大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上真玉の名所めぐり その10(真玉町)

 今回は応暦寺を取り上げます。応暦寺は養老2年の開基と申しまして、上真玉地区では無動寺と双璧の古刹でございます。本堂周辺に数多く残る石造物、それから奥の院(姥が懐)までの長い石段とその途中にある磨崖仏群など、文化財の宝庫です。お寺と権現様(神社)がお山に一続きになっている風景は国東半島を象徴するものです。今なお大伽藍の名声をほしいままにしており、県内外より参拝者の絶え間を知らぬ名所中の名所にて、応暦寺を訪れずして上真玉地区を知ったとは言えないと申せましょう。しかも、現在の寺域のみならで近隣部落には多宝院、十一面観音岩屋など応暦寺に関連する霊場も数あります。それらも含めて全部まわれば半日かかります。四季折々の自然にふれながら、ゆっくりまわることをお勧めいたします。

 

45 応暦寺

 駐車場に車をとめたら、前回紹介いたしました「44 岡の石造物」の見学をお勧めいたします。見学したら山門の方に歩を進めましょう。

 説明板の内容を記します。

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大岩屋山応暦寺

 六郷満山の中山本寺十ヶ寺の一つで、養老2年(718)、宇佐八幡神の化身と云われる仁聞菩薩の開基と伝えられています。最盛期には25の末寺末坊社等を擁したと伝えられ、平安・鎌倉時代をはじめ各時代の仏像・文化財が多く残され、往時を物語っています。

 本尊は千手観音菩薩像を安置し、元不動堂より遷座した不動明王を併祀しています。

指定文化財
1 県指定有形文化財 木造不動明王坐像
2 市指定有形文化財 阿弥陀如来坐像
3 同 不動明王立像
4 同 灯明石像
5 同 応暦寺文書
6 同 千手観音立像
7 同 宝篋印塔
8 同 奥の院の寄進札

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(1)本堂・観音堂周辺

 車道から参道石段を上ります。上の方に珍妙な石灯籠が見えてきて、いよいよ期待感が高まってまいりました。

 狛犬の頭の上に灯籠が乗った石造物は何か所かで見かけたことがあります。直近では、下黒土の身濯神社(旧無動寺)のそれを最近紹介しました。こちらは、狛犬の頭上の蓮台がたいへん個性的な表現方法をとっています。すなわち矩形の中台にて、その角にあたる花弁を二重にして段違いにすることで角が立ち過ぎないようになっていて、この工夫がお見事であると感じました。大きな笠の軒口の装飾もよう残り、たいへん見ごたえのある豪勢な灯籠です。

 宝珠の反花や狛犬の爪などにも注目してください。細かいところまでよう行き届いています。先ほど私が言いたかった蓮台の特徴も、この角度からご覧いただくとわかりよいと思います。

 先ほどの説明板との重複箇所もありますが、内容を転記しておきます。

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天台宗 応暦寺

 当山は山号を大岩屋山といい国東六郷満山中山本寺十ヶ寺の一つである。奈良朝時代養老2年(718)宇佐八幡神の応現と云われた仁聞菩薩の開基になり、盛況時には末寺末坊社等25を擁したと伝えられる。
 本尊は千手観世音菩薩を安置、もと不動堂より遷座した不動明王を併祀する。平安・鎌倉をはじめ各時代の仏像・文化財は今も多く残され、往時を物語っている。
 当山は古来より祈願祈祷の道場として転禍為福・厄難消除・二世安楽・新願成就等の篤い信仰がとられている。また境内外には石仏の宝庫として、特殊な石造に接することができる。

文化財
不動明王坐像  県指定 平安時代
千手観音立像  町指定 鎌倉時代
阿弥陀如来坐像 町指定 室町時代
不動明王立像  町指定 鎌倉時代
宝篋印塔    町指定 南北朝時代
灯明石像    町指定 江戸時代
ほかに仁王石造、役行者石造、曼荼羅畳石、大地蔵、三十三体観音石造等を配祀
当山の背後、六所権現社には堂の迫磨崖仏(県指定・室町時代)がある。

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奉納大乗妙典一部書写供養塔

 このお塔の銘には「一部書写」とありますけれども、紙に書いたのではなく一字一石の書写と思われます。

 山門前には仁王さんが睨みを利かしています。腰まえがよく、背の高い仁王さんはほんに力強そうな感じがして、特にごつごつとしたお顔立ちがたいへん印象深うございます。胸板など、やや形式的な表現のように見える箇所もあります。しかし腕の表現は写実的で、両者の塩梅がよいために全体としてかっちりとまとまった像であると言えましょう。

