大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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上井田の名所めぐり その1(朝地町)

 朝地町の名所旧跡の写真がある程度たまったので、シリーズとして書いてみようと思います。朝地町は上井田地区(旧上井田村)と西大野地区(旧西大野村)に大別されます。このシリーズでは上井田地区の名所旧跡を紹介します。

 さて、上井田地区は大字朝地・板井迫・坪泉・池田・市万田・上尾塚・下野・志賀・宮生(みやお)からなります。特に有名な観光地としては普光寺磨崖仏と用作(ゆうじゃく)公園、朝倉文夫記念館があげられましょう。このほかにも名所旧跡・文化財がすこぶる多いものの、起伏に富んだ地形で道が入り組んでおりますので要領よう巡るのはなかなか難しいものです。それで、ひとまず2回に亙って大字池田の名所旧跡に絞って紹介します。大字池田の中でもまだ行ったことのない場所がたくさんあります。ですから道順が飛び飛びになってしまいますけれども、写真のある分を先に掲載して残りはまたいつかということにします。

 

1 池水神社

 神角寺(じんかくじ)渓谷から国道442号を朝地市街地へと下っていきます。鏡石バス停のところを左折して県道657号経由で池田に向かいますが、この道は入口に「幅員狭小 すれ違い困難」の注意標識があるとおり、通行に注意を要します。普通車までなら通れますが、運転に不安があれば別の道から迂回しましょう。山道をくねくねと下って、谷筋が開けたら道路右側に池水神社が鎮座しています(冒頭の写真)。

 車は、路肩ぎりぎりに寄せれば鳥居の前どうにか1台は停められます。池水部落の、村の神社でありましょう。人口の減少が著しい中で、境内の環境がきちんと維持されシメもかかっています。境内から、辺りの田んぼを見晴らすことができます。通りがかりにでもお参りをされてはいかがでしょうか。

 

2 池水の石仏

 神社にお参りをしたら、車を置いたまま車道を歩いて進みます。ほどなく、道路右側に仏様が数体並んでいます。

 野晒しの仏様が2体、石祠の中の仏様が2体です。物言わず佇む仏様は、長い間ずっと池水の里を見守り、交通安全を見守ってくださっています。車で通れば気付かないかもしれませんが、いずれも個性的な像容でありますからお参りがてら見学されるとよいでしょう。

 舟形の上部の破損が目立ちますけれども、仏様の状態は良好です。赤い彩色がよう残ります。合掌した腕のカーブや、腕にちょいとひっかけた衣紋の表現、蓮華坐等に注目してください。失礼ながらあまり整うた造形とは言い難いものの、この素朴かつ個性的な表現に、昔の方の素朴な信仰心が表れているような気がいたします。

 右の仏様は3面で、焔髪がその3つのお顔すべてにかかるような表現になっているのがずいぶん風変りでございます。全体が浅いレリーフ状の彫りにて、3つのお顔が横並びになるような表現になっています。それがために焔髪も横に広がっているのです。写真では分かりにくいと思いますが保存状態は頗る良好です。これとよう似た仏様を、栗栖(くりす)部落の路傍でも見つけました(西大野のシリーズでいずれ紹介します)。或いは、札所巡りの仏様ではなかろうかとも思いましたが、台座に番号が彫られているわけではありません。

 

3 宝曼寺

 路傍の仏様の裏手、石垣の上が宝曼寺です。こちらは「大野川流域不動尊霊場」の第八番札所になっています。神角寺、石源寺石仏、今山磨崖仏など、この霊場の札所巡りをされるのも楽しいし、きっとお蔭があると思います。

 道路からこの参道を上がります。車を停められないので、池水神社のところから歩いて来るとよいでしょう。

 ご覧のとおり無住になって久しいようで今は堂様の様相を呈しておりますが、境内の広さから推して、昔はそれなりの規模のお寺であったと思われます。当日は施錠されておりましたので、外からお参りをしました。

