大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田染の名所めぐり その5(豊後高田市)

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 前回、大字小崎は奥組のうち空木部落周辺の名所旧跡を紹介しました。今回は下組(台薗・だいそん)と中組(原)の一部を巡って、以前一部を紹介しました大字真木は間戸部落の残りまで紹介します。

 

22 雨引社

 台薗部落の中は道が狭いので、「ほたるの館」に駐車して歩いて散策するとよいでしょう。「小崎道路開通紀念碑」を左に見て道なりに台薗部落を目指し、橋を渡って左を見れば山裾の左の方に小さく雨引社の鳥居が見えます。1軒目の民家の手前を左折して、山裾まで行って左折し、左に田んぼを見ながら進んでいけば鳥居のところに到着します。

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 鳥居をくぐれば、鬱蒼とした木森の中の空間に立派な石祠が鎮座しています。この種の石祠としては大きい方で、立派な造りでございます。

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 雨引社と雨引新田の説明板です。雨引社の説明部分を転記します。

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 「ほたるのやかた」から田染荘小崎の美しい水田を見渡したときに見える鳥居は台薗集落の鎮守・雨引社のものです。祭神は天水分神国水分神で、古くから田染荘小崎の水や田を守ってきました。現在の石祠・鳥居は、台薗地区の地下を通る水路(間歩:トンネル・暗渠のこと)の完成を記念して新造されたとされています。
 元禄2(1689)年の様子を描いたとされる小崎村絵図によれば、堂祠を示す記号があり、その頃には信仰の場になっていたと推定されています。

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23 雨引新田

 雨引社の境内から鳥居越しに雨引新田が見えます。

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 説明板の地図によれば、この正面に見える田んぼの全てではなく、鳥居寄りの一部が「雨引新田」であるそうです。説明板のうち雨引新田の部分を転記します。

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 雨引という地名は、「天水」による灌漑であることに由来しています。付近には湧水があり、その水によって雨引新田付近が灌漑されています。
 永仁4(1296)年の「宇佐定基安堵申状」には「雨引新田」、正和4(1315)年の「沙弥妙覚田畠配分状」には「あめひき」として登場し、鎌倉時代には一定程度の開発がなされていたことが推定されています。
 また、室町時代の「永正・恒任名坪付注文」から、「あめひき」が当時「神田」にあてられていたことが分かっています。

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天引新田

永仁四年 沙弥西法安堵申状

 

24 延寿寺

 雨引社から四差路のところまで来た道を戻り、右折して右に田んぼを見ながら進みます。突き当りを左折(ほたるの館からなら直進)すればほどなく到着します。

 さて、延寿寺は田染荘の荘官屋敷の跡地です。この点については説明板に詳しいので、内容を転記します。

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尾崎屋敷跡(現 延寿寺)

 台薗集落で一際目立つ大きな屋根の延寿寺の境内には、中世の頃、田染荘の荘官の住む「尾崎屋敷」があったとされています。
 この辺りは鎌倉時代後期には武士・尾崎弥三郎久澄・同五郎らが支配していましたが、神領興行(鎌倉時代末に行われた神社領の再興)によって田染荘に返還されました。そのときの古文書に登場するのが尾崎屋敷で、返還後は荘官・田染氏の一族である忠基が済む屋敷となったことが分かります。
 中世・荘官屋敷時代の遺構として、武士達から荘園を守るために、屋敷跡を囲むように造られた石垣・土塁・空掘が残されており、戦国時代頃の荘園の歴史を物語っています。また、延寿寺ができる前の中世の石造物が多数残されており、中でも室町時代の荘園・宇佐(田染)栄忠の名を刻む「延寿寺石殿(県指定有形文化財)」は名品とされています。
 江戸時代になると荘園は消滅し、寛永18年(1641)に、現在の延寿寺が開基しました。

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 説明にあるように、境内には石殿ほか多数の石造物や土塁等が残っています。適当な写真がないので石殿はまたの機会として、ひとまず庚申塔を中心に説明します。

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 この空間に庚申塔が3基寄せられています。ほかに宝篋印塔や数基の五輪塔、宝塔の一部等が見られます。写真奥の向こう側が道路で、説明板にある中世の石垣が変わらぬ姿で残っております。

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 向かって左の塔がもっとも保存状態がよく、田染を代表する庚申塔のひとつと見てよいでしょう。宝塔の残部(相輪)の後ろに隠れている塔も庚申塔です。左から順に見てみます。

