔の破損は、意図的に削り取られたものであるような気もいたしました。経緯はどうであれ、今はこうして立派な祭壇を設けて鄭重にお祀りされていることにほっといたします。

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 立派なお室の中の仏様は、首を新しくすげ替えてありました。この立地にありましては転倒して首がとれたとは考え難く、或いは廃仏毀釈の煽りを受けてのことかもしれません。庚申様のお顔の傷みもその可能性があります。それでも、後年このように首を修復されておりまして、地域の方の信心のほどがうかがわれます。

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  こちらの庚申塔には何の銘もございません。墨書きされていたのが消えてしまったのか、最初からこの状態であったのかは分かりませんでした。

 

以上、下直見の庚申塔を中心とした石造物の一部を紹介しました。冒頭の毘沙門庵の庚申塔の前後で、行き当たらなかった庚申塔も数か所ございます。それはまた時間のあるときによく捜してみようと思っています。次回も下直見の庚申塔です。