大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上井田の名所めぐり その4(朝地町)

 今回は道の駅あさじ裏手に移設された中渡橋から始めて、大字市万田を少しめぐり、それから大字上尾塚にまいります。道順が飛び飛びになってしまいますから、もし実際に訪れる際には前回までに紹介した名所旧跡と組み合わせて、探訪コースを工夫してみてください。

 

14 中渡橋

 道の駅あさじの売店裏手に立派な石橋が移設されています。駐車場は表にしかないので、裏の出入り口から外に出る方は多くはなさそうです。買い物や食事休憩等で道の駅に立ち寄った際には、せっかくですから中渡橋も見学されてはと思います。

 環境整備の一環として、取り壊される予定になっていた橋をこの場所に移設したものです。朝地町には、緒方町のように観光名所として著名な橋(たとえば原尻橋、長瀬橋、鳴滝橋)はありませんけれども、いくつもの石造アーチ橋が残っています。その意味で、モニュメントとしてこの場所に保存したのは意義のあることでございます。しかも川に架かった状態であれば壁石や輪石を眼前に観察するのは困難を極めるのを常とするのに対して、こちらでは手で触れることもできます。石橋の構造を学ぶことができるほか、このような立派な構造物を重機のない時代にこしらえた労力や、昔の土木技術の粋の結晶を実感することができるのです。

 説明板の内容を転記します。

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町指定有形文化財 中渡橋

 平井地区と堀家地区は、平井川を挟んで南北に相対している。両地区の生活道と県道(現国道57号線)との接続は住民生活にとって重要であった。そこで堅牢な石造アーチ橋を架橋し、豊肥線朝地駅の開通によって高まった時勢の需要に対応した。
 近年河川改修工事のため取り壊しの危機にあったところ、道の駅周辺整備事業として移築保存の道が開けたため、難をのがれた。
 朝地町野近代的発展を支えてきたその功労は大きなものである。

朝地町教育委員会

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 一点補足しますと、文中の「現国道57号線」とは現在の「県道57号」のことです。

 すぐそばには立派な碑銘も移設されています。幸いにも碑面の状態が良好で容易に読み取ることができました。旧字・異体字を新字に、片仮名を平仮名に改め、句読点を補足したうえで内容を転記いたします。

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中渡橋道路記念碑

当路線は明治弐拾五年、平井・堀家両区が開鑿に係り、爾来村内枢要の道路たりしが、時勢の進運に鑑み石拱橋に改築及び道路改修の第一期計画を樹て、村費并びに人力敷地及び金員の寄附を仰ぎ、其の工費総額参千五百有余円を以て大正拾参年六月竣成したり。依て土地金員の寄附者及び大世話人を石に勤して永久に伝ふ。

勲四等 森 環撰

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15 戸崎の大師堂

 道の駅あさじから県道57号を大野町方面に行きます。大野町との境界付近まで道なりに進んで、「筑波クリニック」の前で鋭角に左折して旧道に入ります。市万田郵便局の手前を右折して、少し行くと右側に揚公民館がありますので、その駐車場に車を停めさせていただくとよいでしょう。公民館の少し先から、左に折り返すように急坂を上ります。ほどなく左にゲートボール場があって、その並びに堂様、坪にはたくさんの仏様や石幢が並んでいます。ここまで車で上がることもできますが、駐車できそうな場所が全く見当たらないうえに道幅も狭く、歩いて来た方がよいと思います。

 ゲートボールの練習に来られる方が日常的にお参りをされていると思われます。掃除が行き届き落ち葉一つ見当たりませんし、お花もあがり、立派にお祀りされていました。お不動様、お弘法様など種々おわしますが、いずれも個性的な像容が目を引きます。殊にお地蔵様の優しそうなお顔にはほのぼのとした雰囲気が感じられました。

 石幢は大野地方でよう見かける矩形のものです。どっしりとした造りが見事なもので、全体の比率もよう整うております。

 龕部は小さめに表現されています。諸像の彫りが浅いのと、光線の具合で写真では見えづらいのですが、実物を確認すればもっとよう分かります。笠の軒口に垂木にも注目してください。

 説明板の内容を転記します。

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戸崎の六地蔵

 後花園天皇の文安5年(1448)に造立されたもので、損傷の少ない立派な六地蔵塔である。塔は2段1枚石の大石、幢身、受石、地蔵尊を彫った龕部、露盤を作りつけた笠石、頂上の火焔宝珠という順に重ねてできていて、高さ約2mである。石材は通称目細石を使ってある。墨書で判読できるこの塔の奉献者達は、六道すなわち地獄道、餓鬼道、畜生道、人間道、天上界に変化自在に現れて衆生を救うという地蔵菩薩の尊像を彫り、現世の安穏や来世の極楽往生を心から願い祈ったものと思われる。この時代、この地方は地頭から在地領主へと移りつつあった一万田直政や家■などの活動した頃にあたる。

