大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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立石の名所めぐり その2(山香町)

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 今回は立石地区の磨崖仏をめぐります。この地域には、私の知る限りでは4か所(棚田・西鶴・岡・仏ヶ迫)に磨崖仏がございますが、このうち仏ヶ迫の磨崖仏はまだ行ったことがないので、ひとまず残りの3か所を紹介することにします。棚田の磨崖仏以外は保存状態がよろしくなく、特に岡の磨崖仏はその痕跡をうっすらと認める程度にまで風化してしまっています。しかし自然の岩壁と一体になった磨崖仏は、よしそのお姿が消えかかろうとて、その場所に仏様が宿っていると思えばほんにありがたいことではありませんか。

 

4 棚田の磨崖仏

 国道10号沿いのホームセンターセブンのところから踏切を渡って、線路沿いの旧道を立石方面にまいります。棚田部落に入って道なりに進んでいくと、道路左側の民家の裏手に冒頭の写真の堂様がございます(道路からも見えますが気を付けないと見落としそうです)。最近は「棚田六地蔵」の幟が道路端に立っているようですから、それを目印にしてください。車は、この先の「金山橋」の辺りの路肩が広くなっているところにとめるとよいでしょう。

 なお、こちらは旧国道から直接行くには民家の坪を横切らなければなりませんので、一言ことわって通った方がよいでしょう。または「金山橋」の少し手前から左に上がって折り返し、旧国道沿いの民家の裏手の背戸道を通って堂様のところに抜けることもできます。

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 説明板の内容を転記します。

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市指定有形文化財(建造物) 平成12年12月19日指定
棚田六地蔵磨崖仏
   杵築市山香町大字下字棚田

 中勢に信仰された浄土宗の教えでは、人間は生前の行いにより死後の世界が六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)に分けられ、地蔵菩薩がこれらの救済にあたると信じられていた。そのため、人々は死後の幸福を願い、六道救済のため六地蔵信仰が盛んに行われていた。また、右端の地蔵半跏像は長寿を期待した延命地蔵と考えられる。
 各像は豊かな肉付きと奥行きのある彫りから量感に富み、古様で彩色もよく残り作者の願いが偲ばれる。造立年代は不明であるが、作風から南北朝時代後半から室町時代前半(14世紀後半~15世紀初頭)と推定される。

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 堂様の軒口には「岩尾山 福田寺」とあります。この近隣に福田寺というお寺がかつてあったのでしょう。それに関連する磨崖仏であると考えられます。

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 堂様の奥の岩壁に7体の仏様が刻まれています。説明板によれば、向かって右端に一段高い仏様は「延命地蔵と考えらえる」とのことですから、残りの6体が六道の岐路にあって私たちを救うてくださる六地蔵様ということなのでしょう。ただ、そうであれば中央のお地蔵様がことさらに大きいのが気になります。普通、墓地の入口等で見かける六地蔵様は全部が同じ大きさです。

 これはどうしたことかとつくづく考えまして、以前本匠村の一矢返部落にて「能化(のうげ)様」の石像を拝見したことを思い出しました。一矢返では、磨崖ではありませんけれどもやはり7体の仏様が横並びになっていて、中央の仏様はひときわ大きくその台座に「能化尊」と刻まれていました。能化様とは六地蔵様を統べる仏様とのことです。つまり一矢返では六地蔵様を左右3体ずつに分けて、その中央に能化様をおいていたのです。或いはこちらの磨崖仏も、中央の大きな仏様は「能化様」の類であって、その左右の3体ずつが六地蔵様なのではないでしょうか。これは説明板の解釈とは異なりますし他地域の事例からわたくしが勝手に推量した根拠のない説に過ぎませんけれども、中央の仏様が大きい理由としては確からしいような気がいたします。

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 諸像の状態は良好で、比較的厚肉に彫ってありますのに風化・剥落は少なく、細かい彫りまでよう残っているうえに彩色も鮮やかです。中央の仏様の頭の部分が剥離してしまっていますけれども、お顔が傷んでいないのが幸いでございます。ただ岩壁の上部には植物が貼り付いて、中央の仏様の上に彩色にて表現された光背か何かが見えにくくなっているのが惜しまれます。

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 右端の仏様は一段高い位置にて小さく見えますけれども、これは坐像であるのでその他の立像(中央を除く)よりも当然背が低くなっているだけで、その実は同程度の大きさといえましょう。

