大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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大分の名所めぐり その4(大分市)

 前回に引き続き、旧岩屋寺関連の史跡をめぐります。今回は岩屋寺石仏と元町石仏という、大分市に数々残る磨崖仏の中でも特に著名なものがでてきます。周辺の石造文化財にも興味深いものが多々あります。説明が連続していますので、前回の記事(冒頭のリンク先)から続けて読んでいただくとより分かりやすいと思います。

 

○ 地名「龍ヶ鼻」の由来と今昔

 前回の末尾で、円寿寺前から鐙坂を下りました。今回は、鐙坂の下から道なりに左カーブして上野の台地の南東の裾を辿り、岩屋寺石仏から元町石仏へと歩を進めます。

 ところで、岩屋寺石仏附近に龍ヶ鼻(たつがはな)という通称地名が残っていますが、これにはおもしろい伝承があります。なんでも、上野の台地から丘陵地・山地が久留米市高良山まで延々と伸びていると申しまして、その様子を昔の人が龍に見立てたそうです。上野の台地が龍の頭にあたります。岩屋寺石仏と元町石仏の間に鎮座まします高良社(またの機会に紹介します)は久留米の高良大社からの勧請であり、「上野の台地が高良山まで伸びている」云々との関連性が推察されます。こんな経緯で、上野の台地の南東を龍ヶ鼻と呼んだのです。

 大昔は大分川がもっと曲がりくねっていて、龍ヶ鼻のすぐ崖下まで川の流れが来ているところもあったと申します。その頃は枝ぶりのよい松の木もあって、近隣きっての景勝地であったそうです。また、堀切峠(大道トンネルの旧道)があまりに急坂で交通に難渋したので掘り下げ工事が繰り返された結果、龍の首根っこを切ったような形になり、血が流れたと云々の噂話もありました。今は川がまっすぐになっていますし、汽車が通り、家は増えて道路もよくなりましたので、大昔のような景勝地の面影はありません。

 

9 龍ヶ鼻の石造物と岩屋寺石仏

 この項では岩屋寺石仏(磨崖仏)およびその周辺の石造物を紹介します。鐙坂の下から進んでいきます。

 左奥に写っている石幢は前回、鐙坂の石造物として紹介しています。そのほど近くに写真のような宝塔(残欠)、石幢の龕部、五輪塔が並んでいます。道路端なのですぐ分かります。石幢は幢身と中台が失われているほか、笠も後家合わせのようです。しかしながら龕部はなかなか優れた形をしています。8面に像を彫っていますが、八角というよりは円柱に近く、中膨れになっているのでほんに優美ではありまんか。諸像の彫りもよう残っています。ただしお顔は別石で補うている例が目立ちます。この部分だけ破損するとは考え難いので、廃仏毀釈の影響があったのかもしれません。

 少し進めば宝篋印塔が立っています。明らかに相輪以上は後補であるほか、基壇も完全には残っていません。塔身の四面仏も傷みが激しく、像容の確認は困難です。おいたわしい限りでございます。

 宝篋印塔の先、磨崖仏の覆い屋のすぐ左隣に立っている宝塔です。塔身は下膨れで、四面に梵字を彫っています。基壇や相輪は後補のものです。破損したものを、粗末にならないように補修したのでしょう。

 さて、いよいよ岩屋寺石仏(磨崖仏)です。この呼称は旧岩屋寺の故地にあたることに由来します。三叉路に面したやや高い場所に立派な覆い屋を設けてあるのですぐ分かります。すぐ下を何台もの車が通りすぎ、お参りはあまり多くはないようです。実に17体もの仏様がずらりと並んでいるのですが、残念ながら向かって右端の十一面観音様のほかはほとんど原形をとどめないほど傷んでしまっています。1枚の写真には納まらないので、右から順に、3枚の写真で紹介します。