昭和52年3月 朝地町教育委員会

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16 市万田橋

 大師堂から車に戻って、先に進みます。一山越して大字市万田は町部落に入り、「↑朝倉文夫記念公園」「離合所200m」の標識のある角を左折します(左方向の案内なし)。道なりに左に折れて市万田川に沿うて少し進めば石橋が架かっています。

 ちょうど橋が見えやすいところに笹薮が茂っていて、この角度でしか写真を撮れませんでした。架橋当時は高欄がなかったのか、または拡幅のために元の高欄を壊して外に張り出す形でガードレールを設置したのか、判断がつきませんでした。この橋は今の交通量こそ知れたものですけれども、その竣工に至るまでの苦労などエピソードに事欠かきません。物的な価値のみならで、地域の生活史の観点からも重要な意味合いを持っています。橋を渡ったところには記念碑と説明板が立っていますので、見落とさないようにしてください。

 説明板の内容を転記します。

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市万田橋

 市万田「町」区内で、市万田橋に架かるこの石造アーチ橋は、大正14年3月に朝地駅の開業に伴う道路整備を目的として、不便であった区内の交通事情を解消する為に架設されたものである。
 橋長3.4m、幅員4m、高さ8.65mで、農村近代化の遺産であると同時に現在「町」区民の生活道路の要でもある。
 かたわらの記念碑は、架橋の事跡を後世に伝えている。

朝地町教育委員会

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 記念碑の状態が良好で、容易に読み取ることができました。ただし苔で読み取れなかった文字も数字あります。旧字・異体字を新字に、片仮名を平仮名に改め、句読点を補足したうえで内容を転記いたします。

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市万田橋碑

由来 当町区は市万田川の為め交通甚だ不便なるを以て、橋梁乃び道路の改修は多年の■■なりき。然るに鉄路村内を通ずるを見、躊躇する■秋に非ざるを覚え、茲に協議一決断乎として一大石拱橋を架設し前後の路線を改修し大正十四年の春竣工したり。此の経費総額六千有余円に達し、内二千円は村費の補助を仰ぎ壹千■百円は篤志家の寄附を以て之に充て、残額二千■百円は区民の負担として各自応分の醵出をなしたるも、尚ほ壹千数百円の不足を生じ、此の補填に苦衷を極めたるも区民終始一貫和衷協同斡旋努力の結果、遂に部落共有地を処分し以て之の竣成を見るに到れり。蓋し此の恩恵に浴する区域は狭小に非ざるなり。依て之の大業を石に勤して永遠に伝ふと云爾。

勲四等 森 環撰文

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 大正14年当時の自治体であった上井田村からは総工費の約3分の1しか賄えず、寄付金を募っても当時のお金で2000円余りは町部落の負担となったとは、隔世の感がございます。今の世の中であれば、こういった公共工事は全て税金で賄います。当時の住民の方々の苦心の結果、このように立派な橋が架かり、今でも活躍しています。ありがたく通行させていただきました。

 

○ 唱歌「朝地駅開通祝賀の歌」「朝地駅開通祝賀行進曲」

 中渡橋および市万田橋の項にて、朝地駅開通を契機として地域の道路整備の機運が高まったことがお分かりいただけたと思います。朝地駅開通式典で歌われたと思われる唱歌が2曲ありますので、ここに紹介します。

唱歌「朝地駅開通祝賀の歌」
〽時大正の十二年 師走の空に勇ましく
 汽笛の声を響かせて 汽車は通ぜり朝地駅
〽天恵多き大野郷 無尽の富を蔵したる
 宝庫の鍵を開くべき 時は来たれりいざ祝え
〽智を採り徳を培いて 清き自然の我が郷に
 文化の花を咲かすべき 時は来たれりいざ祝え
〽長き期待は満たされぬ 尽きぬ希望は輝きぬ
 覚めよ人々起てよ友 楽しき今日を歌いつつ

唱歌「朝地駅開通祝賀行進曲」
〽ああ嬉しいな汽車が来る 今日から朝地に汽車が来る
 花火が揚がる人が行く ああ嬉しいな嬉しいな
〽あれあれ汽車がやって来る トンネル抜けて田を越えて
 煙りを吐いて笛吹いて ああ嬉しいな嬉しいな
〽あれあれ汽車はもう着いた あんなにたくさん人乗せて
 あんなにきれいな旗立てて ああ嬉しいな嬉しいな
〽ああ嬉しいな今からは 遠足するのもあの汽車よ
 日本国中ひと走り ああ嬉しいな嬉しいな

 

17 早尾原の三界万霊塔

 今度は普光寺を目指します。どの道を通ってもよいのですが、今回は県道57号を西に向かい竹田市は岡本地区に入ります。岡本郵便局を過ぎて、「普光寺・用作公園」の大きな標識のある角を左折して上っていきます。このルートが道幅が広くて安全です。上り着いたところの三叉路を、普光寺の標識に従って右折して下っていきます。ほどなく早尾原(はやおばる)部落に入り、左に旧道が分かれる角に三界万霊塔が立っています。道路端なのですぐ分かります。

