大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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長谷川の名所めぐり その1(緒方町)

 このシリーズでは緒方町のうち長谷川地区の名所を紹介します。長谷川地区は大野地方の中でも奥の奥を極めるの感がございます。あまりに道が遠いためまだ数回しか訪れたことがありません。そのため十分な内容の記事は書けませんが、ひとまず2回分の記事にする程度の写真がたまったので、シリーズとして書いてみることにします。

 さて、長谷川地区は大字小原(おはる)・栗生(くりう)・滞迫(たいざこ)・上畑(うわはた)・尾平鉱山(おびらこうざん)からなります。特に滞迫や上畑あたりに来ますと文字通り山また山、深山幽谷大自然です。もはや、この辺り一面すべてが自然景勝地なのです。その中に点在する小部落ごとに神社や堂様、庚申塔や熊の墓、石幢、お弘法様などたくさんの名所旧跡がございます。曲がりくねった隘路の運転に往生しますが、わたしの大好きな地域です。

 

1 健男社

 長谷川地区の名所旧跡として何はおいても健男社から始めたかったので、冒頭に持ってきました。原尻の滝から、県道7号を延々と上っていきます。上緒方地区を過ぎて、大字小原を過ぎて、やっと大字上畑に入ります。大字上畑には、シモから大村・中村・土岩、それと奥嶽川対岸の九折(つづら)などの土居があります。このうち大村と中村は、道路上にヘリポートがあります。あまりに市街地から離れているうえに道が険しくて救急車の対応が間に合わないので、もしものときはヘリコプターで搬送するのでしょう。また、災害で道路が途絶したときに備えての意味合いもあるのかもしれません。中村のヘリポートを過ぎて少し行けば、道路端に鳥居が立っています(冒頭の写真)。この右の車道をあがれば車で境内に乗り着けることもできます。でも、この神社は特に参道の杉並木が素晴らしいので、歩いた方がよいでしょう。鳥居の前に駐車場があります。

 説明板の内容を転記します。

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健男霜凝日子麓社(通称健男社)

祭神
 健男霜凝日子神、豊玉姫命彦五瀬命

御神徳
 風雨霜雪等天候を司り、特に風除の神として霊験著名なり。

由緒
 西暦512年、第27代継体天皇の時代に、大野郡上畑村黒嶽に祖母嶽の神が御降臨なされたことを知った奥嶽の宿祢は、この地に社廟を建て神主となって以来祭式を厳重に執り行った。その後、応永8年(西暦1401年)、奥嶽兵衛四郎入道道鉄によって上畑村黒嶽の麓に遷座され、社が創建される。黒嶽の麓であることから、それにちなんで健男霜凝日子麓社と名付けられたと云われている(神社庁大鑑による)。

社格
 明治6年郷社に列せられる。

祭日
 大正3年幣帛指定神社となり、祭日には供進使が大野郡役所より参向することとなった。当時からの例祭は、春季4月20日、秋季12月14日であり、現在でも当日祭典が執り行われている。

祭礼
 寛文7年(西暦1667年)7月20日、小原村踊場に御幸祭典をしたのが始まりで、その後、毎年旧暦の8月14日・15日の2日間に亘って御神幸祭を執行してきたが、昭和37年より過疎化の影響等もあって1年おきに9月15日に行っている。

宝物
 人鞍、銭太鼓(江戸時代中期製作のもの)

参道及び天然記念物
 延長251mの参道は278の石段と12の平石段からなり、両側には幹の回りが4mから5mもある杉の巨木が道並木となってそびえ、昼なお暗く、神殿の背後はモミの大木が森をなし、神社の尊厳を保っている。いずれも300~400年の風雪に耐えた古木であり、県下でも数少ない神社の森おなっていることから、昭和52年3月、県指定の天然記念物ともなっている。

昭和61年10月吉日建立
神職 小倉勇士郎
総代長 宗文衛
総代(会計) 荒巻一人
総代 高山憲義
総代 伊東千代喜
総代 山村竹茂
元宮宮守 工藤松美
下宮宮守 伊東一彦

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 手入れが行き届いた参道に沿うて、説明板にあるとおり幹周りが4mは下らない杉並木が続いています。これは素晴らしい。直入町は籾山八幡様の杉並木と双璧であると存じます。

