大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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杵築の旧市街散策 その4(杵築市)

 このシリーズは「その3」まで書いて、半年以上経ってしまいました。久しぶりに再開してます。一応「その5」で最終回となる予定です。過去の記事の内容を記しておきます。

その1  岩鼻の井戸、岩鼻の坂、酢屋の坂、北台の武家屋敷群、藩校の門、勘定場の坂、杵築幼稚園の石段、北浜口の坂、臥雲の坂、臥雲新道の稲荷様、上町、西町、神明様、紺屋町の坂、一つ屋の坂、久保の坂
その2  西新町、旭楼、下ン丁、中ン丁の両宮様、古野の庚申塔、どんどん石の坂、清水寺の坂、清水寺跡(庚申塔)、上ン丁、北新町、宮地嶽神社、新屋敷、豊川稲荷
その3 八坂神社、○祇園祭りについて、馬場尾口番所跡、札ノ辻の堂様(庚申塔)、柳家、冨坂町、新町、弓丁、天神坂、天満社(庚申塔)、○天神祭りについて

 今回は馬場丁の天神様からスタートして寺町の坂を下り、据場から御茶屋の坂を上って南台を通り、飴屋の坂を下って駐車場に戻るまでを書きます。すべて歩いて回っています。一応、道順が一続きになっていますので、よければ「その1」から順々にご覧いただくと分かり易いと思います。

 なお、今回紹介する地域の一部は厳密には城下を外れます。けれども旧市街にあたる区域と一体の地域ですから、このシリーズの中で取り上げることにしました。

 

35 寺町

 馬場丁の天満社から錦江橋方面に下る坂道に沿うた町筋を寺町と申します。この坂道を下る際、右側に上から下までずらりとお寺が並んでいます。

 以前は六角形の滑り止めのついた舗装がレトロな雰囲気でしたが、平成半ばに現代的なアスファルト舗装に改修されました。右側にお寺の塀が続きます。上から養徳寺、正覚寺妙徳寺、安住寺、長昌寺、その下を下司方面に右折すれば妙経寺、合計6つのお寺が並んでおり、そのどれもが立派な造りの伽藍ばかりです。しかも杵築藩主の菩提寺として有名な養徳寺をはじめとして、ほかのお寺にも五輪塔、宝塔、石造仁王像などといった文化財の数多うございますし、長昌寺のお庭も見事なものです。今回はお寺の一つひとつは省きますが、この一帯は杵築城下の名所といえましょう。

 年中行事としては花祭り、雛祭りなどお寺ごとにいろいろあり、安住寺の供養踊りは特に懐かしく思い出されます。もう20年以上前にやめてしまいましたが、かつては8月16日の晩に境内に3重4重の輪が立ち、「六調子」「三つ拍子」「祭文」を夜遅くまで踊りたいへんな賑やかさでした。その際、境内にたくさんの蝋燭をとぼして、何とも言えない独特の風情があったのを思い出します。

 

36 カブト石の坂

 長昌寺の角を左折して南台に上がる小路をカブト石の坂と申します。その由来は、昔この坂の途中に兜に似たカブト石という石があったことによるそうですが、今はそのような石は見当たりません。

 久しぶりに歩くと舗装がきれいになっていました。けれども屈曲する道筋には、昔の風情をよう残します。この道は普通車までならどうにか通行できますが、観光の際には徒歩がよいでしょう。今回はこの坂を上らずに寺町筋を下まで下ります。

 

37 錦町

 カブト石の坂への分岐から下を杉山と申します。杉山部落を抜けると十字路になっていて、これを右に行けば今の錦江橋や下司(須賀・生地)へ、左に行けば据場・魚町経由で本町へと至ります。今回は直進して、旧の錦江橋跡まで行きます。

 杉山の辻よりも八坂川側は、道路が三角形をなしています。その三角形の突端に旧の錦江橋がかかっていました。この狭い区域が昔で言う錦町で、今は錦江という地名になっています。以前は昔商売をしていたであろう家屋がずらりと並んでいました。古い建物がずいぶん減ってしまったのが残念です。

 

38 錦江橋

 錦江橋こそは、藩政時代から昭和40年代までは名実ともに杵築の町の玄関口でした。そもそも、台山城ふもとの北浜・塩田はかつては海でした。その後、埋め立てが完了してからも長らく、今の杵築大橋が架かるまでは錦江橋を渡り広小路を抜けて市駅、永代橋経由で大内に抜けるルートが国道213号であったのです。

 錦町の突端より、旧の錦江橋の橋台が残っています。古くは木橋であったそうです。橋台の幅から推察されるとおり道幅が狭く、自動車交通をさばききれなくなったので、昭和30年代にやや上流側に新しい錦江橋が架かりました。写真の右奥に、半分までを残して取り壊し中の橋が写っています。それが昭和30年代に架かった錦江橋で、つい一昨年までは現役でした。今は取り壊し工事も完了して、そのすぐ隣に架かった立派な橋を通行しています。

 ところで、今の錦江橋辺りに近松寺浜(きんしょうじはま)という古い地名があります。大昔、この辺りに近松寺というお寺があったそうで、橋がなかった頃は渡し舟で行き来していました。「近松寺渡し」と呼んでいたそうです。