 馬頭観音様、大日様、十一面観音様は堂宇左側の小坪に安置されています。つつじの裏に大日様のお顔が見えています。花の時季は特によいでしょう。

 大日様はなかなかの大型でありまして、よう目立ちます。訪ねた時季が悪く、草に埋もれがちになっていました。優しそうなお顔立ちのなんとありがたいことでしょうか。

 馬頭観音様も、小ぶりながらも見事な彫りです。3面で、めいめいの御髪より馬の頭が現れています。指や持ち物の微に入り細に入った細やかな彫り、衣紋などの表現など、何から何まで素晴らしいではありませんか。国東半島や速見方面で見かける馬頭観音様は一列に馬にまたがっているものを、こちらは蓮華坐に坐っているのが珍しく感じました。これは地域性によるものなのか、偶々このような特徴があるだけなのか、判断に迷います。大野地方の探訪を重ねれば、自ずと分かってくるかもしれません。

 

4 白石の丁石

 車に乗って道なりに行き、突き当りを左折します。相変わらず見通しの悪い細道をくねくねと登っていきますと、白石部落のかかりにて道路左側に丁石が立っているのを見つけました。

 仏様が浅く彫られ、その下には「三十六丁」と彫ってあります。一見して、大分市霊山寺(りょうぜんじ)に上がる車道沿いに点々と並ぶ丁石を思い出しました。こちらはきっと、神角寺まで36丁の意でありましょう。36丁は丁度1里、約4kmです。「一里」ではなく「三十六丁」としたのは、1丁おきに石を置いた関係で「○丁」の表現に揃えたものと思われます。単独で置いたのであれば「一里」としたのではないでしょうか。この100mあまり先には「三十五丁」の石は見当たりませんでしたので、全部が残っているわけではなさそうです。

 余談ながら平成に入ってもなお、明治生まれのお年寄りが「○里」とか「○丁」と言うのをときどき耳にしたものですが、今ではこれらも死語になってしまいました。

 

5 サヤノ木の石造物

 丁石を過ぎてほどなく新道の下をくぐり、すぐ左折してその新道に上がって道なりに進みます。この道が完成すれば国道442号に接続するものと思われますが、工事は長い間止まっているようです。1つ目の交叉点(信号機無し)を左折して坂道を上っていくと、左側に公民館があります。その駐車場に車を置きます。すぐ下から参道が伸びており、標柱が立っているのですぐ分かります。

 道路端に立つこの標柱を目印に参道に入ります。道なりに行けば東屋や廃ブランコのる狭い公園のような場所に出ます。そのまま奥の木森の方に行くと宝篋印塔が見えてきます。そう遠くないのですぐ分かると思います。

 宝篋印塔や宝塔、五輪塔が数基立っており、壊れた部材が地面に転がっています。その向こう側には古いめいめい墓が並んでいました。説明板の内容を記します(より分かり易いように一部改変しました)。

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サヤノキの宝塔

 宝塔は、仏塔を尊んでいう敬称である。塔に記銘のあるものは、中世鎌倉期にあらわれ各地に建てられたが、この塔もその一つである。

 応永二一年 三月一六日 □□守行□

 傍の宝篋印塔がこの塔と同時に追善供養の為に建てられていることから推して、丹後守行次という武士と僧の沙弥善金とが、物故した縁者の墓標として造立したものと考えられる。
朝地町教育委員会

※応永21年=1414年

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 なんと600年以上も前の造立です。説明板のすぐ横に立つ宝塔が、指定を受けているものです。残念ながら笠が落ち、塔身も大きく破損しています(写真では見えない側が大きく割れてしまっていて笠を元通りに乗せることは不可能)。

 宝塔にくらべて宝篋印塔は比較的状態が良好です。相輪の破損は惜しまれますが、塔身の梵字は思いの外くっきりと残っています。笠の造形がおもしろく、国東半島で見かけるものは隅飾りの上部も小さな段々をこしらえて徐々にすぼまっていくような造りになっているのに対して、こちらは上部がたったの3段ですしかも直角に面をとらずにピラミッドのような造りになっているのがおもしろいではありませんか。その真ん中の段には連子模様を刻んでおり、なかなか凝っています。

 反対側から見ると、隅飾りが1ヶ所のみよう残り、唐草模様のような装飾が彫られていることがわかりました。もし傷みのない完璧な状態であったなら、さぞや壮麗な印象の塔であったことでしょう。

 お塔を見学して車に戻る道中で、見事な枝ぶりの木を何本も見ました。自然豊かな立地ですから、マムシやダニ等の被害の懸念される時季は避けた方がよいでしょう。

 

 今回は以上です。次回も大字池田の名所旧跡の続きで、このシリーズの目玉である田村の磨崖仏を紹介する予定です。