大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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佐田の名所めぐり その2(安心院町)

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 引き続き佐田地区の名所旧跡をめぐります。今回は大字山蔵(やまぞう)にございます大年神社と、大字佐田にございます佐田神社です。いずれも石造文化財がよう残るほか史蹟、民話等に事欠かないところでありますから、安心院町を探訪される際には必ず立ち寄るべき名所中の名所です。

 

3 大年神

 前回紹介しました内川野の白山神社から県道に返って、安心院方面にまいります。次の部落が山蔵で、右手の山すその民家裏に見事なイッチカッチ(一位樫)の木が道路から見えます。この木は「山蔵のイチイガシ」として県指定の天然記念物になっています。時間の関係で見学を省略したので、またの機会に紹介します。

 そのイッチカッチの看板を過ぎてすぐ、道路右側に「大明神」の鳥居と狛犬、その横には「大年社板碑」の名所標識が立っています。この辺りの路側帯が広くなっているので邪魔にならないように駐車するか、またはその先を右折してすぐ、また右折して坂道を上れば山蔵の公民館がありますのでそちらに停めさせていただいてもよいでしょう(公民館から境内まで地続きです)。鳥居のある参道を無視して先に行けば、三叉路のところから上がる参道のかかりに仁王像が立っています(冒頭の写真)。神社に仁王像が立っているのは神仏習合の名残と思われ、国東半島では当たり前のように見られる光景ですが、宇佐地方にもところどころに残っています。

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 この仁王様に関するおもしろい民話が伝わっています。説明板の内容を転記します。

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山蔵の仁王様

 この仁王様は、文政10年(1827)西原鉄右衛門の奉納で、背銘によると「家畜安全」を祈念したものと記されています。
 大年神社にはこの仁王様にまつわる次のような「仁王伝説」があります。

 向かって左、やや小さい方の仁王様が、力比べをしようと中国大陸まで出かけたところ、中国の仁王様の家来が大火鉢を軽々と持って出て来ました。負けじと日本の仁王様も大火鉢を動かそうとしましたが、重くて動かすこともできません。
 これはとても勝てないと逃げ帰ろうとしたところ、中国の仁王様が追いかけてきてしまいました。そのまま日本の仁王様は左に、中国の仁王様は右に鎮座することになったという口碑があります。

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 仁王像から三叉路の向かい側には石幢が2基立っています。どちらもほぼ同じ形ですが、向かって右のものについては笠以外は明らかに新しく、おそらく倒れたか何かで壊れたので補修したものと思われます。左の石幢も、龕部の六地蔵様がよう残っています。中台の意匠がなかなか凝っていますので、仁王像のみならず石幢もぜひ見学してください。

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 石幢の横には小型の板碑が2基並んでいます。銘は分かりませんでした。なお、この板碑は道路端に看板のあった指定文化財の板碑ではありません。

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 参道を上がれば、境内のぐるりに石灯籠や板碑、五輪塔などたくさんの石造物が並んでいて壮観です。何はともあれ、お参りをいたしましょう。写真に写っているトタンの壁は本殿の覆い屋で、この中に美しい彩色を施された本殿が建っています。お参りをする際に中から覗いてみてください。

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 境内には都合5基の板碑がございまして、そのうち2基が県指定の文化財になっています。説明板の内容を転記します。

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大分県指定有形文化財
大年社板碑(2基)
(昭和47年3月21日指定)

 2基は、ほぼ同形同大で石材も共に凝灰岩。
 上段の板碑は塔身正面上部に大きく種子「アーク(胎蔵界大日)」を薬研彫りし、その下に「暦応四年巳三四」(1341)と陰刻しています。
 下段の板碑は塔身正面上部に大きく種子「バン(金剛界大日)」を薬研彫りし、その下に「建武元年八月廿八」(1334)、その向かって下方左側に(四十八日衆各敬白」と陰刻があります。
 この板碑は時宗関係集団に依って南北朝時代初めに造立されたものと考えられています。
 一遍を宗祖とする教団が時宗で、南北朝時代から室町時代にかけて一大隆盛をきわめています。信者には貴族・武士・一般民衆等あらゆる階層がいました。ここ佐田では佐田荘を領有した佐田氏(宇都宮系佐田氏)の建立と考えられます。武士が戦場で討ち死にした場合、時宗僧が十回念仏を唱えて極楽往生に導き、且つその活躍の様を遺族に伝えるという働きをした「陣僧」の存在も考えられています。

