大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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城山公園の石造文化財 その1(杵築市)

 このシリーズでは、城山公園周辺に移された石造文化財を紹介します。たくさんの文化財が公園およびその周辺に密集していますので多種多様な文化財を簡単に見学することができ、興味関心のある方にはうってつけの場所です。なお、城山公園周辺は杵築地区にあたりますが、文化財は市内各地区より寄せられていますので、杵築地区のシリーズではなく別のシリーズ扱いとすることにしました。

 

○ 石造文化財の移設に関して思うこと

 城山公園周辺に移された石造文化財は、地域の方によるお世話・管理が困難になっていた事例も多かったように思いますが、全てがそうではないようです。たとえば北村地蔵の石仏や馬場尾の善神王様の庚申塔群などのうち、一部をこちらに移してあるといった事例があります。これらはお世話・管理困難というよりは、城山公園の一角に石造文化財を集めることになったとき、その意図を汲んで寄贈されたということでしょう。

 この地に寄せられた石造物のほとんどが、本来は信仰を伴うものです。ところが元の所在地から離れた場所に移設されたことで信仰が途絶え、ただの「展示物」と化している現状を見ますと、本当にこれでよかったのかなと思うのが正直なところです。もちろん、城山公園に移されたことで適切な維持管理がなされ、破損や所在不明を防ぐことができているという側面もあります。草に埋もれたりして粗末になることもありません。また、観光客の方に杵築市の多様な石造文化財を発信することもできるでしょう。移設に携わった当時の方々がよかれと思うてなさったことですし、単に観光目的の展示ではなく保存・維持が主目的であったはずですから、頭ごなしに否定するつもりはありません。

 しかしながら、同一市内とはいえこういった文化財を元のコミュニティから離れた場所に移設しますと、文化や歴史の捉え方が広域化し、狭義の郷土史・郷土文化がややもすると等閑視されてくるような気がするのです。やはりこういったものは、可能であれば元の場所にてお世話・管理をするのが最良ですが、地域社会・生活様式の変容により移設当時よりもなお、それが困難になっています。耕地整理や道路工事の影響もあるでしょう。ですから今後も、物理的にどうしても移さざるを得ないとかお世話・管理が難しくなった等の事例が生じてくるとは思いますが、折衷案として、部落内かせめて小学校区内の公民館や堂様、神社、お寺などに移すのがよいのではないでしょうか。

 

1 新庄の水路溝と唐戸

 城山公園の区画外ではありますが、旧市立図書館横(御殿の庭そば)に展示されていいる古い水路溝と唐戸を便宜上、このシリーズで紹介します。旧図書館の1階は民俗資料館になっていたので、その関係でこちらに移されたのでしょう。これは東新庄(八坂地区)の水路で使用されていたものです。

 説明板の内容を転記します。

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水路溝と水門

 この石造物は、農業用暗渠排水路の一部(全長約5m)とこれに接続する水門(唐戸)です。江戸時代の後期、杵築藩主の命により穀倉地の排水をよくし海水が浸入しないように、八坂川下流の河口(身投石の近く)に設置していたものです。
 近年まで新庄区の方々が利用していましたが、改修により民俗資料として寄贈されたものです。

昭和55年3月10日 杵築市教育委員会

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 この種の構造物は地域の灌漑の歴史、ひいては生活史の一端として貴重なものでありますが、語弊を懼れずに言えば「ありふれたもの」でしたから、どこの地域でも改修工事に際して打ち毀されることがほとんどであったと思います。それを民俗資料として残してあるのは意義深いことです。

 新庄から広瀬にかけての八坂川べりの水田地帯は、昔は畦の曲がりくねった小さい田んぼが連なっていたものを、耕地整理により広い田んぼばかりになり、八坂川の改修と道路改良によりますます立派になりました。今は集団営農に取り組み成果を上げており、市内随一の穀倉地帯の感があります。

 