 ふつう三界万霊塔と申しますと文字のみが彫られているか、または文字の彫られた塔身の上に仏像が乗っている形式のものをよう見かけます。ところがこちらは舟形の碑面の上部に僧像を半肉彫りにしてある点が珍しく、しかもその像容がたいへん個性的でありますので特に心に残りました。

 お相撲さんの所作のように、左腕のみを左に大きく差し伸ばしているのが風変りではありませんか。どのような意図があるのか存じませんけれども、このような像ではあまり見かけない表現でございます。赤い彩色もよう残ります。今は道路がようなりましたので、普光寺にお参りに行かれる方もこの前を車でさっと通り過ぎてしまいます。ちょっと車を停めて、ぜひ三界万霊塔を見学し、手を合わせていただきたいと思います。

 

18 普光寺の馬頭観音

 三界万霊塔を過ぎて、新道の方を下っていきます。右に左に大きなカーブを繰り返して行きますと、道路左側のやや奥まったところに馬頭観音様がおわします。ゆっくり進めば車の中からでもその存在がわかると思います。路肩に寄せて駐車しても邪魔になりそうなので、一旦通り過ぎて普光寺の駐車場に車を置き、歩いて戻るとよいでしょう。距離は知れています。

 これは素晴らしい。さても写実的なる造形、微に入り細に入った丁寧な彫り、彩色の残る保存状態のよさ、どこをとっても完璧といえましょう。これほどまでに大型かつ完成度の高い馬頭観音様にはなかなかお目にかかることができません。かなりの厚肉彫りで仕上げてあることから、3面のお顔が横並びになることもなく、立体感をもって自然に収まっています。下部には花びら型の装飾がなされ、中央には「御馬 松風墓」の銘があります。この馬頭観音様は名のある馬の墓碑なのでしょうか?よう分かりませんでしたけれども、農村地帯である当地におきましては馬頭観音様の信仰たるや絶大であったことでしょう。

 側面から見ますと、ちょうど上部が前屈して、まるで庚申塔のようにも見えてまいります。あまりにも状態がよいので比較的近年の、具体的に申しますと昭和初期辺りの造立かなと思えば、なんと文化11年の銘がございます。よほどよい石材を用いたのでしょう。

 

19 普光寺道路端の庚申塔

 馬頭観音様を過ぎて普光寺部落の中ほど、普光寺の第一駐車場の近くに13基もの庚申塔がずらりと並んでいます。単に普光寺と申しますと部落名か寺名かの判断がつきにくいのと、実際にお寺の境内にも庚申塔が数基ありますので区別のために、項目名を「普光寺道路端の庚申塔」としました。 ※境内の庚申塔は次回紹介することにします。

 こんなにたくさん並んでいるので壮観です。お寺参りの方がひっきりなしに前を行き来しても、庚申塔に関心を払う方はごく僅かのようです。13基全てを紹介すると長くなるので、この中から数基を紹介します。

享保十六年
奉拝念庚申待■■■
十一月朔

 朔とはその月の1日のことです。

奉礼拝庚申待為■■■■

 碑面が荒れています。主たる銘は読み取り易いものの、造立年月日はちらほらとしか文字が見えなくなっていました。

寛文八戌申年
奉勤念庚申待一座為二世安穏
十一月廿五日

 この塔は特に状態が良好でした。大型の堂々たる姿で、しかも上部の梵字の彫りが見事なものです。「奉勤念庚申待一座」という表現は珍しいのではないでしょうか。庚申様のお座が多分に娯楽的なものになる以前のものでありましょう。

■保三■申
(脊損)命青面金剛
十■月十五

 この塔でおもしろいところは、その形状です。「青面金剛」の下部に小さな蓮の花を表現して、そのお花の下部に沿うて塔身にカーブをつけ、その下の竿のようなところにも何か彫ってあります。おそらく講員の方のお名前と思われますが判読困難でした。

寛永元■
奉拝念青面金剛
十一月廿四日

 こちらも梵字の表現が素晴らしい。下部にはたくさんの講員の方のお名前が彫られていますが、ちょうどその部分が傷んでいるのが惜しまれます。

 この場所の庚申塔は全部文字塔で、一見して地味です。けれども銘や形状がみんな異なり、一つひとつ見比べますといろいろな気付きがありました。できれば説明板があれば、お寺参りに遠方から来られた方も興味関心を持たれるでしょうし、めいめいのお住まいの地域の庚申塔を気にかけるきっかけになるかもしれません。

 

今回は以上です。次回は普光寺を紹介します。本当は一続きの記事としてまとめて掲載したかったのですが、あまりにも長くなりすぎるのでここで一旦切ることにしました。