大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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津房の名所めぐり その2(安心院町)

 先日、15年ぶりに奈多落としの滝を訪ねました。それで、久しぶりに津房地区の記事を書きます。

 さて、津房地区には滝がいくつかあります。私の知っているのは東椎屋の滝、須崎の滝、国境の滝、奈多落としの滝で、ほかにもあるかもしれませんが名前のついた滝はこの4か所と思われます。このうち東椎屋の滝は「その1」で紹介しましたので、今回は残りの3か所と、丸田橋、楢本磨崖仏を紹介します。

 

3 国境の滝

 アフリカンサファリ入口から国道500号安心院方面に下ります。天間(あまま)を過ぎて、道なりに国境橋を渡ってすぐ、左側に「国境の滝展望所」の立派な標柱が立っています。

 ここは旧道(ガードレールで封鎖済)の入口です。邪魔にならないように車を停めたら、国境橋を歩いて後戻ります。橋の中ほどから見下ろせば、下の方に小さく滝が見えます(冒頭の写真)。この滝は水量が豊富ですが、間近に見ることができないのが惜しまれます。しかも近年は木の枝に隠れがちです。あの立地では枝を下ろすのは難しそうなので、もう何十年もすれば道路からは見えなくなってしまうかもしれません。

 国境の滝という呼称は、この滝が豊前と豊後の境界にあたることに由来します。すなわち左岸側が豊前(旧津房村大字萱籠(かやごもり))、右岸側が豊後(旧南端村大字天間)で、今でも宇佐市別府市の境界になっています。今の国境橋がかかる前は、やや上流側に引っ込んだところに架かっていた国境橋(撤去済)を通行していました。それよりも昔は、もっと上流側で渉っていたのでしょう。天間高原から東椎屋の滝入口までの長い長い坂道は、ほんの20年ほど前までは中央線のない部分が多く、曲がりくねった坂道の運転に往生していたのを思い出します。今は改良が進んで全線2車線になりました。

 

4 須崎の滝

 国境の滝を過ぎてほどなく、道路右側の広い路側帯に「須崎の滝展望所」の標柱が立っています。車を置き、フェンスの側に立てば遥か麓に滝が見えます。

 この写真は2倍程度のズームで撮影したもので、実際にはもっと小さく見えます。大きな滝壺を有し、見事な大岩壁に水量豊富な滝が落ちています。これほど立派な滝なのに、滝壺への遊歩道がないのが惜しまれます。けれども展望所からの風景もなかなかのもので、特に紅葉の時季は見事です。ちょっと車を停めて眺めてみてはいかがでしょうか。

 

5 須崎発電所の水車発電機 ※大野町

 須崎の滝を過ぎると須崎部落に入ります。ここは津房の谷の奥詰め、もっともカサにあたります。ほんの数軒の家並みを過ぎたら、右側に「発電所口」という謎のバス停があります。ここから右の道を下りていったところに須崎発電所があります。そこでかつて使用されていた水車発電機の部品が、大野町は沈堕の滝の公園に展示されています。今は大野町に所在しておりますけれども津房地区に関係のあるものですから、この記事で紹介することにします。

 内容を要約して転記します。

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水車発電機の説明
 展示してある水車発電機(一部)は、宇佐郡安心院町にある九州電力㈱須崎発電所で、昭和6年3月から平成12年8月までの70年もの長い間、運転し電気を発生してきたものです。展示品は横方向に据え付けてありますが、実際には縦方向にて据え付けられ運転していました。

ダム水路式発電のしくみ
 高いところから落ちる水の力で大きな水車を回して電気を作るシステムです。ダムから勢いよく流れ出した水が水車を回すことで発電機が回り、電気が作られます。

揚水発電機のしくみ
 上下に2つのダムを築き、水路の半ばにポンプ水車(発電機とポンプを兼ねたもの)を設けます。昼間は上ダムから水を流して、ダム水路式発電と同様に地下の発電所で発電します。夜には電気の力で、下ダムから上ダムに水をくみ上げます。

