大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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宮城の名所めぐり その1(竹田市)

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 久しぶりに竹田市の名所旧跡を紹介します。今回は宮城地区の名所です。宮城は滝、磨崖仏、横穴古墳、めがね橋、温泉、貯水池など観光資源に事欠かない地域でありますが、遊覧者はまばらなのでゆっくりと見学してまわることができます。

 

1 市用の天満社

 市街地から県道638号を通って白丹(しらに)方面に参ります。左手の旧道沿いに山王橋が架かっていますので、見学をお勧めします(山王橋は豊岡の名所として別に紹介する予定です)。道なりに進んで大字市用(いちもち)に入り、右側に「←志土地」と書いた小さな青看板が立っている角を左折します(青看板を見逃さないようにします)。ほどなく、平園部落の半ば、道路右側に天神様と横穴古墳が見えます。冒頭の写真右側の道を、奥から手前に来ることになります。車は路側帯が広くなっているところに停めることができます。

 天神様にお参りしたら、横穴古墳を見学いたしましょう。

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 このように、岩壁の中間にほぼ横一列に横穴が並んでいます。よく、横穴墓は上下2段や3段に分かれているのを見かけるものですから、一列に並んでいるのは珍しく感じました。それにしても、この穴を掘るときは足場をどうしたのでしょう。桟道を架けたのでしょうか。

 説明板の内容を転記します。

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地域の有力者の古墳か
市用横穴古墳群
市指定史跡 昭和47年4月1日

 市用平園天満社横の岩壁にある横穴古墳群は、古墳時代後期6世紀末頃のものと考えられています。天満社自体は、横穴古墳群よりかなり後にできたもので、古墳群と直接の関わりはありません。
 古墳は調査によって11基が確認されていますが、いくつかは崩壊しており明らかに横穴と識別できるのは5基ほどです。羨門(せんもん:墓の入口)上部に切妻屋根形の彫り込みのある横穴古墳が1基見られますが、これは後世に施されたものとされています。
 羨門入口は、およそ60cm四方ですが遺骸を収める玄室内部は高さ約1m、幅・奥行きとも2mあります。もともと横穴には蓋があったはずで、羨門入口の溝がその蓋をはめ込んだ跡です。長い年月の間には蓋は取り除かれ、玄室内部には何も残されていません。おそらく盗掘などによるものと思われます。
 この横穴古墳は、通常の古墳と比べると簡単な作りで、埋葬された人々は竹田市菅生にある七ツ森古墳群のように強力な権力者ではなく、村や集落の有力者程度の地位の人たちだったと考えられます。市内には木下石仏、上坂田の磨崖仏と素朴ではあるが、心を動かされる遺産があるのはこの地域の文化を考える上でなおざりにできないといえるでしょう。

平成10年5月 歴史と文化を考える会

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 一点、説明板にある「木下石仏」とは「下木石仏」の誤りではないかと思います。木下石仏は大野町にある磨崖仏で、下木石仏は竹田駅の近くにある磨崖仏です。

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 説明板には簡単な造りとありますが、それは七つ森古墳などと比較した場合であって、こちらも蓋を嵌める溝以外にも羨門に段々の枠をこしらえるなど、手の込んだ造りになっています。これだけの高さの岩盤に穴をほぎ、そのぐるりを四角に整えるなど、土木技術の幼稚な時代にあってはよほどの労力を要したことでしょう。

 

2 志土知の庚申塔

 横穴古墳を過ぎて、道なりに行きます。「志土地農免道路記念碑」の立つ二股を左にとってすぐ、橋の手前を右折します。しばらく行くと、右カーブするところの右側に庚申塔が2基立っています。こちらは大字志土知(しとち)のうち、部落名が分かりませんでした。それで一応、項目名は「志土知の庚申塔」としましたが、おそらく大字志土知のうちにはこちら以外の庚申塔もあると思います。紛らわしいので、いつかこちらとは別の志土知の庚申塔を見つけたときには、項目名を検討したいと思っています。