 阿形の方はなんとなく愛嬌が感じられるお顔立ちで、この角度から拝見いたしますとよいよ親しみが湧いてまいりました。大きな足の力強さも感じられます。

奉石書経王全部為菩提

 大型の一字一石塔で、銘によれば追善供養を願うたもののようです。上の方に折れた痕がありますが、継ぎ目がわからないほど丁寧に修復されています。

 本堂の写真はありませんが、説明板にありましたように文化財指定されている立派な仏様がお祀りされています。お参りをしたら、観音堂(冒頭の写真)のお観音様にもお参りいたしましょう。観音堂前にも仁王さんが立っています。こちらの仁王さんは奥の院下手にあった嶽ン堂(たけんどう)から下ろしたものとのことです。

 石板に半肉彫りで表現した仁王さんです。半肉彫りの仁王像と申しますと旧千灯寺のそれが有名ですが、見比べてみますとこちらはずいぶん個性的な表現です。失礼ながら稚拙な個所も見受けられますが、一目拝見してこの特徴的なお姿が大好きになりました。特に一つ髷の御髪がまるで辮髪のように見えてまいりますのが面白いし、金剛杵を耳元に寄せてあるのがまるで受話器のようで、何となくのんびりとした感じがいたしますのもまたよいではありませんか。寸づまりの脚まわりもよいと思います。

 風化摩滅の影響からか、阿形の方はずいぶん怖いお顔です。足先を見ますと、片足を真横に向けてあるのが面白うございます。半肉彫りという表現上の制約の中で、精一杯の工夫を凝らしたことが覗われます。

 大型のお地蔵さんは「願掛け地蔵」とのことです。特にお袖の表現がよいと思いますし、蓮台も豪勢です。基壇の上にごく小さな狛犬が立って、お地蔵さんを守っているのも微笑ましいではありませんか。説明板の内容を転記しておきます。

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願かけ地蔵
 元治元年(1864)当山住職中興第17世住持順孝法印橋位、安藤源平国恒の秀作にして半島屈指の巨像である。総高5.27mある。昔から二世安楽願掛け厄除成就の利益を享くると篤い信仰がとられている。(縁日 24日)

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 観音堂脇には興味深い石塔が3基も並んでいます。まず一石造の五輪塔は、祖型の面影を残す扁平な造りが目を引きます。一石五輪塔と申しましても、別石造のそれを簡略化した造りのものとは一味違います。

 その横の五輪塔の後ろには「隠切支丹五輪塔」と書いた札が立っていました。それと知らいで見たら水輪のずいぶん傷んだ五輪様にしか見えませんけれども、何らかの謂れがあるのでしょう。

 宝篋印塔は傷みが少なく、細部までよう残ります。格狭間のある段が見当たりませんけれども、最初からなかったのか失われたのか詳細は分かりません。相輪がほっそりとして、火焔との接合が特によいと思います。

 双体道祖神と思しき石殿も数基並んでいました。蓋し近隣の道路端から移されたものでしょう。

 馬頭観音様はその立体感、細やかな彫りなど何から何まで行き届いた秀作です。六角形の基壇から反花・請花でシームレスに円に切り替える部分の巧みな手法が素晴らしいではありませんか。3面のお顔を立体的に収めて、体とのつながりもごく自然です。しかも舟形の光背にはいちめんにお花模様を施してあります。

 本堂左手より六所権現へと上がるかかりの左側に広場があり、こちらに数多くの五輪塔や宝塔が寄せられています。これらの石塔群は応暦寺よりも下手の坊畑跡より移したものとのことです。

 

(2)六所権現周辺

 石塔群を見学したら六所権現へと歩を進めます。参道は一本道で、なだらかに上っていきます。

 杉木立の中のたいへん気持ちのよい道です。日暮れ前もほんにようございます。

 石段を上がり、鳥居をくぐった正面に六所権現のお社が建っています。こちらは、もとは奥の院の岩屋に鎮座していたものを、大正初期に今の場所に下ろしたそうです。また、六所権現様の右手には講堂の跡があります。礎石が残っていますのですぐ分かります。

 通路から外れたところに、やや荒れ気味ですが数段の石段を上がった上に岩屋の跡がありました。詳細は分かりません。

 

