大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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三重の名所めぐり その4(三重町)

 今回は三重地区のうち、道順が飛び飛びになりますが大字秋葉・赤嶺の名所を少し紹介します。年ノ神の庚申塔や市辺田八幡様に集められた各種石造物など、興味深い文化財がたくさん出てきます。

 

11 鬼塚の年神社

 市場一区交叉点(信号機有)から国道326号を小野市方面に少し行くと、左側に祖母嶽神社が鎮座しています。写真がないので今回は省きます。それを過ぎてまた左側に、今度は歳神社が鎮座しています(冒頭の写真)。道路端なのですぐ分かります。お社自体はごく小さく境内も狭いものの、鎮守の杜が立派なので見落とすことはまずないでしょう。当日はこの手前、鬼塚バス停から背戸を入ってゲートボール場のところ(鬼塚公民館の駐車場)に駐車させていただきました。

 この神社の鎮守の杜は「年神社社叢」として市の天然記念物に指定されています。10本程度の樹木が茂る中で、榎、椋それぞれ枝ぶりがすこぶる立派な木があります。

 右の石柱には「鳥居建設發起者 鎌倉貫一」と彫ってあります。

 

12 年ノ神の石造物

 年神社の並び、道路端の一段高いところに庚申塔や新四国札所の仏様などがずらりと並んでいます。年神社の敷地外と思われたので、一応別項目としました。年ノ神と申しますのはこの辺りの字で、当然年神社に由来するものと思われます。

 お供えがあがり、草ひとつ生えていません。道路端なので以前から存在には気付いていましたが、今回はじめて一つひとつを確認しまして、たいへん興味深い庚申塔を見つけました。順々に紹介します。

梵字)十一丁

 右端には丁石が残っています。「町石」として市の文化財に指定されており、豊後大野市の説明によれば文化2年の銘があるそうで、これは内山観音までの丁石です。以前、神角寺までの丁石(朝地町)や霊山寺までの丁石(大分市)を紹介しましたが、それと同種のものです。内山観音までの丁石は、今ではこの1基のみしか現存しないとのことで、昔、三重市(みえいち)から歩いてお参りに行った時代を今に伝えるものです。道路がよくなって久しく隔世の感がありますけれども、このような文化財を見ますと、おちこちから連れ立ってお参りに行く様子が思い浮かんでまいりました。

雌鶏
庚申神   正一日慶安元戊子年
雄鶏

 紀年銘の「正一日」は読み間違いの可能性があります。年号の上に日付がくるものでしょうか。とまれ、慶安元年ということは1648年です。375年も前のものとは思えない状態のよさに感激いたしました。最下部には7人の名前が記され、めいめいに「施主」と付記しています(2人目以降は「同」と表記)。そして、みんな苗字を伴います。

 特におもしろいのはこの部分です。「庚申神」という言い回しは珍しく、前回出てきた下小坂の庚申塔の「庚申仏」に類似します。その両脇の「雄鶏」「雌鶏」という文字は、刻像塔の主尊の両脇の鶏を文字で代替してあるのでしょう。以前、堅田地区など佐伯方面の庚申塔で、文字塔の下部に鶏の像を配したものを何基も紹介しました。それと同種の発想というわけですがこちらは全部文字です。

 ところで、庚申様の眷属と申しますと一般に猿を思い浮かべることが多いと思いますし、刻像塔の眷属としては、猿か鶏のいずれか片方だけの場合は猿の方が彫ってあることがほとんどでしょう。それが、「庚申」とか「青面金剛」などの文字塔に彫った眷属は「猿」よりも「鶏」の方が断然多いようです。庚申様のお座を夜通ししていた時代には夜明けを告げる存在としての意味が大きかったほか、雄鶏と雌鶏ということで、夫婦和合・家内安全等の願いもこめてあるのではなかろうかと推量しました。