 写真でも杉の大きさが十分伝わると思いますが、現地を訪れて実際に参道を歩いてみますと、圧倒される大きさです。参道に足を踏み入れたとたんに、神聖な雰囲気に満ち満ちています。原尻の滝からずいぶん遠いので、一般の観光客がここまで足を伸ばすことは滅多にないようです。でも、緒方町を訪れる際にはぜひ参拝をお勧めいたします。

 長い長い参道を頑張って上りついて、拝殿に着きますとほっといたします。この山の中でも、境内はいつも清掃が行き届いています。20年前にはじめて参拝した際にはこの後ろがもっと生い茂って、全体的に鬱蒼としていました。ところが昨年、久しぶりに参拝したところ枝を下ろして、境内がずいぶん明るくなっていました。

 長谷川婦人会の寄進による鈴緒が鮮やかです。長谷川婦人会と申しますのは、おそらく各部落の婦人会をまとめた、長谷川地区全体の組織でしょう。学校の机を利用した記帳台も印象に残りました。

 さても風変りな形状のお手水です。大黒様をみたような坐像が水受けになっています。その後ろには不気味な生き物…竜でしょうか。とても変わっていて、おもしろうございます。

 

2 尾平越沿道の景観

 上畑から県道7号を延々と南下して尾平越のトンネルを抜けたら宮崎県は高千穂町に入ります。さらに道なりに行き高千穂の天岩戸神社を目指すこともできます。傾山と祖母山の大自然の山越道にて素晴らしい自然景観を楽しむことができますし、宮崎県に入ってからも沿道の名所旧跡に事欠きません。ですから「緒方町高千穂町(宿泊)→高森町→竹田市」のような周遊ルートを設定することもできます。

 健男社を過ぎて少し行くと上畑小学校の跡地があります(昭和41年に長谷川小学校に統合)。ここからしばらく、人家が途切れます。この辺りの地域の山深さを感じずにはいられませんし、もはやこれより奥に家はないのではと思えてきた頃、土岩部落に入ります。かつて10軒ほどあったそうですが、今では2軒程度しか残っていないようです。この立地にあっては少子高齢化・過疎化の波がかなり早い段階で押し寄せたことは容易に推察されます。これは、けっして他人事ではありません。県内のあちこちに、近い将来住む人がいなくなるのでは?と思われる小部落があります。ともすると過疎地を「都市部のお荷物」のようにとらえるような言説を見聞きしますけれども、このような物言いには強く抗議したい気持ちでいっぱいです。不便を託っても、軒数が少なくなっても、その地域を守ってこられた住民の方々は立派だと私は思います。

 さて、土岩のはずれで道なりに橋を渡り、奥嶽側の右岸に移ります。ここから大字尾平鉱山に入ります。このあたりまで来ますと、沿道の景観はまさに千変万化の感があります。特に渓流の景観は見事なものですから、少し車をとめて、橋の上や、川原に下りられる小道から景色を楽しむことをお勧めします。

 この水の青さをご覧ください。川底の小石の一つひとつまで分かる透明度です。しかもこの辺りでは峡が狭まりて、玉藻砕ける荒瀬と藍を湛えの渕との対比が見事なものです。

 さきほどの写真とはうって変わって、大岩の連なる中をどんどどんどと流れています。こんな景色を道路端から簡単に楽しむことができます。下尾平部落の上り口を過ぎてもう一度橋を渡ればいよいよ勾配を増し、木森を抜けると旅館「もみ志や」、さらに上れば宿泊施設「LAMP豊後大野」があります。後者は尾平小学校の建物を改装して利用しています(旧「ほしこがinn尾平」の建物)。大字尾平鉱山は、今では1軒ないし2軒程度しか定住者のない土地ですけれども、登山のハイシーズンになりますとたくさんの方が訪れます。今や鉱山街の賑わいは夢のまた夢ですけれども、自然探勝をみなさんにお勧めしたい名所中の名所です。

 尾平鉱山跡地への入口を過ぎますといよいよ山岳道路の様相を呈してまいります。積雪の時季には交通困難です。標高が高いので、春の出水のあとに寒が戻りますと道路端に写真のような氷柱がたくさん見られることもあります。このような景観は大分県内では稀であると存じます。

 すばらしい自然美です。蛇足になりますが、もし尾平越経由で緒方町から高千穂町へとドライブされる場合に気を付けていただきたいことがありますから、数点申し添えておきます。