安心院教育委員会

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 この写真に写っている2基の板碑が、文化財に指定されているものです。下段の板碑を見ますと、梵字の彫り口が見事で、実に堂々たる風格がございます。その隣の石燈籠も、竿から火袋までがほぼ一直線の寸胴型で、どっしりとした構えが見事ではありませんか。

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 お稲荷さんの石段右側の3基は、文化財には指定されていないものです。中央の板碑はひときわ大型でありますのに、上部が破損しているのが惜しまれます。文化財指定の有無は、おそらく銘の有無によるところが大きいのでしょう。指定によらで、いずれ劣らぬ大切な文化財であります。このように神社の境内に立っていることで粗末にならず、結構なことでございます。

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 こちらが文化財に指定されている板碑のうち、上段のものです。近くで見ますと、へりのところなどに細かい打ち欠きがあります。けれども碑面の状態は良好で、大きな梵字をはじめその下部の陰刻された文字までよう分かります。

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 変わった形の石塔を見つけました。これは五輪塔と宝篋印塔の後家合わせでしょう。

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 ご覧の通り五輪塔も後家合わせと思われるものが多いものの、祭壇をこしらえてきちんと並べ、鄭重にお祀りされています。

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 こちらは六地蔵様の石殿で、仁王像の立つ坂道を上り着いたところに安置されています。六地蔵石殿は作例が多くはないようで、あまり見かけません。安心院町では珍しいのではないでしょうか。

 以上、大年社の石造文化財を駆け足で紹介しました。道路端の仁王像は通行のたびに目に入りますが、それ以外にもたくさんの文化財があります。ちょっと車をとめて、お参りのついでにでも見学されることをお勧めいたします。

 

4 佐田神社

 山蔵から安心院方面にまいりまして、佐田川べりにて県道42号に突き当たります。これを左折して道なりに行けば道路左側に鎮守の杜がございまして、「佐田社板碑」の標識があります。その先の角を左折すれば、民家の手前、左側に駐車場所があります。参道がいくつかありますのでどこから上がっても構いませんが、できれば今来た道路を歩いて戻り、反対側の参道(狛犬と鳥居あり)から上がって境内を通って車に戻る道順を辿りますと諸々の文化財を見逃さずにすむと思いますし、説明板の配置の都合でより理解し易いと思います。当日はこれと反対方向に辿りましたので、今回はその順番で紹介します。

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 駐車場所からの参道は石畳になっています。雨降りのときは滑るかもしれませんが、手すりを設置してくださっていますので安心して通れます。

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 境内に上がり着いて、たくさん並ぶ石灯籠に目を見張りました。形状も年代も様々で、一つひとつを見比べるだけでも興味深いものです。これだけ広い境内、立派な石造物の数々、素晴らしい彫刻の施された本殿の豪壮さなど、さすがは佐田村の郷社です。近隣在郷の方々の信仰が篤く、最近は文化財の見学等で他地域の方も訪れるようです。

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 説明板の内容を転記します。

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佐田神社

 祭神は、武内宿祢・素盞鳴尊大山祇命で昔は善神王宮と称し、佐田郷の総鎮守社でありました。鎌倉時代大友能直によって再興され、以後正中2年(1325)安心院公、文正元年(1466)宇都宮大和守、文亀3年(1503)に検断所により再興されています。
 神殿は元治元年(1864)に改築し現代に至っています。
 境内には、県指定有形文化財の板碑や、幕末に賀来一族が建設した反射炉の記念碑や、反射炉に使用した耐火レンガによる塀、大分の先哲帆足万里の書を刻んだ両部鳥居があります。
 この神社の東にある標高309mの青山は、中世佐田氏の山城で、県内屈指の規模を誇る町指定の史跡です。境内は、この佐田氏居館跡の推定値の一つとされています。

安心院教育委員会

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 善神王様は、県内では「ぜぜんのさま」「ぜじんのうさま」「ぜんじょうさま」などと申しまして、耳の神様として信仰が篤く方々に小社が残っています。その多くは、大分市賀来の賀来神社からの勧請であると申します。

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 こちらが、説明板にありました反射炉の煉瓦でこしらえた塀です。近年、この煉瓦を持ち去る不届き者があるそうで注意書きが掲示されていました。

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 神楽殿の外壁に、反射炉の煉瓦について言及された説明板がありましたので転記します。

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反射炉記念の地

 江川太郎左衛門が幕命により大砲を造ってからわずか11年後の嘉永6年(1853)より、賀来惟熊は独力で反射炉を築き大砲を鋳造した。反射炉を築き大砲の試射をしたのがここ宮の台である。反射炉のレンガは今も本殿裏の土塀に遺っている。