日本廻国●行者

 お六部さんの塔です。

庚申神

 この庚申塔は上部に2条の横線が入り、当地方の板碑の形式を踏襲しています。形がよう整い、立派な塔です。ただ「庚申」ではなく「庚申神」と呼び崇敬を極めるの感がありますのに、ささやかな字体で遠慮がちに彫ってあり、さても奥ゆかしいことではありませんか。

(紀年銘欠損)
梵字庚申塔
二月●●一日

 この塔は梵字をはじめ銘の字形がよう整い、その彫り口が丁寧で見事なものです。それだけに紀年銘にかかるところが大きく破損しているのが惜しまれます。「禾」とその上の字の残部から、元和年間の造立ではあるまいかと推量しました。下部には7人のお名前が横並びで、苗字は伴いません。

(左)
嘉永七壬寅年
弘法大師
七月廿一日

(右)
六番 安楽寺
 かりの世に知行
 あらそふむやく
 なり安楽国の守護を
 のぞめよ
本尊薬師如来

 こちら新四国の六番札所です。左の御室がお弘法様、右の御室が六番札所の薬師様で、両者は一体のものなのです。新四国の類では、お弘法様とその札所の御本尊の石像が対になったものを方々で盛んに見かけます。でもそれらは野晒しであったりひとつの御室に同居したものが多く、このようにめいめいに御室をこしらえてあるのは稀であるように思います。よほど信仰が篤かったのでしょう。造りが立派ですし、中におさまった仏様は毛糸で編んだ帽子をかぶり、おちょうちょをつけています。なお、21日はお弘法様の縁日です。国東半島周辺では旧の7月21日は夏のお接待やお弘法様の盆踊りの日で(※)、三重方面ではそのような話は聞きませんけれども、昔は何らかの行事があったのではないでしょうか?
※今は月遅れの新暦8月21日になっています。

 右の御室には六番札所の御詠歌「仮の世に知行争う無益なり安楽国の守護をのぞめよ」を変体仮名で彫ってあります。昔の仮名文字はほんに風雅でよいものです。しかも自由奔放に書き分けるのではなく、たとえば「し」が語頭に来ることは少ない(語頭は「志」に近い字体)等、ある程度の規則性もあります。ほかに「は」の字体がたくさんある中で、助詞の「は」とそれ以外の「は」を区別して書いたりすることもあったそうです。これは筆で、分かち書きをせずにくるくるとつなげて書くときの都合でしょう。標準の字体の教育を受けて育った現代人には易々と真似できるものではありません。昔の方の教養の高さが感じられます。

 御詠歌というものはあの悠長な節回しがとても魅力的ですし、歌いますと心が穏やかになってまいります。しかしながら和讃にくらべると節が難しくて、そう易々と覚えられるものではありません。お弘法様のお祭りなどで歌う地域もありますけれども、生活様式の変容が著しく、日常で歌うことは稀になりました。

 

13 市辺田八幡の石造物

 市辺田八幡様は近隣の信仰が篤く、特に縁結びの神様として著名です。神仏分離以前は神宮寺が隣接し、その関係の阿弥陀堂阿弥陀様(木製)が非常に立派であるほか、指定・未指定を問わず様々な石造文化財が多数寄せられています。霊験あらたかなるばかりか文化財も多数見学できます。内山観音と並んで、三重地区を代表する名所といえましょう。お社の写真などを撮り忘れたので、今回は境内の石造文化財を中心に紹介します。

 道順が飛びます。三重庁舎から菅尾方面に進み、弁天橋手前の交叉点(信号機有)を左折します。バイパスの下を潜った先の左側に鳥居が立っています。車は、その手前から左折して参道脇を通り、神社会館の敷地に駐車します。道路端に案内が出ているのですぐ分かると思います。

 立派な鳥居です。この手前(道路端)にはお濠もあって景観がようございます。車で来たときも、できれば駐車場所から道路まで戻って、入口から参道を歩くことをお勧めします。

 基壇が4重になった立派な灯籠は、笠や宝珠の重厚な造りが特によいと思います。また、竿の上下の接合部が角を落として丸みをもたせてありますのもよいではありませんか。施主の住所は「市場村」、今の大字市場です。