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昭和五十二年八月吉日
弘法大師
岩尾山福田寺 棚田講

 磨崖仏の右側の龕に安置されたお弘法様の坐像です。意外に新しいものですが、この空間にあって違和感なく馴染んでいます。

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 堂様の外、右側の岩壁の割れ目に龕をこしらえて、破損した仏様が安置されていました。台座には札所の番号が刻まれています。この近隣の、新四国の札所と思われます。

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 金山橋のすぐそばには、大岩に御室をなして中に仏様がたくさん安置されていました。こちらも磨崖仏同様、「福田寺」関連と思われます。先ほど申しました「民家裏の背戸道」は、この御室のところから入ります。

 棚田の磨崖仏は、近隣の方以外のお参りは少ないようです。しかし山香町に数ある磨崖仏の中でも特に保存状態が良好でありますし、彩色の残る磨崖仏は近隣在郷では稀です。ありがたい六地蔵様にお参りをされてはいかがでしょうか。

 

5 西鶴の洞窟と磨崖仏

 棚田の磨崖仏をあとに、道なりに金山橋を渡って左に川を見ながら進みます。左手に架かる一つ目の橋を渡ったところが西鶴(居住者なし)で、山裾に旧陸軍の関連の洞窟と1体の磨崖仏が残っています。こちらはよほど興味関心のある方しか訪れない場所ですが、道路からそう遠くないので簡単に見学・お参りすることができます。詳細は以前書いた記事をご覧ください。

oitameisho.hatenablog.com

 

6 岡の磨崖仏

 旧国道をたどって、道なりに立石の駅通りを進みます。立石駅の直前、右にカーブミラーが立っている角を左折して橋を渡ったところが岡部落です。橋を渡ってすぐ、見上げる大きさの岩…岩山と言った方がよいかもしれませんが、とにかく大きな岩が道路端にあります。その岩に仏様が刻まれています。車は、岩のすぐ横の路肩ぎりぎりに寄せれば1台であれば駐車できます。

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 こちらがその大岩です。道路から見上げても磨崖仏は見えません。それと申しますのも、こちらの仏様は風化摩滅が著しく肉眼での確認に困難を極めるのです。ただ、その直下に立って目を凝らせばどうにか見えます。今からその場所への行き方を説明します。

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 岩の右端にこのような石段があります。石段を上がったら左に折れて、岩棚の上の通路を進みます。

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 左に行けばすぐ、このように龕をこしらえた中に仏様が安置されています。台座に番号が刻まれていることから、近隣の新四国の札所であると推察されます。棚田の磨崖仏のところで見かけた仏様と一連のものなのではないでしょうか。昔は千人参り等で、札所を巡る方もあったのでしょう。

 この仏様にお参りをして、なおも岩棚の通路を進んで右に直角に折れます。ほどなく、左側に何らかのお供えをするためと思われる窪みがあります。その窪みのところから岩壁を見上げます。なお、以前はこの場所に「岡磨崖仏」と書いた標柱が立っていて仏様の場所が分かり易いようになっていたのですが、その標柱がなくなってしまっていました。

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 この写真に磨崖仏が写っています。現地で眼をこらせばどうにか痕跡を確認できるものの、写真では分からないと思います。この写真に印をつけてみました。

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 中央の仏様は、写真でもどうにか見えると思います。以前はもう少しよく見えていたような気がするのですけれども、久しぶりにお参りに立ち寄ったところ思っていたよりもずっと分かりにくくて、やっとこさでさがしました。

 それにしても、岩棚からほど近い場所であれば仏様を刻むのもいくらか容易いでしょうしお参りの際にも分かり易いものを、どうしてこんなに上の方に、しかも横並びでなく斜めに連ねて刻んだのでしょうか。どう考えても不自然でございます。つくづく考えますに、苔で隠れているか崩落してしまったか定かではありませんけれども、大昔には現在どうにか確認できるこの3体以外にも何体かの仏様が刻まれていたのではないかと推測しております。こちらは文化財に指定されていないし、山香史談会の5周年の冊子や『山香町誌』等を見ましても言及されておりませんので、詳しいことが分からないのが惜しまれます。近隣の方も見当たらず、お尋ねすることができませんでした。

 

今回は以上です。仏が迫の磨崖仏にもお参りしたいのですけれども、道が難所と聞いておりますのでなかなか足が向きません。でも、できれば年内には行ってみたいなと考えています。次回は津波戸山や日野地の庚申塔を紹介します。