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青面金剛6臂、3猿、2鶏

 まず、線彫りにて表現された日月と瑞雲がなかなかようございます。特に棚引く雲が左右対称になっておりませんので、形式的な表現から離れて、絵を見るような雰囲気ではありませんか。その下部の波型の彫り込みが丁度瑞雲の線と対をなすような形で、この点に石工さんの美意識を感じます。枠の中の主尊はさても不気味なるお顔立ちにて、三叉戟を持つ手が尋常ならざる曲がり方をしている点を見ましても、失礼ながら西洋の悪魔を想起するような恐ろしいお姿でございます。逆立った髪の毛が枠に干渉するのも厭わで、彫り込みの区画内めいっぱいに配した主尊の迫力たるやものすごく、もはや童子を伴う余地はございません。こんなに勇ましい雰囲気なのに、ちょっと身をくねらせて立っているところに愛嬌もあってよいと思います。

 その下の鶏もずいぶん風変りな表現です。雄鶏と雌鶏が向き合うて立っているのに、めいめいに首を捻じ曲げて真後ろを向いておりまして、夫婦喧嘩をしているように見えて面白うございます。お供えの草花で見えにくいかもしれませんが、その下の猿はいつもと変わらぬ剽軽な所作にて、喧嘩している鶏などこちゃ知らぬの呑気さに救われます。こちらは天明5年、凡そ240年前の造立です。

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青面金剛4臂、2猿、2鶏

 こちらは正面から撮影することができませんでしたので、見にくいと思います。光背を伴う主尊は、左の塔よりも写実的と申しますか、人間に近い頭身比です。しかしながら表情は非常に厳しく、足を肩幅に開いて堂々と立つ姿からは何物をも寄せ付けない威厳が感じられました。

 猿と鶏の配置も風変りです。両端に猿が立ち、右の猿は左を向いています。そして2匹の猿の中間に、2羽の鶏が上下に並んで刻まれているではありませんか。普通3猿が横並びに刻まれていそうなところを、中の猿を省いて強引に鶏を押し込んだような配置です。なかなかおもしろいアイデアだと思いました。こちらは宝暦11年、260年前の造立です。

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青面金剛6臂、3猿、2鶏

 こちらは上半分の碑面の荒れが目立ち、特に主尊のお顔が分かりにくくなってきているのが惜しまれます。こけし人形のような大きなお顔も、その厳めしさが薄れてきています。がに股の脚がほんに短うございまして、アンバランスな体型でございます。

 鶏は、2羽が向き合うかと思えば雄鶏の方はプイとそっぽを向き、お気の毒な雌鶏です。見ざる言わざる聞かざるの猿は左右が横向きで、このうち左の猿は耳を押さえているのですが、これがまるで頭を抱えて思い悩んでいるようにも見えてまいりまして、雄鶏の所作と相俟って面白いではありませんか。こちらは寛政2年、凡そ230年前で3基の中では最も新しいものです。

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 石塔群の前を奥に行けばお稲荷さんもございます。神仏分離もなんのその、お寺の境内に神社があるのは国東半島ならではの風景です。

 

25 原の愛宕

 延寿寺から「ほたるの館」まで引き返して、そのまま道なりに原部落を抜けます(原の堂様はまたの機会に紹介します)。道路右側に愛宕社の鳥居があります。

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 鳥居の奥はものすごい急傾斜の石段になっています。この石段の上の方が廃道になっていて通行に難渋しますので、ここから上がらずに一旦通り過ぎます。だんだん道が狭くなってきて、愛宕池を左に見ながら少し進めば右後ろに折り返すように新参道が伸びています。この参道は車で上がることもできますがとんでもない急坂ですし、入口の切り返しに難渋しますので歩いて来る方がよいでしょう。また、参道を上がらずに道なりに行けば弓切部落跡の椎茸のホダ場を経由して枡渕に抜けることができます。車でも通れますが舗装が悪いので通行はお勧めできません。

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 新参道上がり口に説明板が立っています。内容を転記します。

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愛宕

 小崎の奥、空木に鎮座する奥愛宕社から分祀されたといわれています。小崎村の村落神として信仰され、戦前まで川潮汲みが行われていました。この川潮汲みとは雨乞い祭であり、山伏の家系とされる加藤家が先祖代々御幣を持って行列の先頭を進んだとのことです。
 祭神には軻遇突智命火産霊神とともに大山祇神天水分神国水分神市杵島姫神なども祀られています。
 なお、この参道登口には「小倉藩人畜改帳」元和年(1622)に「小崎村山伏一軒、山伏二人」とみえる山伏加藤家の墓地があります。

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 急坂を喘ぎ喘ぎ登れば、小山の頂上一帯に森厳なる空間が広がっています。鬱蒼とした鎮守の森に囲まれた当社は中組(原・七つ屋)の方々の信仰篤く、整備が行き届いています。ありがたくお参りをさせていただきました。

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 境内には、別の説明板が立っています。内容を転記します。この茶色の説明板は空木峠池等でも見かけましたが、比較的新しいもののようで画像も交えて詳しく説明されており、とても勉強になります。