 十一面観音様もお顔の破損や腕の欠損などおいたわしい限りですが、この場所の17体の磨崖仏の中ではまだ良好です。衣紋の細かい部分まで丁寧に表現されていますし、彩色も残ります。凝灰岩にて加工がしやすく、すべて厚肉彫りです。もともとは臼杵石仏のような、厚肉彫りで細かい表現のなされた仏様がずらりと並んでいたのです。ところが、これが災いしました。岩質が軟らかくて風雨の影響を受けやすく、しかも薄肉彫りならまだしも厚く彫ったので余計に壊れやすかったと思われます。特に鉄道が開通してからは傷みが進んだそうです。ちょうどこの磨崖仏の裏側に久大線のトンネルが貫通しています。おそらくトンネル工事による振動の悪影響があったのでしょう。

 このあたりは、痕跡を残す程度にまで傷んでいます。輪郭線の名残はあるものの、それと知らいでこの写真を見れば、ただの崖にしか見えないかもしれません。

 こんなに傷む前に適切な保存修理がなされていたらと思います。現に後で紹介する元町石仏や、臼杵石仏のうち古園石仏などは度々の保存修理がなされています。ところが岩屋寺石仏は傷み始めた時期が早かったのと、その傷み様があまりに激しかったので手の施しようがなかったのでしょう。昔は国指定の史跡であったものの、破損著しいとのことで県指定に変更されました。

 このように傷みが激しい様子を目の当たりにしますと、おいたわしい、おかわいそうななど、いろいろな感情が渦巻きます。けれども、よし傷みが進んで姿が薄れたとて、その本質的な価値が低くなるわけではないのです。磨崖仏というものは、岩壁に仏様が彫ってあるということに意味があります。ちょうど岩壁から仏様があらわれる様が想起されるものであり、その姿が見えなくなっても、岩壁には仏様が宿っていると見るべきでありましょう。ですから、いくら傷んでも姿が薄くなっても、それは見た目の問題にすぎないのです。換言すれば、彫りの優劣や姿の美しさなどといった副次的な事柄に惑わされず、磨崖仏の本質のみが残ったとも言えましょう。

願●此功徳●●●
奉書寫大乘妙典一字一石如法塔
我等與衆生皆共成佛道

 磨崖仏から左上に進むと千仏龕があります。その手前にはあっと驚く大きさの一字一石塔が立っています。造立趣旨としては、大乗妙典の功徳をもって衆生を救いたいといった内容のようです。これだけ大きなものなのでわりと新しいものかと思えば、元禄3年の銘がありました。

大乗妙典塔 ※妙は異体字

 一字一石塔のすぐ後ろには、さらに大きな塔が立っています。こちらは、納経供養塔か一字一石塔か分かりませんけれども、いずれにせよ稀に見る大きさです。

 千仏龕の前に立っている宝塔です。やはり基壇の下2段と相輪以上は後補のものです。これとよう似た塔が前回の記事に出てきました(万寿寺の項)。同じ文脈のものと推察されます。

 こちらが千仏龕です。千というのは数が多いことを象徴的に表した文言であり、実際は千もないのは言うまでもなく、現在残っている龕は百もないでしょう。もしかしたら昔は、これ以外にももっとあったのかもしれませんが。とまれ、このような石造物はたいへん珍しく、滅多に見かけないものです。かつては全ての龕に、小さな仏様がおさまっていたと推察されます。

 千仏龕の下段、道路端には一字一石塔と仏様の御室が並んでいます。仏様は状態がよく、細部までよう分かります。穏やかな笑まいの、ほんに優しそうなお観音様です。一字一石塔は別の写真で詳しく紹介します。

維時文化十三稔丙子正月
願御城主御武運長久
大乘妙典一字一石書写塔
村中老若男女
為現當二世安穏也
願主 當村 佐藤清兵衛

 保存状態がすこぶる良好で、すべての銘を容易に読み取れました。この塔の銘には、今まで見てきた一字一石塔とは明らかに異なる点があります。それは「願御城主御武運長久」です。願主は苗字を名乗っていることから、庄屋でしょうか。土地柄や願主の立場から、このような文言が入ったと思われますが、しっかりと「村中老若男女為現当二世安穏也」の文言も後半に入っています。お殿様の武運長久と、村人全員の二世安穏とが併記されているのが興味深いところです。一字一石塔の銘としては珍しいと思いますし、この地域の生活史の一端を示す文化財といえましょう。文化財指定は受けていませんが、今後も大切に保存されるべき石塔です。