・道中がものすごく長く、曲がりくねった山道の運転で疲れます。休憩がてら途中々々の名所旧跡に寄りながら行くとよいと思いますが、時間がかかります。必ず明るいうちに里に下りられる時間帯にしましょう。
・携帯電話の電波が届かないところがあります。
・全線の舗装工事が完了しましたが、稀に災害で道路が壊れて尾平越が通行止めになることがあります。必ず事前に道路情報を確認してください。
・道中にはガソリンスタンドが全くありません。

 

○ 尾平山村と尾平鉱山について

 現在の大字尾平鉱山明治22年に長谷川村の発足を契機とした呼称のようで、それ以前は尾平山村と呼ばれていました。江戸時代に岡藩直轄の鉱山として発足した尾平鉱山は錫を産出し、一時は寛永通宝の鋳造所も置かれるなどの賑わいを見せました。

 明治・大正の頃は下火になりましたものを、昭和10年より三菱が参入し、戦後しばらくまでは大発展、元の尾平山村が「不夜城」と言われるまでに賑おうたそうです。もみ志や旅館の近くから背戸を上がったところなど、何ヶ所かに元鉱山街であったと思われる場所があります。斜面に段々をこしらえて狭い通路が縦横に通っていますが、今は植林が進み往時の賑わいを想像することは難しい状況です。以前は廃屋が何軒か残っていましたがおそらく、朽ちたりして数が減っていることでしょう。

 昭和10年代から20年代にかけて、最盛期には鉱山街に3000人近い人口がありました。長屋が立ち並び、小中学校、病院、飲食店、カフエ、映画館、ダンスホール、テニスコートなどを備えた市街が形成されていました。あの山の中に!しかも映画は県内でどこよりも早く、大分よりも別府よりも早く新作が封切られていたといいます。尾平鉱山は緒方や竹田方面はもとより、関西、関東方面から働きに来ていた人も多かったそうです。それで、住民の融和を図るためにいろいろなレクリエーションが企画されました。夏には盆踊り大会もありましたが地元の人ばかりではないので、緒方町で昔から踊っている盆口説の踊りではなく「別府音頭」「東京音頭」などの流行踊りを踊っておりましたところ、ぜひ尾平鉱山の唄・踊りをということで作られたのが「尾平鉱山音頭」です。

新民謡「尾平鉱山音頭」
〽ハー 尾平よいとこ錫どころ 祖母の御山が霞に浮いてヨ
 赤いつつじのチョイト裾模様 さあさ踊ろよ ハー鉱山音頭をヨ
 ドントコラサノ ドントヨイヨイ ドントコラサノ きれいな鉱山よ
〽ハー 尾平よいとこ錫どころ 奥嶽しぶきにしっぽり濡れて
 通う銀バス夕日に映える さあさ踊ろよ ハー鉱山音頭をヨ
 ドントコラサノ ドントヨイヨイ ドントコラサノ きれいな鉱山よ
〽ハー 尾平よいとこ錫どころ 鉱車の音さえリズムに乗って
 山は紅葉のチョイト唐錦 さあさ踊ろよ ハー鉱山音頭をヨ
 ドントコラサノ ドントヨイヨイ ドントコラサノ きれいな鉱山よ
〽ハー 尾平よいとこ錫どころ 日がな一日吹雪で暮れりゃ
 暖炉囲んでチョイト笑い声 さあさ踊ろよ ハー鉱山音頭をヨ
 ドントコラサノ ドントヨイヨイ ドントコラサノ きれいな鉱山よ

 繁栄を極めた尾平鉱山も昭和34年には完全に閉山され、働きに来ていた人達もちりぢりに山を下りました。尾平鉱山と九折鉱山の鉱毒により奥嶽川は濁り、川魚は1匹もいなくなり、流域の水田ではカドミウム汚染が報告され地域に暗い影を落とした経緯もあります。土壌を反転させる大工事の末お米のカドミウム問題は解消されたほか、それぞれの鉱山跡では永久的に鉱毒処理が行われており、今は川の水も透き通っています。

 

3 栗林の石幢

 今度は健男社から上緒方方面へと下っていきます。中村には石幢、中村と大村の境界には地神塔が道路端に立っているほか、少し脇道を上がれば大村の観音堂にも石幢があります。ほかにもいろいろな石造物がありますが写真がないので省きます。道なりに下って谷筋を巻き、少し上れば大字小原は栗林部落に入ります。お弘法様の近く、道路右側に石幢が立っています。