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発電機回転子

 水車と軸によって結ばれ、水車の回転力を受け止め、回転することで電気を起こします。最大出力900kwの電気を起こすことができました。一般家庭でおよそ400軒分の電気を賄うことができます。

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 左から順に転記します。

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水車ガイドベーン
 水車に入る水の量を調整する役目の弁(バルブ)で、16枚のガイドベーンで水量の調整を行っていました。

水車ランナー
 水車の一部です。ダムから導かれた水の力を回転力に帰る役目をする水車で、1分間に900回転もの速度で運転していました。

水圧鉄管
 ダム(川)から水車に水を導くための導水路の一部で、水車にいちばん近い場所に据え付けられ、大きさ(内径)が80cmで、この中を1秒間にドラム缶5本分の水が流れていました。

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6 丸田橋

 発電所口バス停のすぐ先で、左側に須崎隧道がほげています。これは旧道で、昔はこのトンネルを抜けて谷筋を迂回していました。今は立派な橋で谷を一跨ぎします。この先はしばらく人家が途絶えます。道なりに下っていけば右側に「丸田」バス停と「丸田の石橋」の看板があります。左側の路側帯が広くなっていますから車を置いて、バス停のところから旧道を下りていきます。

 枝や草がしこっており、橋の全景を写すことができませんでした。この橋は昭和9年、院内の松田新之助さんにより架けられました。院内といえば石橋の里です。この橋も、院内の石橋群と同じ文脈にあるものといえましょう。径間20.4mという比較的大きなアーチをなしており、近寄ってみると谷の深さに驚きます。強度を増すためでしょうか、輪石を二重にするという珍しい構造になっていますので、ぜひ現地で確認してみて下さい。なお、今はすぐ下流に新橋が架かっていますので車両通行止めになっています。

 新丸田橋の上から見た丸田橋です。以前はもう少しよう見えていたのですが、枝が伸びて見えづらくなりました。

 橋を渡れば丸田部落で、ここは大字東椎屋のうちです。丸田といえば子供の頃に国道から見た素晴らしい景観の棚田を思い出しますが、最近はいちめん休耕田になっています。山の上の方はメサ台地になっており、椎屋耶馬溪の一端をなす景勝地です。

 

7 奈多落としの滝

 国道を進んでいき、大字六郎丸は旅館「津房館」の交叉点を左折します。橋を渡って大字板場に入り、道なりに行って坂道を上り、「鉈落しの滝」の看板のある角を鋭角に左折します。しばらく進むと、左側にまた「鉈落しの滝」の看板が立っています。右側の路側帯が広くなっているので、ここに駐車して歩いて行った方が無難です。軽自動車であれば滝の説明板の広場までどうにか行けますが、未舗装で路面に凹凸がありますのであまりお勧めできません。看板のところから左の道に入ってすぐ右折、簡易舗装の細道を下っていきます。農業用水の枡のところで直角に折れて、ここから先は未舗装です。軽自動車がやっとの幅しかない草付の道をくねくねと下っていけば、滝の説明板が立っているところが広くなっていて駐車できます。

 説明板の内容を転記します。

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板場の「奈多落としの滝」

 保元・平治の両乱により、1160年以後、天下の実権は平清盛の手に帰し、平家の威勢は全国に隈なく、戦い敗れた源氏方は追われる身となった。
 一時豊後を本拠として九州に覇をなした鎮西八郎為朝も、伊豆の大島に流されてそこで亡くなり、為朝ゆかりの者も山深く隠れ住む身となった。その中に奈多姫という男勝りの姫がいて、里の太郎左という家来を連れ、自ら弓矢を取って山々を駆け巡りて狩をしていた。
 ある日、山深く迷い込み、足滑らせて崖下の谷間に降り立てば、ここは板場の一の滝、滝川の清らかな冷たい水に喉を潤して元気回復、柏手打って滝を拝し、下手に歩けばさらに二の滝。姫が落口に立って下の滝壺を覗き込む様子に、驚いた太郎左が足早に近寄って「危ない」と声をかけ、姫の背に手をふれた瞬間、姫の姿は滝壺に消えた。太郎左はただ茫然たるばかり。
 板場の部落から3kmばかり奥まった山中に「源氏の隠れ屋敷跡」と称するところがあるが、里の太郎左はここで姫の後世を弔い、自分もここで果てたのではあるまいか、こんな話を伝え聞いて、里人はこの滝を「奈多落としの滝」と呼び、滝を拝しては姫の冥福を祈っている。

