大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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田染の名所めぐり その10(豊後高田市)

 久しぶりに田染シリーズの続きを書きます。田染地区には磨崖仏がたくさん残っており、わたしの知る限りでは熊野磨崖仏、元宮磨崖仏、城山薬師堂跡の磨崖仏、岩脇寺奥の院の磨崖仏、大門坊磨崖仏、陽平の磨崖仏、鍋山磨崖仏と、合計7か所もあります。ほかにもあるかもしれません。今回、上記のうち大門坊と陽平の磨崖仏を掲載しますので、一応世間一般に知られている田染の磨崖仏の紹介はこれでおしまいです。もちろん、庚申塔などといった各種石塔群や石仏、史跡、景勝など未掲載の名所旧跡・文化財がまだたくさんありますので、田染の記事自体はこれからも続いていきます。

 

51 園田の阿弥陀堂跡の石造物

 三宮の景から高田方面に行きます。鍋山磨崖仏への上り口を過ぎて最初の右カーブの左側に2つのカーブミラーが立っています。2つ目のカーブミラーの手前を左折して少し進めば、道路沿いにコンクリートブロックとトタンでこしらえた覆い屋があり、その中に宝篋印塔の残欠やお地蔵様などがお祀りされています。阿弥陀堂こそ残っていませんけれどもその関連の仏様や石塔は昔から近隣の信仰が篤く、いつもお供えがあがっています。

 阿弥陀堂跡の二股を右に行き、次の角を右折したあたり(西ノ尻)の道路端には五輪塔が並んでいます。適当な写真がないので省略します。

 

52 周ヶ尾の岩屋堂跡

 阿弥陀堂跡から県道に返り右折してすぐさま、カーブミラーの角をまた右折します(三宮の景からだと1つ目のカーブミラーを左折)。沈み橋を渡りますといよいよ道幅が狭まり、軽自動車でなければ運転に難渋します。ガードレールのないホキ道にて、不安な方は少し遠いのですが三宮の景のところから歩く方がよいでしょう。くねくねと上っていくと左側に岩屋に至る石段がありますので、上り口はすぐ分かります。車で来た場合、一旦通り過ぎてさらに上ればぎりぎり1台停められる程度の余地があります。

 写真を少し明るくしています。鬱蒼としているので、本当はもっと薄暗い雰囲気です。石段は、特に浮石などありませんし距離も知れているので、特に不安を感じることなく通行できました。

 岩屋の手前には平場があり、石垣をついています(1つ上の写真に写っています)。昔は堂様が建っていたそうです。今は堂様こそないものの、岩屋の中にお観音様などをお祀りしています。岩屋はそれなりに間口が広く、開放的な雰囲気です。

 阿弥陀様はその形状に合わせてこしらえた龕にぴったりと収まっています。光輪の割れ以外は比較的良好な状態を保っておりますのも、龕の中にあればこそでしょう。優しそうなお顔が心に残りました。ほかにも数体の仏様がお祀りされており、お花もあがり、信仰が続いていることが分かります。

 岩屋の外には一石造の五輪塔が残っていました。

 この岩屋の下の道を上っていけば、観音堂部落に至ります。観音堂部落には慈恩寺があり、鍋山磨崖仏はその奥の院とのことです。いま通ってきた道が両者を結んでいます。道が悪いので今はほとんど通りがありませんが、昔は観音堂や大曲・小曲から上野に出る近道として盛んに利用されたことでしょう。

 

○ 田染の櫨採り唄

 昔、田染では櫨(はぜ)の実の採集が行われていました。櫨の実からは蝋が取れます(※)。高い枝に登って実をちぎるのはたいへん危険で、誰にでもできる仕事ではありません。愛媛県から出稼ぎに来た専門職の人が請け負うことが多かったそうです。
※ 今は、櫨の蝋でこしらえた蝋燭は「和蠟燭」と申しまして珍重され、高級品として取り扱われています。昔は蝋燭のみならず、日本髪の鬢づけ油や口紅の原料としても使われていたそうです。

 そのときに櫨の実をちぎりながら唄われた作業唄は、大分県下一円で唄われた木挽き唄と節の骨格が似通っています。けれども一般的な木挽き唄よりも節回しがずっと細かくて、節尻を長く引っ張って唄いますので情趣に富んでいます。今は唄う機会がありませんが、郷土の唄として伝承されればと思います。

〽ヤレー 鳴くな鶏ヨー ヤレまだ夜は明けぬヨー
 明けりゃお寺のヨー ヤレ鐘が鳴るヨー
〽ヤレー 何の因果かヨー ヤレ櫨採りを習うたヨー
 櫨の小枝にヨー ヤレ身をまかすヨー
〽ヤレー 聞こえますぞえヨー ヤレ櫨採りの唄がヨー
 朝も早うからヨー ヤレ威勢よくヨー
〽ヤレー 唄も唄いなれヨー ヤレ仕事もしなれヨー
 唄は仕事もヨー ヤレまぎれ草ヨー