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小崎地区の多様な信仰の場 愛宕

 元和8年(1622年)の「小倉藩人畜改帳」に見える「小崎村 山伏一軒 山伏二人」の山伏は、愛宕社に関連することが分かっています。愛宕信仰字体、日出・蓮華院で修行した山伏がこの地に持ち込んだとされています。
 山伏の一族は近くに西之坊・東之坊という坊を営んだとされ(手水鉢の銘文など)、愛宕社南西には山伏の墓地があります。詳細不明の自然石の墓石も多いですが、山伏の称号の一つである「大超家」「権大僧都」を刻んだ墓塔もあります。
 一方、愛宕社は農耕の神として、原地区の鎮守・小崎村全域の鎮守の両方として、二重の氏子圏を持っていました。長い石段がある参道の麓の池は、愛宕池と名づけられ、小崎村の水田を広く灌漑してきました。
 愛宕神社は本来、火伏せの神として知られていますが、愛宕社では、雨乞いの「川潮汲み(小崎川の水を汲んで境内に撒く)」や風除けの「風籠り」といった様々な神事が行われてきました。

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稲荷大明神

 鳥居が傷んできており、破損が懸念されます。

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 お稲荷さんの石祠を中心に、いくつかの石祠が並んでいます。めいめいの詳細は分かりませんでした。

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 上から見下ろした旧参道(石段上部)の様子です。今は通る人がいないので荒れてしまっています。説明板によれば、この参道の途中左右に坊跡推定地があるようです。

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愛宕社参道建設記念碑

 この記念碑によれば、今の参道(車道)は昭和60年に開かれたようです。工事費用や土地を寄附された方々のお蔭様で、こうして安全にお参りすることができます。 

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あたご山大ごんげん
江戸時代 六郷山百八十三所霊場

 

26 二宮八幡

 田染シリーズの1回目で、三宮八幡を紹介しました。今回紹介する二宮八幡は間戸にございまして、氏子圏は小崎、横嶺、間戸です。「ほたるの館」下の新道を間戸方面に進み、1つ目の角を左折して突き当りを右折し、道なりに間戸部落へと上っていけば道路右側にございます。車は3台程度までとめられます。

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 境内を囲むブロック塀は現代風ですが、一歩踏み込めば雰囲気が一変します。

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 比較的新しい狛犬は緻密な造りで、さても厳めしい雰囲気がございます。その奥にはひときわ大きな仁王像が向き合うて立ち、参拝者ににらみをきかせています。この仁王像は近隣在郷でも特に立派で、デザインが整うていますので、八幡様にお参りされる際にはぜひ阿形吽形それぞれをゆっくり見学してみてください。

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 筋骨隆々たる体躯、額にしわを寄せて大きな目をつり上げた厳めしげな風貌、ゆるやかなカーブを描く衣紋の裾まわりなど、何もかもが写実的でかなりの力作であるように感じます。一つ石でこれほどまでの彫刻をこしらえた昔の石工さんの腕前に、あらためて驚嘆いたしました。金剛杵を耳元に寄せるように掲げてあるのが、まるで携帯電話で通話しているように見えますのも面白いではありませんか。

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 こちらは片手を上げて軽く挨拶しているようにも見えてまいりまして、厳めしさの中にもどことなく親しみを覚えます。石でこしらえる中で、木彫りとは異なり様々な制約があると存じます。その範疇でできる限りの表現を工夫してあるのでしょう。

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 御神木には太いシメがかけられています。木や石など、自然の風物にも神性を見出した昔の方の素朴な信仰心は、今なお脈々とわたくしたちの心の中に生き続けています。

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 お参りをされる際には、この素晴らしいお細工・彫刻にも注目してみてください。宮大工さんの技術の粋を感じられましょう。

 

27 間戸寺跡

 二宮八幡を過ぎてほどなく、右側に空き地(駐車場)があり、その奥に小さな東屋があります。この辺りが、間戸寺跡の比定地とのことです。現地に案内板はありませんでしたが、古い石造物が残っています。ここを拠点に、二宮八幡や以前紹介した穴井戸観音・朝日観音・夕日観音などを巡ってもよいでしょう。

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 近隣では珍しい二層塔です。笠の部分が少し傷んできていますが、どっしりとした立ち姿はなかなかのものでございます。

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 こちらの国東塔は、そう古いものではないような気がします。しかし年代によらで、それがモニュメント的なものではなくお供養のためのものと思えば、こういったお塔の類はやはりありがたいものです。お年寄りが五輪塔を「ぐりんさん」、庚申塔を「おこしんさん」などと親しみを込めて呼ぶのをよく耳にします。この「さん」という尊称には、身近な石塔としての親しみと同時に、やはりある種の畏敬の念が感じられます。

 

今回は以上です。いずれも簡単に訪れることができる場所ばかりです。全部廻ってもそう時間はかかりませんので、近隣の名所旧跡と組み合わせて、探訪コースを工夫してみてください。