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 3基に見えると思いますが、どうも中央の塔と向かって右の塔は同一のもので、半ばで断裂したものを並べてあるように見えましたので2基と数えました。中央の断石には「庚申」とあります。左の塔の銘は分かりません。なお、付近に適当な駐車場所は見当たりませんでした。

 

3 上畑の釈迦堂

 庚申塔を過ぎて、くねくねと道なりに進んでいきます。弓木部落を過ぎて少し行くと、正面に旧宮城台小学校の校庭の法面が見えてきます。ここから先に適当な駐車場所がありませんので、その法面の下に寄せて路肩に車を置き、歩いていくとよいでしょう。駐車したところの二股を左にとって、下の2車線道路に出たら右折します。そのすぐ先で左の道に入りしばらく歩けば、右側に「市指定史跡 上畑釈迦堂磨崖仏」の標柱が立っています。

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 この標柱が目印です。ここから右に折れて、階段を登っていきます。

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 このように、急勾配で踏面が狭いうえに落ち葉が堆積しており、非常に歩きにくうございました。春から秋にかけてはヘビが出そうです。マムシ等の被害も懸念されますから、こちらを探訪される際には晩秋か冬がよいでしょう。

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 上半分に、仏様がレリーフ状に彫られており、その下には線彫りの蓮の花が見えます。おそらく下半分には銘があったのでしょうが、消えてしまっていて分かりませんでした。供養塔の類でありましょうか。

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 頑張って階段を上がったかと思えば、時季によっては一面草の海になっていることがあります。くれぐれも、マムシの時季は避けてください。岩壁に近寄れば草も疎らになり、安心してお参り・見学できます。こちらは磨崖仏以外にも、五輪塔や宝篋印塔なども残っています。先にお塔の類を紹介します。

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 五輪塔も宝篋印塔も完璧な状態ではありませんけれども、この立地を勘案すればそれなりに良好な状態であるといえましょう。

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 説明板の内容を転記します。

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福寿山羅漢寺跡 竹田市大字上畑字桑迫
上畑釈迦堂磨崖仏(市指定)

第一龕
 比丘形坐像 像高68cm
 比丘尼形坐像 63cm
 比丘形坐像 68cm
 比丘尼形坐像 65cm
第二龕
 観世音菩薩立像 110cm
 阿弥陀如来立像 108cm
 地蔵菩薩立像 108cm
第三龕
 比丘形坐像 68cm
 比丘尼形坐像 68cm
 比丘形坐像 72cm
 比丘尼形坐像 70cm
第四龕
 比丘形坐像 68cm
 比丘尼形坐像 64cm

 いずれも眉、目、唇などは墨書きが加えられており彩色が施されている。男女両性の尊像を交互に配置しているところが特色である。
 全体的に素朴なものであり、室町末期頃の作とみられる。
 古記には福寿山羅漢寺跡とあり、白丹村南山城主、志賀氏の菩提樹と、土地の人々は伝えている。

竹田市 竹田市教育委員会

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 第1龕は、説明板のとおり男女の人物像が交互に並んでいます。左から2番目の男性は首が破損してしまっているのが惜しまれます。その右隣りの2名も頭部がやや傷んでおりますけれども、お顔の表情は読み取れるのが救いです。ごく素朴なデザインで、形式的なところもありますけれども、その優しそうなお顔などほんに親しみやすいお姿でございます。

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 こちらは第2龕で、正面になります。お観音様、阿弥陀様、お地蔵様で、やはりほかの坐像(人物像)に比べますと彫りが立派です。かなりの厚肉彫りでありますのに細部まで傷みが見られず、彩色もよう残ります。袖のたっぷりとしたところの表現など何とも言えない優美さが感じられますし、お地蔵様の切れ長の目、緩やかなカーブの引き眉毛などめいめいの表情も高貴な印象でございまして、単体の石仏としても秀作といえる仕上がりでありますものを磨崖でこしらえてあるのですから、よほどの力量をもった石工さんによるものと推察されます。