 水が涸れていますが、お手水と思われます。とてもおもしろい形です。

 参道には灯籠がほぼ等間隔で並び、樹木の手入れも行き届き、たいへん気持ちのよい空間です。夕方など、特によいと思います。

●●●大乗妙典
梵字)一字一石享保
丁酉年九月吉辰

 上に乗った宝珠は別の石造物からの流用と思われます。一字一石塔の銘としては、普通「大乗妙典一字一石」と中央に彫りそうなものを、こちらは「大乗妙典」と「一字一石」が別の行になっていて、しかも後者に接続してすぐさま紀年銘が始まっている点が珍しいと思います。末尾の吉辰は吉日と同義です。

 歴史が感じられる、苔むした石垣です。ただ、配水用のパイプが見て取れることからそう遠くない昔に修理されたもののようです。

 説明板の内容を転記します。神主の土谷斎さんによる労作で、八幡様の歴史や古い地名、合祀された神社の歴史など細部にわたって理解できる立派な説明です。横書きで記すなど諸々の理由により、地の文のままだと読みづらくなりそうなところは若干改変しましたが、内容は同じです。

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市邊田八幡社略記

○御祭神
品陀和気命応神天皇)、息長足姫命神功皇后)、三気入野命
比賣大神、祖霊、神伊邪那美命事解男命、速玉男、菅原神(二柱)武内宿祢

○御神徳
勇気を司る神、子宝の神、縁結びの神、人の生死を良い方向に導いて来れます神

○由緒
 八幡様並び神宮寺は本迹信仰が盛んな頃、文永2年(1265)以前に大神氏によってすでに勧請、創建され守護されていたようである。その後建武2年(1335・南朝)、当国佐伯領佐伯讃岐守大神朝臣惟貞(※1)が三気入野命(※2)の御分霊を日向国高千穂十社大明神(※3)より戴き当八幡社にお祀りされた。
※1 惟季の末孫にあたり宇目、三重両郷をおさめていた。
※2 御母は玉依姫神武天皇の御兄
※3 以前は三田井神社とよばれていた。今は高千穂神社とよばれている。

○三気入野命が祀られた理由
 言い伝えによると惟貞は日向国肝付八郎兼重と戦っていた。しかし、戦況はきびしい状態であり、惟貞は日向国十社大明神に御奉りして神様に勝利を懇願申し上げたところ鳩が惟貞軍にかかげていた巴紋旗上にとまった。その不思議なしるしを目出度いしるしであると感動し、そのことによって勇気づけられ勝利をおさめたと言れている。惟貞は神様の御力に感謝し、神輿に三気入野命の御分霊を御移し、当八幡社(※)にお祀り申し上げたと言われている。
※ 当時は郡中最崇敬の社であった

○八幡様に三気入野命の御分霊を御移しされるまでの道中の様子
 惟貞は三田井(宮崎県の十社明神の社殿があった地名)を出発し玉田(※1)を出て赤嶺(※2)に至り、当八幡社に三気入野命をお祀り申し上げた。さらに神殿を建立され、そのとき佐伯、宇目、三重の総鎮守となり市辺田四社大宮八幡宮と名を定められた。そして、さらに創建日を建武2年(1335)に定めたようである。
 そのとき、供料42貫、また田地5町5反を寄附された(※3)。しかし天正の年(1573・安土桃山)に没収されたという。この当時の田畑の地名として赤嶺村、玉田村に宮田、中宮田、宝財田、九日田、油田、佐伯田、五反田という地名があり、神領田として記録されている。
※1 玉田村に水田というところがあり、そこに仮殿のあととして注連縄を張る場所があるという。本城村内の高寺字峠には御小休跡として長4尺横2尺あまりの石座があり、いまだに不潔にしてはならないと言われている。
※2 惟貞が御小休して水を飲み手足を洗った場所がありそこは字御手洗水と言われていた。
※3 御供田8反、御徳田7反、神楽給3反、燈油田4反、祝部給6反、弓畑工給2反、別当久5反