 残念ながら宝珠が失われ、その部分に松が根付いています。偶然の産物とは思いますが、珍しいこともあったものです。笠も幢身も、すべてが矩形をなすタイプの石幢で、大野地方で広く見られる形状です。全体的に傷みが進んでいます。笠の、この写真では裏側になっているところを大きく打ち欠いているほか、中台も破損が顕著です。龕部のお地蔵様も風化摩滅が目立ちました。おそらく倒壊したことがあるのでしょう。

 

4 滞迫峡

 滞迫峡こそは、緒方町きっての自然景勝地であると確信いたします。大迫力の自然美は、決して高千穂峡にも引けを取りません。市街地から離れているうえに道が狭いこともあってか遊覧者は疎らですが、その分、大自然を思う存分楽しむことができます。夏の水遊びの楽しさは言うまでもありませんが、もっともお勧めしたいのは紅葉の時季です。

 栗林部落を抜けて、谷筋に沿うて道なりに下っていきます。右急カーブの手前、「→滞迫」の青看板を目印に鋭角に右折します。上からだと切り返さなければ曲がり切れないので、実際に訪れるには反対ルートからの方が行きやすいと思います。普通車がぎりぎりの狭い道を下っていけば、左側に立派な駐車場が整備されています。駐車場には桜が植わっていますので、お花見もできます。なお、この道は奥嶽橋(後述)が架かるまでは下滞迫・上滞迫への主要な道でした。その途中にかかっている犬返橋(石造アーチ)は、またの機会に紹介します。

 いつ訪れても、水の透明度にため息が出ます。ちょうどこの辺りは流れが穏やかなので水鏡の体にて、紅葉の時季など特によいものです。駐車場に整備された説明板の内容を転記します。

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滞迫峡

○自然林に育まれた清流と渓谷
 滞迫峡は、大野川支流奥嶽川にある渓谷です。約9万年前に阿蘇火山が4回目の大噴火を起こし、滞迫の谷間は火砕流で埋め尽くされました。火砕流は冷えて、熔結凝灰岩になりました。9万年かけて奥嶽川の水流が凝灰岩を削り、70mを超す深い滞迫峡ができました。滞迫峡には、阿蘇熔結凝灰岩のほかに、約1,400万年前の祖母山火山岩類の岩壁もあります。奥嶽川は祖母・傾山系の豊かな自然林を源とするため、青く澄んだ渓谷となっています。

○木の皮の印象化石と炭化木
 火砕流に巻き込まれた木は押しつぶされ、皮の模様は火砕流が固まった岩に残されます。木は燃えてなくなっています。滞迫峡では、あちこちで木の皮の印象化石が発見されています。また、火砕流の熱で、炭化木になった木もたくさん見つかっています。

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 この柱状節理の大岩壁のすばらしさ、迫力といったらどうでしょう。これほどの規模の自然地形はなかなかお目にかかれません。実際に川べりに立ちますと、岩壁のあまりの高さに胆が冷えます。それと同時に自然の神秘のようなものが感じられます。できれば先に説明板に目を通しておいた方が、より感動が深まるでしょう。つい数年前、「サザエさん」のオープニングアニメで大野直入地方の名所旧跡がたくさん紹介されたことがありました。あのとき、サザエさんが気球に乗って通過したのがこの谷です。

 左に行けば小さな滝が落ちています。小原の滝と申します。滝壺の美しさはもとより、羽衣天女の裳裾を見たような優美な流れもなかなかのものです。

 滞迫峡にはほかにもたくさんの景勝があります。いくつかの下り口がありまして、今回はひとまず、主要な下り口から水に濡れずに行ける範囲の景観のみを紹介しました。

 

5 奥嶽橋

 滞迫峡から見上げると、はるか高い位置に立派な橋が架かっています。

 大自然の中にこれほどの規模の構造物ですから目立ちます。けれども、不思議と自然景観との調和がとれているような気がします。この橋の架橋により、大字滞迫はもとより、大字栗生のうち湯迫(ゆのさこ)部落の方々の交通の困りが解消されました。橋の上からもすばらしい景観を楽しむことができます。

 

今回は以上です。次回、もう1回だけ長谷川地区の記事を書いたら、久しぶりに杵築の旧市街散策の続きを書きたいと思います。

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