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 正面が第3龕、左側が第4龕です。いずれも像も、第1龕ほどのデフォルメはなされておりませんで、より写実的な表現になっています。頭部は丸彫りに近く傷み易かったようで、別の石材にて補うている例が目立ちました。また、説明板では言及されておりませんが第3龕右端の坐像の真下の龕にも、尊名不詳の坐像を確認しました(写真にも写っています)。こちらを第5龕と呼ぶことにします。第5龕は、破損してこの状態になったというよりは未成であると考えられます。おそらく本来はもう少し横長にこしらえて1対ないし2対の坐像を彫り、第3龕と第5龕で上下2段にしようとしていたものを、何らかの理由で1体のみの坐像でもって中止と相成ったのでしょう。

 これほど素晴らしい文化財の残る上畑の釈迦堂も、アクセスの悪さから、他地域の方が訪れることは稀であるようです。でも実際に行ってみると、宮城地区をめぐる際には必ず立ち寄るべき名所中の名所であると感じました。適切な時季に、ぜひお参りしてください。

 

4 上坂田の神明様

 こちらは、かつては近隣の方しか知らないような場所でしたが、非常に珍妙なる磨崖像が近年盛んに紹介されるようになりまして県外の方もちらほらと見学に訪れるようになっているようです。道順がややこしいので詳しく申します。上畑の釈迦堂から来た道を後戻って、車で旧宮城台小学校の横の道を上っていきます。道なりに行き、「止まれ」の交叉点を直進します。橋を渡って田んぼの中を行き、突き当りを右折します。しばらく行くと、左側に「神明社」の鳥居があります。車をこの辺りの路肩ぎりぎりにとめたら、鳥居をくぐって細道を登っていきます。はじめは田んぼの畦のすぐ横を通りますから、迷惑にならないように農繁期を避けましょう。また、マムシが出そうなところですし、真夏は藪になっていてとても通られません。稲刈りが終わってから、3月までの間に訪れるとよいでしょう。

 田んぼを過ぎると、道がいよいよ急傾斜になってまいります。登りに骨が折れますし、帰りは滑りこけそうな道ですから、杖を持って歩くと安心です。

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 頑張って登り、この辺りまでくれば傾斜もなだらかになり、雑木林の中の気持ちのよい道になります。しばらく行くと、向かい側の崖に暗い穴が見えてきます。その手前が、滑落が懸念されるような細道になっていますので気を付けて通ってください。

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 目的地に着きました。この矩形の洞穴の正面に、神明様のお社がございます。写真はありませんが、神明様の石像もなかなか風変わりなお姿ですからお参りをされる際に確認してみてください。洞穴の右側面には、異様なお姿の磨崖像が彫られています。

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 いかがですか。ものすごいインパクトでございます。モアイ像をどうかしたようなお顔、胴体からは羽のようなものが生えており、異様な造形です。しかも頭部は天井に突き刺さり、天井には赤い彩色が施されています(炎髪か火焔光背でしょう)。この像の由来には諸説ありますが、ひとまず説明板の内容を転記します。

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上坂田磨崖神像
市指定史跡(昭和47年4月1日)

 神明社の鳥居をくぐり山道に沿って登り、やや平らな道を辿ると岩壁をくりぬいた洞窟があります。この洞窟の正面右壁に磨崖神像が彫られています。洞窟は奥行き・幅ともに6mほどで高さはおよそ2mあります。
 ここに彫られている磨崖神像は、高さ230cm、幅80cmと比較的大型のもので、大きな顔、目はつり上がり、三角形の鼻の下に歯をむき出しにした口、両肩には羽のようにも見えますが、通常みる磨崖仏とは異なるもので邪気をはらう異様な姿です。
 目のあたりには朱色の色彩がうかがえるのですが、制作時には色が施されたものと考えられますが、地元の方の話によると以前仏像に彩色する人がやってきて塗っていたといいます。
 また、磨崖神像の右横には大きく「嘉永六年」(1853)の彫り込みがあります。磨崖神像はおそらくこのときに彫られたのでしょう。地元では、この磨崖神像を「神明様」とよんでいますが、これはこの磨崖神像がここ神明社にあることから、長い年月の間にそのように呼ばれるようになったものと考えられます。また、磨崖神像が洞窟の正面ではなく、側壁に彫られていますから、洞窟は磨崖神像のための造営ではなく神明社の社としてか、あるいはそれ以前に造られたものと考えられます。