建武2年の頃の八幡様のお祭りの様子
 祭祀は2月初卯の日と5月初卯の日、御田植神事、8月15日放生会の神事(※)、9月11日初卯の日、以上5度の祭祀を定めていた。
※ 神河原に神幸して行われた

○その後の八幡様の歴史の経過
 明応8年(1492・室町)佐伯山城守大神朝臣惟賢(大神惟貞の子孫)に受け継がれた。
 天正年代(1573)に入ると佐伯の領主は毛利家に代わるが、八幡様は先領主(大賀一族)の崇敬の篤い神社であったので、そのまま御祭りは手厚く行い、11月初卯の日より3日間行われる祭りには自分(殿様)のかわりに人を送り奉参し、家来を神事警護にあたらせたと言われている。
 そののち、三重郷は稲葉家の所領となり、八幡様は稲葉家によって守護されるようになった。八幡様は大賀一族以来、佐伯、宇目、三重の崇敬の社であり赤嶺村外11ヶ村(※)の総鎮守でもあった。
 寛永17年(1624・江戸)6月、神官三浦左土衛太平善嗣は領主稲葉家に嘆願し八幡様の名実ともに宮司となる。
 享保年間(1716・江戸)、稲葉家より用材を賜り、八幡様の神殿、拝殿、廊下ことごとに修繕される。
 延享5年(1744・江戸)5月、和歌の巻を奉納する。
※ 小坂組、市場組、玉田組、下玉田組、あわせて4ヶ組

○その後の八幡様のお祭りの様子
 文政初年(1818・江戸)までの祭事は稲葉家よりの殿さまに代わる遣いがあり、3日間の大祭(11月初卯日の冬季大祭)には中小頭足軽10人を引き連れ祭事に参加されたといわれている。社前の右側に仮屋を建てて警護にあたり、社前の往来筋には店が立ち並び大変賑わったといわれている。現代の今市の地名はこれに由来するといわれている。
 同年、武内宿祢(善神王)の分霊を大分郡賀来村賀来神社よりいただき、毎年8月1日より11日まで市場(今の西の宮神社)に神幸された。西の宮神社はもとは高市に鎮座しお祀りされていました事代主大神の神霊を明暦年間(1655)に今の堀口に遷座され、嘉永元年(1848・江戸)に神殿、拝殿を新築している。このときの社名は恵美須宮と奉称されていたが明治4年に西の宮神社と改称された。新築の用材は領主稲葉家より賜り嘉永元年(1848)に石灯籠を建て、安政7年(1854・江戸)正月26日に神殿(内殿とも)を建て替えている。
 従前は冬季のお祭りが盛んであったが、そのお祭りを改め秋季大祭とした。権現堂に神幸しその盛大な祭典は見事なものであったといわれている。祭典には臼杵藩の遣いが来ていたが、遠距離で不便なため4ヶ組すなわち赤嶺村外11ヶ村へ運営、報行、神事警護を申し渡し米穀のみ賜ったといわれている。
 明治に入り藩制度は終わり、明治4年11月臼杵県において三重郷内の神社に列せられ同6年大分県においてさらに第5大区第7小区御社に列せられる。伊邪那美命事解男命、速玉男命は大字赤嶺字道の上より、菅原神は郷田脇及今市に鎮座のところ大正2年8月1日に八幡様に合祀された。

境内社
阿弥陀堂

大分県重要文化財指定
木造阿弥陀如来像一座

○三重町指定
輪塔、木造狛犬一対

○未指定
木造不動明王像。木造僧形坐像

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 説明に記載のある以外にもたくさんの石造文化財があります。阿弥陀堂の近くにずらりと並んでいる石造物を紹介します。

 右端の方は御室に収まった仏様が並んでいます。立地がやや不安定のように見受けられました。

<中>
梵字)四國遍路供養

<右>
安永七戊戌
梵字)四国遍路供養塔 敬白
南呂大安日

 どちらも四国八十八所の供養塔です。特に右の塔は、梵字が白抜きの太線で彫ってあり立派なものです。南呂と申しますのは、旧の8月のことです。

 中央の、仏様を浮彫りにした石造物は多層塔の残欠(軸部)とのことです。四面仏の様相を呈しています。傷みがひどいのが残念ですが、正面の仏様の下部を見ますと線彫りで蓮の花が表現されているなど、元々は細部まで行き届いたお塔であったことが覗われます。文永11年、なんと750年近くも前の造立です!