 

10 古国府庚申塔(龍ヶ鼻)

 岩屋寺石仏の駐車場から少し元町方向に進んだところの道路端、崖下にひっそりと庚申塔が立っています。旧岩屋寺とは文脈が異なるので一応別項扱いとしました。

猿田彦大神

 古国府庚申信仰がわりあい盛んであったようで、この塔以外にも数基残っているそうです。紀年銘は分かりませんでした。

 

11 元町石仏

 庚申塔から先に進めば、左側に高良社が鎮座しています。その角を左折して、車の通れない細い道を進み、踏切(車不可)を渡って少し右に行けば元町石仏に着きます。車の場合は少し回り道します。一旦国道10号に出て左に行き、フォルクスワーゲンのところを左折して踏切を渡ったら左側に駐車場があります。車を置き、突き当りを左折して少し行けば着きます。

 門をくぐって正面の堂様は磨崖仏の覆い屋です。この堂様の中の岩壁に、磨崖仏が7体彫ってあります。中尊の薬師様は特に大きく、昔から「岩薬師」と呼んでいます。この呼称は中尊のみを指すというよりは、元町石仏全体の象徴的な呼称といえましょう。また、堂様の右側にも覆い屋を設けてあり、そこには6体の仏様が彫ってあります。風化・崩落が著しく、何の仏様かは全く分からない状態です。さらに右側には、台地上への小道の上りはなの下に龕をとって3体の仏様を彫ってあります。まとめますと、下記のとおりです。

(堂内左から)
制吒迦童子不動明王矜羯羅童子薬師如来、善賦師童子毘沙門天、吉祥天

(堂外)
仏像6体

(敷地外右方)
仏像3体

 しめて16体もの磨崖仏がある(あった)わけですが、現状としては薬師如来以外は原形をとどめないほど傷んでいます。岩屋寺石仏の説明で申しましたとおり、岩質が軟らかいうえに厚肉に彫っていることから、致し方ないことと思われます。

 説明板の内容を転記します(やや紛らわしいと思われる表記がありましたのでその箇所のみ少し改変しました)。

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上野地区観光スポット
大分元町石仏

大分元町石仏は、阿蘇溶結凝灰岩の岩面に刻まれた磨崖仏で、西暦1934年に国指定史跡となり、国宝臼杵石仏と並ぶ大分県を代表する磨崖仏です。

 建物内に並ぶ薬師如来坐像を本尊とする磨崖仏群には、定朝様(※)の見事な作風を見ることができます。
平安時代の仏師 定朝にはじまる和様の仏像彫刻様式

 11世紀後半頃の制作と推定されており、特に薬師如来坐像は、木彫の仏像を彷彿とさせる造りで、量感のある体躯、童顔を思わせる端正で穏やかな顔立ちなど、すぐれた彫刻の技を見ることができます。

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 中央に彫ってある薬師様です。臼杵石仏と同様、ごく厚肉に表現して半ば丸彫りに近い様相を呈しており、国東半島で盛んに見かける薄肉彫りないし半肉彫りの磨崖仏とは明らかに異なります。この像は、すべてが地石によるのではありません。剥落した部分には鉄釘を打ち込んだ跡が見てとれるそうで、地石の不足する部分を粘土や別石で補う造り方をしています。このような手法をとった磨崖仏としては、以前、千歳村の大迫磨崖仏を紹介しています。ただでさえやわらかい岩質であるうえに、石や粘土を継ぎ足す手法をとったことにより傷みが進み易かったとみえます。