平成10年9月 歴史と文化を考える会

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 説明板の中では「神像」とされておりますが、何の像なのかはっきりとは分かっていません。私は、一見して天狗様ではあるまいかと思いました。それと申しますのも、ここからそう遠くないところ(大字炭竃)には彦山神社がございます。何かその関係で、山岳信仰が持ち込まれて土着化し、神明様を守護するものとしてこのような造形になったのではと考えたのです。ほかにも、信仰が土着化した潜伏キリシタンの遺物ではあるまいかなど、諸説あります。定説がない中で、あれやこれやと想像を巡らしてみるのも楽しいものです。なお、呼称は「あんらく様」「しょうりょう様」「しょうり様」など種々あるそうですが、項目名は説明板の内容から「神明様」としました。

 

5 黄牛の滝

 「あめうし」と読みます。この滝は宮城地区きっての景勝地で、とどろき渡る滝の威勢はもとより、それに至るまでの渓谷美や柱状節理等の自然地形が素晴らしく、探訪者の絶え間を知らぬ名所でございます。標識が充実しているので特に迷うところはないと思います。神明様でUターンして、道なりに進んでいけば左側に牛の頭を模した滝遊歩道入口の標識があります。ここから左に下りますが車は通れませんので、一旦通り過ぎて切通しの先の駐車場に停めます。その向かいには地域の方が整備された休憩小屋があり、御厚意で竹の杖を何本も置いてくれています。この先は難所の道ですので、杖を借りた方がよいでしょう。

 標識のところからコンクリ舗装の坂道を下ります。左に1軒の空家を見送って、下りきったら右に折れて、用水路に沿うて水平に進みます。その先の二又を左にとってなおも坂道を下ります(二股に標識あり)。途中より階段になり、峡谷の底まで下り着いたら川べりの小道を上流方向に歩いていきます。

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 川べりの下りついたあたりから、振り返って撮影した写真です。素晴らしい自然景観に、この先の期待がいや増してまいります。ここから左岸に沿うて歩いていきます。遊歩道の体をなしておるものの、滑りやすかったり、ところどころ道が崩れて岩を乗り越すような場面もありますから歩きやすい靴でまいりましょう。

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 半ばまでまいりますと、滝の轟音が聞こえてまいりまして、さても幽玄なる風景と相俟って背筋の凍るようなそら恐ろしさがございます。怪我をしないように気を付けて進みます。写真には道が写っていないように見えると思いますが、右端の、川と崖の間の通路を進んでいくのです。大水で遊歩道が崩れてしまっていますが、気を付けて歩けば問題ないレベルです。

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 この日は前日までの雨の影響で水量が多くて、同行者の声が聞こえないほどのものすごい音でございました。普段は、右側からの流れだけです。それが、左の落て口からも流れ落ちて、滝壺にて両者がどんどどんどと混じり合うては渦をなし、この世のものとは思えぬ迫力に、その渦の中から龍が今や現れんとするかのような恐ろしさを感じました。なお、この滝を見物するときに川が増水してしまうと逃げ場がありません。増水の気配があれば入渓しないようにしましょう。