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 道路端で見かけた別の看板には、「杣人が女滝の魅惑に鉈落とし」の句から「鉈落としの滝」と呼ぶ旨が書いてありました。

 さて、説明板に目を通したら滝に向かいましょう。この滝は2段落としになっていて、上を一の滝、下を二の滝と申します。夫々ルートが異なりますが、まずは奈多姫が落ちたという二の滝から紹介します。

 広場の隅に標識が立っています。ここから急傾斜の遊歩道を下っていきます。落石が多いので滑りやすいところがあります。できれば杖を持参するとよいでしょう。

 下の方まで来ると舗装が途切れます。転ばないように気を付けてなおも下り、倒木をよけて川原に下ります。

 渓谷に出ました。ここから小さく滝が見えます。転石に用心すれば、難なく滝の正面まで近寄ることができます。

 普段は水量が穏やかで、さらさらと2条の滝が落ちています。滝としての勢いは乏しいものの、周囲の岩と相俟ってなかなかよい景観であると感じました。しかもこの滝は裏見の滝になっています。

 さて、この二の滝のすぐ上が釜になっていて、一の滝も目と鼻の先です。でもここからは、一の滝は全く見えません。直接上がる道もありませんので、一旦説明板のところまで後戻ります。

 一の滝に行くには、説明板の右側から草付の林道を奥に進みます(車不可)。ほどなく草はなくなりますが、落石だらけで路肩の崩れた、荒れ果てた林道になります。少し歩けば、左下の方に二の滝が見えてきます。この辺りから二の滝の上を目指して急斜面を下って行けば釜の縁に下りることができます。かすかに踏み跡がありますがたいへんな急傾斜ですので、滑落には十分気を付ける必要があります。1人では行かない方がよさそうです。

 15年前に奈多落としの滝を見に来たときは一の滝への道が分からず、二の滝のみを見て帰りました。ですから一の滝を見たのは今回が初めてです。滝の高さは知れたものですけれども、なかなか気持ちのよい場所でした。ここから二の滝の落て口を覗き込むこともできます。奈多姫の二の舞にならないようにそそくさと急斜面を登り返しましたが、あまりの暑さに気が滅入りました。この滝を訪ねるには秋が最適です。

 

8 楢本磨崖仏

 奈多落としの滝から元来た道を後戻り、津房館の交叉点を左折して国道500号安心院方面に進みます。大字東恵良に入り「地獄極楽」の看板のある角を右折します。地獄極楽は写真が多くなるので次回に回して、先に楢本磨崖仏を紹介します。地獄極楽の手前で「楢本磨崖仏」の標識に従って左折、2車線の道路を道なりに行き、また標識に従って左折します。少し行けば道路端に説明板が立っています。路側帯が広くなっているので、邪魔にならないように駐車します。

 説明板の内容を転記します。

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県指定重要文化財 楢本磨崖仏

・室町期磨崖仏の特色を代表する史跡です(半肉彫り)。
・「応永三十五年戌申二月」の墨書銘があります(1428年)。
・右半分は後年の作と思われます。
密教の修法場として久しく栄えたことと想像されます。
・尊像は次のように並んでいます。ただし十二神将のみは順序が違うようです。

(左上段)
左から
那羅延金剛力士多聞天、比丘像、文殊菩薩・釈迦如来・不全菩薩、月光菩薩薬師如来日光菩薩、制吒迦童子不動明王矜羯羅童子密迹金剛力士

(左下段)
十二神将
※ちなみに十二将の尊名は次のようなものである。
宮毘羅(グビラ)、伐折羅(バキラ)、迷企羅(メキラ)、安底羅(アンテイラ)、額俑羅(ガニラ)、珊底羅(グビラ)、宮毘羅(サンテイラ)、因達羅(インダラ)、波夷羅(バイラ)、摩虎羅(マコラ)、真達羅(シンドラ)、招杜羅(ショウトラ)、毘羯羅(ビカラ)