 右のお塔には「大乗妙典供養塔」とあります。一字一石塔でしょうか。銘の、堂々たる字体がよいと思います。

 この石幢は、中台の形状に違和感があります。積み直したときに逆さまになったか、或いは後家合わせかもしれません。笠は矩形で内刳りを深くとり、へりに垂木を彫り出しています。龕部は8角で六地蔵様と二王様を彫り出し、もともとの彫りの浅さが功を奏してか傷みが少なく細部までよう分かります。

 この宝塔は、宝珠が後家合わせであるのが惜しまれますけれども、ほかは元の姿をよう残します。露盤の彫りがよいし、格狭間も苔で見えづらいだけで状態がよい方でしょう。臼に近い形の龕部の四面には梵字が見てとれますが、向きがややずれてしまっているようです。修理したときに頓着がなかったのかもしれません。豊後大野市の説明によれば康永4年の銘があるとのことで、680年近くも前の造立です。

 下部の銘を拾い読みしますと、右が「四国六十八」で左が「同 六十七」です(全部は読み取れませんでした)。蓋し近隣の新四国の札所でしょう。鬼塚の八番札所と一連のものかもしれません。細部までよう行き届いた、見事なものです。唐破風のお花模様には彩色がよう残ります。仏様は、右が阿弥陀様、左が薬師様で、いずれもほんにありがたい感じがいたします。それにしても、このように2か所の札所をひとまとめにした石造物ははじめて拝見しました。しかも阿弥陀様と薬師様は横長の蓮台を共有しているではありませんか。

 よし地域内といえばとて、88か所もの札所を巡拝するのは大変です。それで、そのうちのいくつかを組にすることで、巡拝をより容易にしようとしたのかもしれません。

青面金剛6臂、2鶏、ショケラ

 傷みが進んでおり、腕や頭部を欠くほか下部(おそらく猿が彫ってあったのでしょう)も分からなくなっています。でも、残部の像容ならびに眷属から、明らかに庚申塔です。近隣から移されたものと思われます。興味関心のある方でなければ、庚申様だと気付かないのではないでしょうか。元の所在地も分かりませんでした。最早、庚申様としての信仰は薄れていますけれども、粗末にせずにほかの石造物との横並びで安置してあります。

 石幢の残欠と、ほかの石造物の残欠との後家合わせです。こちらは傷みがひどく、お地蔵様のお顔の表情などは分かりづらくなっています。でも、庚申塔と同じくこの六地蔵様も、この場所にあればこそ粗末にならずに済んでいるのです。

 石幢や庚申塔、石仏などの所在地の人口減少や、または昔の道沿いある場合にその道が荒れて人通りが全くなくなっているなどで、信仰が途絶えがちになっている例が多々あります。その場合、文化財に指定されているもの以外はこのように神社やお寺、堂様、公民館または現役の道路端などに移さないと、粗末になるばかりです。でもそれには費用がかかりますし、あまりにも数が多いのでどこかで線を引かざるを得ないのが現実なのでしょう。中には、思いのある方が自宅の坪などに移して、粗末にならないように個人でお祀りされている事例もありますが、それはごく一部です。未指定の文化財の保存は、どこの地域でも喫緊の課題です。私に何ができるわけではありませんが、指定・未指定の別によらで等しく価値を見出す目を持ちたやと思うばかりです。

 

今回は以上です。次回は新田地区の文化財を少しだけ紹介します。

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