 ここから、城山公園内の石造物群が続きます。順路に沿うと繁雑になるので、関連性のあるものをひとまとめにして、だいたい地域別になるような順番で紹介します。

2 阿弥陀寺の宝篋印塔

 阿弥陀寺というお寺は現存しませんが、大字八坂は熊丸と野添の境界あたりに阿弥陀寺というシコナ(通称地名)があり、当地にある阿弥陀堂阿弥陀寺跡地に比定されています。阿弥陀堂は地域の方の信仰が篤く、新四国ならびに新西国の拠点でもあります。詳細はリンク先の2番で紹介しています。

 このお塔は残念ながら相輪が半ばで折れています。ほかは、経年の風化摩滅は致し方ありませんがそれなりに良好な状態にて、格狭間もようわかります。笠と露盤とが対になっているのが特徴で、これと同様の造りの宝篋印塔が穴井の地蔵様のところに残っています。室町時代の作とのことです。

 

3 下野田 八坂家の石塔群

 この石塔群は元市長である八坂善一郎氏の寄贈です。八坂市長の時代に城山公園が整備され、模擬天守が建造されました。

 この灯籠は、神社のそれとは明らかに形状が異なります。お庭に設置してあったものでしょう。火袋から上が五輪塔にそっくりです。これは推測ですが、五輪塔の水輪に孔をほいで火袋となし、角柱に乗せて灯籠に仕立てかえたものかもしれません。説明板によれば鎌倉期のものとのことです。

 5基の五輪塔のうち、この写真の左から2番目のものは、下が明らかに灯籠ないし石幢の基壇であり、後家合わせです。その隣の灯籠も後家合わせで、なんと竿の部分は四面仏を浮彫りにしてあります。これは国東塔ないし宝塔の塔身ではないでしょうか。

 

4 中村 加藤家譜代百姓の墓地の一字一石塔

 大字中は中村の墓地にあった一字一石塔です。

大乗妙典

 右が一字一石塔ですが、一見してそれと分かる形状ではありません。薄肉彫りの坐像は簡略的な表現ながら、そのお顔の表情はよう分かります。俗人像のようなお顔つきで、もしかしたら仏様ではないのかもしれません。その左側に像の輪郭線に沿うように「大乗妙典」と彫ってあり、「一字一石」の銘や紀年銘は私には分かりませんでした。このような形状の一字一石塔は珍しく、貴重です。

 左は坐像と思われます。しかしながら簡略化が著しく、お顔の表情も読み取れませんで詳細は分かりません。

 

5 中ノ原の庚申塔・ロ

 中ノ原の辻に立っていた庚申塔で、道標をも兼ねるものです。中ノ原には別の庚申塔も残っていますので、区別のためにこちらにはロと付記します。

  右 八さか
庚申
  左 きつき

 道標を兼ねた庚申塔は、国東半島はおろか大分県下一円を見てもたいへん珍しいものです。これは波多方峠を越えて杵築に入ってきた人のための道標です。石生谷から中ノ原の台地に上がりますと、馬場尾経由で杵築城下に下る道と中平経由で八坂に下る道とが分岐していました。その辻に立っていたようです。今はみかん山の開拓や工場の進出により中ノ原もずいぶん開けましたが、昔は人家もほとんどない寂しいところであったようです。尋ねる人が見当たらないときにも道が分かるように設置されたのでしょう。

 思うに、庚申講による造立というよりは、道標としての造立が主たる目的であって、道祖神・道中の安全の霊験を庚申様に願うて上に「庚申」と彫ったのではないでしょうか。そうであれば、一般的な庚申様としての祭祀(座元に集まって夜通し行うお祭り)は元から行われていなかった可能性もあります。

 

6 岩谷 一宮家の石塔群

 旧岩屋村(当時はこの用字でした)の庄屋であった一宮家より寄贈された石塔群です。大字岩谷は尾迫、岩谷、川平、高平、筒木(うつろぎ)に分かれていますが、項目名の「岩谷」は部落名ではなく大字名です。