(3)堂ノ迫磨崖仏

 六所権現左手よりさらに上っていきます。参道の斜度がやや増してきて、石段が多くなってきます。特に危険箇所はありません。

 右手に磨崖仏の看板が見えてきました。こちらは堂ノ迫磨崖仏と申しまして、真玉町に数ある磨崖仏群の中でも特に有名なもののひとつです。本堂から少し離れていますけれども、せっかく応暦寺に参拝するのであればここまでは上ることをお勧めします。

 このように崖上の高いところにずらりと彫ってあります。覆い屋を設けて、その陰になり見学に難渋するようになりました。近くまで上がる道はありません。覆い屋がなかった頃はどうにか崖をへつれば近寄れたかもしれませんけれども、現状ではそれも難しいでしょう。向かって左から六観音様、十王様のうち1体、六地蔵様、比丘・比丘尼、司録様の計16体が彫ってあります。さらに、下段に彫られた別の龕(後ほど紹介します)にも2体の像が彫ってあり、この空間には合計18体の磨崖仏・像が彫ってあることになります。よう見ますと、お観音様の持ち物など細かいところまで丁寧に彫ってあります。

 説明板の内容を転記します。

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県史蹟「堂の迫磨崖仏」
室町初期
昭和35年指定

(左から)
六観音立像
十王坐像
六地蔵立像
比丘尼
比丘尼坐像
司録立像

比丘、比丘尼坐像は発願者夫妻と見られるが、夫妻が死後冥界に極楽往生を念願した浄土信仰を表現した写実的構図
平成11年9月、真玉町教育委員会

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 この説明板には間違いがあります。実物を拝見したところ「十王坐像」ではなく「十王立像」でした。訂正が望まれます。司録とは閻魔様の書記官です。比丘・比丘尼坐像は発願者夫妻とのことですが、これを仏様と横並びに彫ってある点に、何とも形容しがたい世俗と申しますか、これはわたしの曲解と言われたらそれまでですけれども、ある種のおこがましさのようなものをも感じたのが正直なところです。発願者夫妻が閻魔様に裁かれたときに六地蔵様などが救うてくださるところを表現しているのであれば、あくまでも発願者自身の極楽往生を願うものであるということです。そのためにこれほどの磨崖仏をこしらえるとはよほどの分限者であったと思われます。

 こちらが下の段の龕です。正方形に近く、中に2体の仏様(立像)が確認できました。上段の諸像よりも悼みが進んでいます。

 

(4)嶽ん堂跡~奥の院

 堂ノ迫磨崖仏を過ぎてなおも上れば、参道脇に大きな切株があります。御神木の株です。そのすぐ先、石灯籠のところから左側に平場が広がっています。ここが嶽ん堂の跡地で、権現様のお堂がありましたが火事で焼けてしまったそうで、跡形もありません。観音堂前の仁王さんはこちらから下ろしたものです。

 嶽ん堂跡を横切って崖下まで行けば、石祠が1基残っています。その戸には「山王七社大権現」とあります。嶽ん堂に付随する石祠であったと思われます。奥壁には種子曼荼羅が残っており、戸が外れていたので容易に確認できました。やや荒れ気味で、一般の参拝者は立ち寄らないようです。

 参道に返って、石段の脇の大岩に磨崖像が1体彫ってあります。こちらは聖徳太子像との伝承もあるようですが、確証を得ません。弓をとり、柔和なお顔立ちで斜めを向いています。素朴な、ほのぼのとした印象の像が心に残りました。

 石段が傷んできているので気を付けて登ります。登り詰めたら道なりに右に折れます。

 登り詰めたところの大岩にも1体の磨崖像が見られます。こちらも詳細は分かりません。動きが少なく、石段脇の像とはまるで印象が異なります。

 折り返した先が奥の院で、岩屋に建物が嵌まっています。こちらは姥ヶ懐(うばがふところ)とも申しまして、峯入の際21年目の行者がこちらで帯を解き、美食を許されたとのことです。

 やや傷んできていますけれども、細かい装飾がよう残る見事な造りです。誰でも自由にお参りできるようになっています。

 奥の院前庭の奥詰めには大型の国東塔が立っています。見落とすことはないと思います。

 笠を失い、相輪を破損しているのが惜しまれてなりません。また、反花はまだしも、請花もひどく磨滅しています。もしこれらの傷みがなければ、それはそれは見事なものであったことでしょう。

 

今回は以上です。応暦寺に関連する霊場は、過去の記事で紹介していますので参照してください。次回の記事の内容はまだ検討中です。

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