 さて、この滝をどうして「黄牛の滝」というのでしょうか。ずっと不思議に思うておりましたが、現地の説明板でその由来が分かりました。内容を転載します。

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黄牛の滝

 竹田市は豊かな清流に恵まれ、素晴らしい滝が随所にあり、その一つに「黄牛の滝」があります。黄牛とは飴色をした牛、肥後(熊本県)で多く見かけます。国道442号線の城原神社から5kmほど入り込むと駐車場、その先から石段を下り、岩肌の上を歩くこと300m、因幡川上流の滝つぼに到着します。滝の高さは約25mで、幅は狭く滝の淵はとても深く青々としています。
 言い伝えによると、「この滝には昔、龍が住み着いていて、村人や家畜に危害を与えていた。ある夜、一人の僧がこの滝を訪れ、子牛の首を滝つぼに投げ込み、これを生贄として、龍の怒りを鎮めた」といわれます。今では滝のすぐ上の田のふちに、古い石塔が祀られていて、この石塔には「長享三年巳酉八月二四日、向上庵文芳芸」と刻まれています(長享3年は1489年で室町時代)。おそらく伝説の人物と思われます。
 今は、滝を見る道も取りつけられ、きれいなトイレも設置されています。ここに至る前は、滝つぼに行く道はなく、丸橋を人畜が渡る途中、落ちたら助からないので、滝には「近づくな」と古老の言い伝えが残っています。魚釣りに行く人もめったになく、両岸は絶壁で、うっそうと樹々が茂り、昼なお暗く、そして、すさまじい滝の音、滝つぼの不気味な深さなど異様な雰囲気で、身の毛がよだつ場所として人々を寄せつけませんでした。
 平成3年、滝周辺を開発しようと地区民が立ち上がり、「黄牛の滝の会」を結成。菊屋奈良義氏や当時の竹田土木事務所長の井上芳明氏らの指導で村おこしが始まりました。代々自治会長が会長に就任し、活動を展開しています。市から5000万円の補助を戴き、滝つぼまでの遊歩道の整備が進められました。そして滝公園を造成し、滝観光の便宜を図っています。
 5月には鯉のぼりが川の上を泳ぎ、8月には滝周辺の田んぼに小松明(こだい)の灯がともり、幻想的な世界をかもし出します。また、近年、滝の上流200mの場所には「出会いの湯」という温泉も開発され、多くの人々が利用するようになりました。

平成20年8月 竹田市上坂田自治
(資料提供・竹田の歴史と文化を考える会)

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 探訪時の滝壺の様子を見て、龍が棲んでいた云々の伝承もかくやと思われました。それにしても、お坊さんは何を思うて牛の生首を生贄にしようと思うたのでしょうか。珍妙なる筋書きは、一度聞いたら忘れられません。また、滝壺までの道が平成3年以降に整備されたというのも意外でございます。非常にワイルドな道でありますから、てっきり大昔から整備されていたものと思い込んでいました。

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 駐車場の向かい側の山には、このような縦長の洞穴がいくつか見られました。防空壕にしては狭すぎるような気がします。もしかしたら、この近くの切通しができる以前の水路隧道の跡かなとも思いましたが、詳細は分かりません。

 

6 米賀の滝

 黄牛の滝駐車場から先に進んで二股を左にとり、道なりに左折して橋を渡り、十字路をまた左折します。県道613号に突き当たったら右折して、白丹方面を目指します。稲葉ダムを橋で跨いでしばらく行き、小さな切通しの手前を右折します。その直後をまた右折してなだからに下っていくと、お弘法様の堂様の先から左に旧道が分かれます。この辺りの路側帯が広くなっているので車を置いて、旧道を歩いていきます。旧米賀橋の上から川を見降ろすと、ちょうどよい具合に米賀の滝が見えます。

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 逆光でうまく撮影できませんでした。こちらは落差は低いものの、川幅に対して斜めに段差が生じて、そこにさらさらと羽衣天女の裾を見たような優美な流れが南条にも連なるような滝になっています。黄牛の滝のような迫力満点の姿とはまた違ったよさがあり、特に青葉若葉の頃にはほんによいでしょう。なお、旧米賀橋は石拱橋(めがね橋)ですから、こちらも新橋の上からでも見学してみてください。

 

今回は以上です。一気に6ヶ所も紹介したので記事が長くなり、更新に時間がかかってしまいました。けれども宮城地区の多彩な名所旧跡をいろいろと紹介できて、満足しています。