大乗妙典一字一石 ※乗は異体字

 説明板によれば天明6年の造立とのことです。240年近くも前のものとは思えない状態のよさですし、大きくてほんに立派なお塔でございます。銘のバランスがよいし、その区画の枠取りも丁寧でよいと思います。

 ところで、一字一石塔というものはさてもありがたいものです。造立当時の方の真に迫った祈願、よほどの信仰心が感じられます。お塔を移設する際に、下に埋めた小石をどうしたのかが気になっています。元の場所に残してあるのでしょうか、それとも小石も移したのでしょうか。

 説明板には「五輪塔 五基」とありますが、左から2番目は五輪塔ではありません。宝篋印塔ないし矩形の宝塔の部材の後家合わせで、宝珠を欠損し五輪塔の部材ですげ替えてあります。塔身には梵字の痕跡を残します。

 右から2番目は火輪以下が一石造になっており、水輪が扁平です。古式の面影を感じました。右端は上部が国東塔の相輪になっています。或いは、これが本来は左から2番目の塔と組になっていたのかもしれません。

 

7 庚申塔(元の所在地不明)

 城山公園に集められた石造物のうち、唯一元の所在地が分からないものです。『杵築市誌資料編』を確認しても、やはり元の所在地は「不明」とありました。

庚申尊

 下部が枯葉に埋もれており「尊」の字が見えませんでしたが、『杵築市誌資料編』により分かりました。紀年銘はありませんけれども、同著によれば昭和末期の造立とのことです。どうして元の所在地が分からないのでしょうか。もしかしたら、個人でお祀りしていたものなのかもしれません。その方が匿名希望であった等の事情も考えられます。

 

8 耳取鼻の道路開設記念碑

 いま、杵築から安岐町両子方面に行くには県道成仏杵築線経由が近道です。すなわち鴨川から岩谷経由で城ヶ谷峠を越す道ですが、県道開通以前の旧往還(両子道)は、五田から菅尾に上がり道標(リンク先の5番参照)のある二股を左にとり三光坊(みこぼ)に向かい、「耳取鼻」の急坂を経由して高平に抜けていました。まだ現地には行ったことがないのですが、一部が残っているようです。この耳取鼻経由の道の改良記念碑が城山公園に移されています。

 余談ですが、耳取鼻はあまりに険なれば車輛交通は無理で、県道は耳取鼻経由ではなく高山川べりに開通しました。この県道も紆余曲折がありまして、昔は東山神社のところを通ってずっと右岸に沿うて進み(右に川を見て上る)、川平から岩谷に上る道が県道であったそうです。

 『杵築市誌』によりますと、耳取鼻の道には長さ20mに渡って5mの高さの石垣が築かれており、道の崖側にはほぼ1間おきに石が並べてあるそうです。この難所の道を改良したのが安政4年のことで、説明板には「開設記念」とありますがそれ以前にも道自体はありました。郡奉行であった三浦安之が、谷町にあった大店油屋の寄附金により関係5か村に延べ1,700人の出夫と命じ、より安全な道に改修したとのことです。

 

9 北村地蔵の石仏群

 大字鴨川のうち、荒平(大字溝井)に接する小部落を北村と申します。北村から上ノ原に上がる道の途中に北村地蔵という霊場がありまして、そこには小規模の磨崖仏とたくさんのお地蔵様(石仏)がお祀りされています(詳細はリンク先の4番参照)。その霊場のお地蔵様の一部が城山公園に移されています。

 説明板には「鴨川磨崖仏下の石仏群」とあるのですが、この「鴨川磨崖仏」とは北村地蔵の磨崖仏のことです。こちらは、残念ながら草に埋もれがちで粗末になっています。きちんとお世話をすることが難しいのであれば、元の場所(北村地蔵)にお返ししてはいかがでしょうか。見学時、とても悲しい気持ちになりました。状況が改善されていることを願うばかりです。

 

今回は以上です。しばらく、この続きを書いていきます。

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