(右半分)
左から
第一龕 磨崖宝篋印塔、地蔵菩薩不動明王多聞天
第二龕 尊名不詳像、勢至菩薩阿弥陀如来観音菩薩
第三龕 十王、大日如来金剛界)、地蔵菩薩
第四龕 脇侍十王、如来形十王、剃髪地蔵形十王
十王像、地蔵菩薩、十王坐像、比丘像

注意 仏像などの石面にさわったり、危険な場所に立ち入ることを固く禁止します。
宇佐市教育委員会

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 道路から短い階段を上れば正面の岩壁の一面に多数の仏様が彫られています。フェンスで仕切られているうえに諸像の彫りが浅く、傷みもひどいので確認は困難を極め、説明板の内容と照らし合わせてどの像が何々と特定することも難しい状況です。

 行きつ戻りつしながら写真を撮ったので並び順も分からなくなってしまいましたが、重複をさけて選んだ写真を順不同で掲載します。

 岩にひびが入って崩落しており、一部の像は断裂してしまっていました。目を凝らせばめいめいの像はかなり細かい彫りで表現されていることが分かります。

 上段のお不動さんは分かり易いと思います。上段左から制吒迦童子不動明王矜羯羅童子密迹金剛力士です。下段には十二神将がうっすらと確認できますが像容はおぼろげで、個々の特定は困難な状況でした。

 この辺りも上下二段に亙って数多くの像が彫られていますが、断裂が著しく、しかも蔦や地衣類の侵蝕により像の特定は困難を極めます。下段の像は僧形のものが目立ち、説明板とは食い違います。或いは、崩落した岩のうち像が確認できたものを安置しなおしたために並び順が変わってしまったのかもしれません。

 像の破損が著しく、痛ましい限りです。これだけたくさんの像を彫ることができるだけの、加工し易い岩壁であったことから、それだけ崩れやすいのでしょう。比較的厚肉彫りの像はことさらに傷みが目立ちます。

 このあたりは説明板でいうところの「右半分」の区域ですが、諸像が横並びというわけではなく、少しずつ段違いになっているのが風変りです。もともとの岩壁の凹凸をうまく生かして、たとえば三尊形式をとった箇所であれば脇侍が主尊に向き合うように上手に配置してあることに気付きました。それを優先したために、やや段違いになったのでしょう。

 この辺りは縦方向の断裂が目立ちます。もともとの石目もあるのでしょうが、仏像を彫る際の体の輪郭線に沿うて岩盤にひびが入った可能性もあるのではないでしょうか。

 説明板の「右半分」の箇所にて、第一から第四まで、龕があるように記載がありました。実物を拝見して、確かに龕をなしておりますけれども、平面の岩壁を彫り込んだというより、元々凹凸のあった岩壁の凹の部分をうまく生かして龕を造ったように見えます。龕の中の仏様は、やはり保存状態が良好です。また、岩壁の前にはたくさんの五輪塔が乱雑に並んでいます。おそらく地震その他で壊れたものを積み直したのでしょう、後家合わせであったり積み方が怪しいものも見受けられました。

 彫りの浅い像は崩落を免れていますが、地衣類の侵蝕と光線の加減により上手に撮影することができませんでした。うす曇りの日に実物をよく観察すれば、もう少し分かり易うございます。

 手前の石塔は灯籠です。火袋が壊れたのでしょう。元禄年間の銘がありました。五輪塔の笠には宝篋印塔の転用と思われるものも見受けられました。磨崖仏は崩落・断裂が著しい状態です。

 

今回は以上です。楢本磨崖仏については、記憶にあった以上に傷みが激しく残念に思いました。崩落や風化は致し方ないところもありますが、地衣類の侵蝕が深刻です。修復は困難かもしれませんが、現状維持のための何らかの手立てが望まれます。次回は地獄極楽か、または臼杵市の名所を少し紹介しようと思います。