安心院

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郷社佐田神社

 この碑銘の台座がたいへん変わっています。亀の甲羅に、首から先は龍です。これは霊亀と申しまして、1000年以上生きた亀(蓬莱様)の姿であり、吉凶を占う力を持つそうです。

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 霊亀の個性的な姿に目を奪われますが、本殿の素晴らしい彫刻も見逃せません。荒波の中から今にも中空に躍り出そうな龍です。

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 このように拝殿も立派な造りです。その下部の石積みも、角のところは布目に積んでおいて、それ以外は三角形を互い違いに配している点など、工夫がこらされています。

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 拝殿の中に由緒書きがあります。転記します。

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佐田神社

一、御本社 善神王宮御社(明治5年)

一、祭神 素盞鳴男尊、大山祇尊、武内宿祢の三柱

一、祭日 4月6日 記念祭
     10月16日 大祭御神幸
     12月25日 新嘗祭

一、由緒
(1)正中2年(1324年)大守左近武箇源能直公卿再興す
(2)元治元年(1864年)破損ニ付流屋造改築
 発起者 佐田村 賀来六太夫
     広谷村 佐藤宏八
     笹平村 佐藤治郎右ヱ門
 大工棟梁 大在村 杢助
(3)大正元年 村中の小社を合併し左の神社を御本宮に納む 天満宮貴船宮、宇都宮大明神、祇園社 以上中村ニ鎮座

一、御修理
(1)御本社第1回葺替 明治26年4月施行す
(2)御本社第2回葺替 大正9年5月施行す
(3)御本社第3回葺替 昭和32年施行

昭和52年10月16日 謹記
佐田大字区長 賀来巳歳

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 読みやすいように片仮名を平仮名に、漢数字を算用数字に改めました。遠目に見たので読み間違いがあるかもしれませんことを申し添えます。

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 こちらは由緒書きにて言及されていた摂社と思われます。

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 境内の一角には板碑や各塔婆が集められています。その形状、上体は様々で、向かって右端の角塔婆は大きく立派で、特に目を引きます。

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 板碑および山城についての説明板です。内容を転記します。

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大分県指定有形文化財
佐田社板碑(2基)
(祖父和34年3月20日指定)

 佐田神社境内に散在していたものを1か所に集めたもので、4基中向かって右端の角塔婆と3番目の板碑が指定されています。
 角塔婆とは4面板碑の形のもので、この碑面の4面には種子(梵字)を薬研彫りしています。銘文に依れば元弘3年(1333)の造立。
 板碑には碑身上部に大きく種子キリーク(弥陀)を薬研彫りし、正慶元年(1332)時宗教徒に依る造立の銘があります。
 建立者は、当時この地域を領有していた佐田氏(城井宇都宮系)と思われます。佐田氏の館跡地として、この佐田神社境内も候補地とされています。

 佐田氏の築城した山城跡は、ここから見て東側の青山(標高309m)にあり、土塁・空堀・土橋・石積等が、良好な状態で残っています。この青山城は、ここが豊前国豊後国の境界の地であり、より堅牢で巨大化され、県下でも最大規模の山城という評価を受けています。

安心院教育委員会

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反射炉

 境内の端に漢文がびっしりと刻まれた碑銘が立っています。内容を読み下すのは骨が折れますので省略して、佐田街づくり協議会サイトの該当ページにより分かった内容を箇条書きで記します。

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反射炉は賀来惟熊により建設されたもので、安政2年から慶応2年まで稼働していた。幕府の資金援助や技術供与によらず、民間で初めて建造されたものである。炉の完成から2年あまりの間に6ポンド砲4門、12ポンド砲2門、18ポンド砲2門の鋳造を成し遂げた。その大砲は島原藩のみならず佐伯藩や日出藩にも配備され、賀来家の技術は遠く鳥取藩まで伝えられた。

・慶応2年に反射炉を取り壊し、残されていた大砲もすべて鋳潰した。それは第2次長州出兵など豊前地方が政情不安定な時期であり、政局争いに巻き込まれるのを厭うて決断したと考えられている。

反射炉の耐火煉瓦は塀に転用された。2011年1月、地中レーダー探査により神楽殿周辺、反射炉の記念碑南側に東西15m、南北10mに亙って埋設物が確認された。

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日露戦捷紀念碑

 この碑のすぐ近くに、市指定文化財の両部鳥居が立っています。写真を撮り忘れてしまいました。

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今回は以上です。佐田地区の神社を2か所紹介しました。ほかの名所旧跡も、追々紹介していきたいと思います。