 

53 大門坊

 道順が飛びます。真中交叉点から真木の大堂の方向に少し進めば、右側に「大門坊磨崖仏」の小さな標識が立っています。この角を右折した突き当りが大門坊で、中央に堂様が建っており右側にはお弘法様、左側には磨崖仏があります。駐車場所には困りません。大きい道路沿いにて簡単に立ち寄れますので参拝をお勧めします。

 お弘法様の大きな立像は、ずんぐりとした体形です。衣紋の重なりなど丁寧に表現されていますし、お顔の表情もよく、さてもありがたい感じがいたします。お弘法様と申しますと、小型の坐像が道端から屋敷の坪から、国東半島一円にそれはもう数えもやらぬほどお祀りされています。その中で、ときどきこのような大型の立像も見かけます。

 右から2番目の碑は、成子内親王(当時)の御生誕記念のものです。その左隣は塔身の下に反花を伴う宝塔、つまり国東塔ですが首部が異様に大きく、これは後家合わせによるものと思われます。五輪塔も数基あります。写真では分かりませんが、この並びの左の方にごく小さな磨崖仏が1体残っています。堂様の左側の岩壁の磨崖仏群と同じ文脈のものでしょうか? 現地で注意深く捜せば分かりますから、確認してみてください。

 磨崖仏の岩壁の左奥には五輪塔や板碑が多数残っています。傾いたり崩れたりしているものが多い中で、一石造のものは比較的良好な状態を保っていました。

 磨崖仏の岩壁の正面には碑銘と宝塔が残っています。個々に紹介します。

大乗妙典一字一石

 不整形の石板の中央に矩形の枠をこしらえて、その中に銘を彫ってあります。紀年銘もありますが苔で読み取りにくかったので、省きます。このような形状の一字一石塔はあまり見かけません。

 最下部に請花を伴いますが、これは後家合わせでしょう。国東塔とは言い難い造りです。塔身はなかなか形がよく、それなりに大きいので、もし元の姿のまま残っていたならおそらく優れた造形であったと思います。

 さて、いよいよ磨崖仏の紹介に入ります。先に、道路端に立っている説明板の内容を記しておきます。

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大門坊磨崖仏
所在地 豊後高田市大字真中 大門坊境内
磨崖仏2か所
制作年代 鎌倉期と推定

○ 堂に向かって左側岩壁 奥の方から
多聞天立像 像高209㎝、右足で邪鬼を踏む
薬師如来坐像 像高140cm
 坐下に縦58cm横64cmの小龕に6体の声門像
大日如来坐像 像高146cm、宝冠なく普通の如来
 坐下に縦55cm横62cmの小龕に7体の菩薩像
・尊名不詳の仏像 像高100cm
不動明王立像 像高198cm

○ 堂の右側約5mほどの岩に
・尊名不詳の仏像 像高20cm、僅かに彩色残す

豊後高田市観光協会

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 中央の坐像が大日様、向かって右の坐像が薬師様、左の立像は尊名不詳です。大日様と薬師様は、説明板がなければ私には見分けがつかないほどに風化してしまっています。でも、大まかな姿はよう分かります。尊名不詳の像は小型ながらも頭部の状態などは大日様・薬師様よりもよほどよう残っています。この三尊はすぐ目に入りますので、大門坊磨崖仏と申しますとこちらを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

 また、写真の左端の方には、辛うじて不動明王立像のお顔が写っています。体は見切れています。不動明王も傷みが進んでおり、正面からだと見落とすかもしれません。斜めに見ますとその顔はすぐ分かると思います。

 右端の立像は多聞天です。頭部はよう残っていますが体は風化が著しく、特に下半身はその輪郭を辛うじて留めるほどにまで傷んでおり、おいたわしい限りです。まず見落とすことはないでしょう。この足下には邪鬼が彫ってあります。

 多聞天に踏まれた邪鬼の顔をご覧ください。丸顔でどんぐり眼の邪鬼は、何とも言えない表情をしています。しかも、庚申塔で見かける邪鬼と同じように七重の膝を八重に折りて、四つん這いになっています。大門坊磨崖仏の中でも特に個性的でおもしろいのですが小さくて見落としやすいので、注意深く観察してみてください。また、当初わたしは邪鬼は1匹だけ(多聞天の左足で踏まれている)と思うておりましたが、よう見ますと右足の下も邪鬼のような気がします。じっと見ておりますと、落ちくぼんだ目と「アカチョコベ」の舌が見えてきました。ただの見間違いの可能性もあり、断言はできませんが。

 下部に横並びになった2つの小龕には、それぞれ数体の立像が辛うじて痕跡を留めています。よほど注意深く見ないと気付きません。写真の龕には7体の菩薩像が彫ってあるとのことですが、7体全部は分かりませんでした。どうにか4体程度は確認できます。