 頭部を拝見しますと丁寧に彫り込んだ螺髪、眉の形、切れ長の目、薄いおつばなど、非常に優美な表現が目立ちます。ですから体もさぞやと思われますが傷みが顕著で、細かい部分がさっぱり分からなくなっています。特に腕の欠損はおいたわしい限りです。

 傷みが進むばかりなので保存修理のために様々な対策がなされており、一時は体中に膏薬を貼り付けたような姿になっていました。久しぶりに参拝したところきれいに剥がされていましたが、今なお対策は続いています。

 左側には、お不動様を中尊に、左右には制吒迦童子矜羯羅童子が彫ってあります。しかしながらいずれも傷みがひどく、胸から上はすべて剥落しています。先ほど掲載した説明板には、中尊の頭まで描かれた絵図が掲載されていました。このことから、中尊の剥落はそう遠い昔のことではないのかもしれません。

 残部を見るに、中尊ほど厚肉に表現しているわけではないことから、こちらは粘土などで補う手法ではなく、全部地石を彫り出したものと思われます。

 右側の三尊は、もはや痕跡を確認することすら困難な状態です。説明がなければ、この場所に三尊が彫ってあることには気づかないでしょう。善賦師童子毘沙門天、吉祥天とのことですが、どのようにして像の種別が分かったのでしょうか。以前はもう少しは残っていたか、または何らかの古い記録があるのかもしれません。

 堂外左奥には、一段上の岩屋の中にお地蔵様と思しき坐像のおさまる御室が安置され、手前には石塔の部材や破損した石仏が寄せられています。この中で、中央の半肉彫りの立像はわりあい良好な状態です。右側に「童女」の文字が残っていました。古い時代の墓碑の可能性があります。

 堂外右側には六体の磨崖仏が並んでいます(三尊形式が対になっているようです)。覆い屋を設けてあるのですぐ分かりますが、こちらは傷みがひどくて仏様の種別がさっぱり分からないばかりか、特に左の三尊など輪郭線を確認することすら困難になってきています。写真は省きます。右の三尊はまだ分かり易いので、個々に詳しく見てみましょう。

 岩壁には舟形光背の線がきれいに残っています。像の残部から推して、厚肉彫りのものであったと思われます。

 ところで、岩薬師の文殊菩薩の裾ににじみ出た水が眼病に効くと申しまして、戦前まではお水貰いがあったそうです。像容からは判別できませんが手前に柄杓が置いてあり、この右側には水を溜めるためのくぼみのような箇所がありましたから、この像か右隣の像に文殊菩薩の伝承があるのかもしれません。

 こちらが、この場所の三尊の中ではもっとも良好な状態の像です。頭部が失われていますし体もこけし人形のようになっていますけれども、その輪郭線はよう残っています。左下の窪みが、先ほど申しましたお水を溜めるためのものかなと推量したものです。ただ、現状では覆い屋の整備などにより、水が溜まることはなくなっているでしょう。

 この像は体に大きな亀裂が走っています。厚肉彫りであったことが分かります。

 以上、堂内外の一連の磨崖仏を紹介しました。堂内に残る薬師様以外の像は傷みが進んでいますけれども、先ほど岩屋寺石仏の項で申しましたような心持ちで参拝したいものです。保存状態の違いは見た目の問題であって、その本質的な価値に上下の差はないと信じています。

 こちらは、堂外の磨崖仏のところから上野の台地に上がる細道の下にある龕です。中央の像は、或いは単体の石仏かもしれませんが、見た目から磨崖ではあるまいかと推量しました。その両隣には坐像(磨崖)の痕跡が見てとれました。このような造りの仏龕は、以前紹介した南太平寺の伽藍石仏に残っています。距離的にも近いので、同じ発想のものと思われます。この龕は説明板では特に言及されていませんので、見落とす方も多いと思います。すぐ分かる場所なので、もし元町石仏に行かれる場合は確認してみてください。

 

今回は以上です。写真のストックが少なくなったので大分地区のシリーズは一旦お休みにして、次回は臼野地区(真玉町)のシリーズの続きを書きます。

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