 こちらには6体の声門像が彫ってある由、辛うじて痕跡を残す程度にまで風化しています。注意深く見れば4体程度は分かります。2つの小龕の仏様には気付かない方が多いようです。説明板がすぐそばに立っていればよいのですが、道路端に立っています。いつか説明板を更改する機会があれば、可能であれば磨崖仏のすぐ近くに設置していただくとすべての像を見落とさずにすむと思います。

 

54 陽平の磨崖仏

 大門坊から真木の大堂を過ぎて、菊山部落の先、平野の分教場跡のところで3方向に道が分かれています。これを右折して立石方面に進みます。薗木方面への分岐(※)を無視してとにかく道なりに行けば陽平部落に至ります。その中ほど、乗り合いタクシー乗り場のところに駐車して、細道を上っていけば福寿寺薬師堂に着きます。歩行距離は知れたものです。
山香町立石地区(大字下)と大字平野を結ぶ道は大まかに言えば3通りあって、北から順に申しますとぞれ陽平経由、薗木経由(車輌困難)、熊野・六太郎経由(車輌不可)です。今は専ら陽平経由の道が利用されていますが、昔はほかの道も盛んに利用されていたそうです。薗木部落は大字平野のうちですが、自動車の場合は陽平経由で大回りして床並部落(山香町)から入ります。

 この建物は磨崖仏のある岩の鞘堂です。境内には一字一石塔などの石造物もありますが適当な写真がないので省き、今回は磨崖仏・磨崖国東塔を紹介します。

 説明板の内容を転記します。

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福寿寺薬師堂磨崖国東塔

 福寿寺は日陽山福寿寺といわれ、浄土真宗の説教場として明治29年に開設されました。しかしそれ以前から仏堂は存在しており、禅宗の僧侶が年2回供養を行っていたといわれています。この仏堂の本尊は観音菩薩であり、後藤小安之助朝久が田染に入部した際に奉納したものといわれています。
 同じ敷地には大岩に刻まれた薬師如来を本尊とする薬師堂があります。正面に本尊の薬師如来坐像と4体の尊名不詳仏がきざまれ、向かって右側の面に磨崖国東塔が刻まれています。
 磨崖国東塔については、基礎は二重で、台座は反花と蓮華坐からなっています。塔身には「香以」「永享」「癸丑」と刻まれた銘があります。永享癸丑は1433年のことで室町時代にあたります。昭和55年4月8日には、国東塔を磨崖として表現されていることや、制作年が判るといった希少性が認められ、大分県有形文化財に指定されました。

境内の文化財

○ 薬師堂
(正面)
 薬師如来坐像 像高60cm
 尊名不詳坐像(役行者?) 像高40cm
 尊名不詳坐像 像高26cm
 尊名不詳坐像(薬師如来?) 像高28cm
 地蔵菩薩坐像 像高61cm
(正面右横)
 尊名不詳立像2体 像高ともに31cm
(北面)
 磨崖国東塔1基 塔高90㎝(大分県指定有形文化財

○ 一字一石塔 塔高136cm

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 こちらの磨崖仏・塔は、大岩に平面的に配されているのではなく、周囲をぐるりと取り巻くようになっています。ですから、見落とさないように全部を注意深く確認する必要があります。磨崖国東塔の左隣の像は、説明板には「尊名不詳立像」とありますがどうも坐像のようです。

 磨崖国東塔はごく浅いレリーフ状の彫りでありながら、塔身や相輪などは彫り口を丸くなめらかに、基壇は彫り口を立てて角ばらせるなど、非常に丁寧に表現されています。全体的に調和がとれており、素晴らしい仕上がりです。しかも彫りの浅さが手伝ってか、保存状態がすこぶる良好です。磨崖五輪塔というものはときどき見ますが、磨崖国東塔と申しますと稀な事例でありましょう。

 左が薬師様とのことで、正面にあたります。お顔などずいぶん傷みが進んでいます。龕にあっても、岩質等の影響が大きいのでしょうか。隣は比丘尼の様相を呈ていますが詳細は分かりません。

 薬師様の龕の右下に、単独の龕をこしらえて彫ってあります。お地蔵様と思われます。

 左は役行者でしょうか。右の像は傷みがひどく、よう分かりません。側面から回り込まないと見落とすので、注意深く捜してみてください。いろいろな仏様が彫ってあり、それぞれ特徴が異なります。同時期に彫ったというより、後から後から追刻し今のようになったのではあるまいかと推量いたしました。そうであれば、磨崖国東塔の紀年銘をもって磨崖仏の年代に目安をつけるのは考え物です。でも、個々の仏様がいつの時代のものであろうと、そのありがたさに変わりはありません。

 

今回は以上です。次回は津民地区の記事を書きます。

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