 旧錦江橋から下流を見ますと川幅が広がり、遠くには台山城址の模擬天守、その麓には杵築大橋が見えます。この辺りは杵築市街でも特に風光明媚なところです。

 

39 天満社(元宮)

 錦町から杉山の辻に引き返して右折し、据場(すえば)方面へと歩を進めます。少し行けば、左側の崖の中腹に馬場丁の天神様の元宮様が鎮座しています。

 特に標識はありませんが、法面の上に石祠が見えるのですぐ分かります。2つある参道のうち右の通路が昔からのもので、左は津波のときの避難路として近年改修されたものです。右から上ります。

 法面とフェンスが景観を損ねていますが、石段は昔の面影をよう残します。

 この石祠が元宮様です。元宮の呼称からも分かるように、かつてはこの場所に天満社がありました。ところが境内があまりに狭いので、江戸時代に馬場丁に遷座し今に至ります。旧地には元宮様として石祠のみを残しており、天神祭りの行列の御旅所になっています。

 境内の左にはお弘法様がお祀りされています。確か昔はお接待を出していたように思うのですが、記憶が定かではありません。

 

40 据場

 元宮様から下の道路に返って、先へと進みます。

 据場は、錦町と魚町と間の町です。今や商店は皆無となっていますけれども、古い建物がちらほらと残っています。

 据場の中ほどに光明院という真言宗のお寺があります。このお寺は九州八十八所ならびに九州三十三所の霊場になっており、霊験あらたかなるとて昔から有名です。

 

41 お茶屋の坂

 光明院の横から背戸を抜けて南台に上がる小路をお茶屋の坂と申します。今は津波の避難路としてだけしか用をなさない道になっておりますが、戦後しばらくまでは近道として盛んに利用されていたそうです。杵築市街に数ある名前のついた坂道の中でも、酢屋の坂などと違いこちらは全く観光地化されておりませんけれども、歴史の道です。

 この背戸道がお茶屋の坂への入口です。それと知らいで入口を見つけることはまず難しいでしょう。

 やや荒れ気味ですが問題なく通行できます。それと申しますのも、以前は廃道同然の始末でしたが津波避難路として再整備されたのです。そもそもこの坂道は、お城と南台の武家屋敷を行き来する際の近道として拓かれたものです。もともと道などなかった断崖に無理に道を付けたものですから、津波避難路として再整備される以前のお茶屋の坂はものすごい急坂でした。そのためさしもの上級武士も、この坂道を通る際には駕籠を下りて歩いたそうです。

 

42 台の茶屋跡

 お茶屋の坂という呼称は、登り着いたところに台の茶屋という杵築藩主のお茶屋があったことに由来します。台の茶屋は南台の崖口にて、眼下に守江湾を見晴らす好展望の地でした。寛文5年に三川新田を拓いた際、その工事の進捗状況をこの場所から藩主がしばしば視察したのが元の起こりとのことです。

 台の茶屋跡地周辺はただの空き地になっていて、その名残を示す石造文化財は特に見当たりませんでした(見落としただけかもしれませんが)。説明板か標柱を設置していただきたいと思います。

 

53 家老丁

 台の茶屋跡から通りに出たら右折します。この通りを家老丁と申しまして、その名の通り上級武士の屋敷が並んでいました。今は一般の民家になっていますので見学などはできませんけれども、武家屋敷の名残を残す家屋を道路からでも確認できます。

 南台は碁盤の目になっていて、その通り名を申しますと家老丁と筆頭に、その半ばから馬場丁に抜ける通りを本丁、谷町筋の崖上を通って馬場丁に抜ける通りを裏丁と申します。松ヶ小路、竹ヶ小路、梅ヶ小路という3つの横通りもあり、古い町並みを形作っています。

 家老丁を谷町筋の方に向かえばだんだん下り勾配が増してきて、志保屋の坂になります。町並み整備できれいな舗装になりましたが、自動車の通行はできなくなりました。志保屋の坂は次回紹介します。

 

54 魚町の秋葉様

 志保屋の坂の下り勾配がはじまる直前、右側に城下町資料館の入口があります。これを右折し、資料館の駐車場の奥から遊歩道を進みます。

 竹林の中を行く、気持ちのよい遊歩道です。ひところは鬱蒼としていましたが再整備され、竹の向こうに本町から広小路方面の町並みを眺めることができるようになりました。しばらく行くと左に分かれ道があります。津波避難路にて普段は通行止めになっており綱を張っていますが、これを少し入ったところに魚町の秋葉様が鎮座しています。後述の理由により魚町筋からの参道の通行を遠慮したかったので、綱をよけて脇道を下り秋葉様にお参りしました。

 脇道を少しくだれば、すぐに秋葉様の鯱に至ります。下り口は通行止めの様相を呈しておりますけれども、秋葉様までなら問題ないでしょう。

 扁額には「秋葉宮」とあります。秋葉様は火伏の霊験あらたかなるとて信仰が篤く、殊に旧市街は家屋が建て込んでおりましたのでことさらに防火に留意していました。昔は地域の方のお参りが多かったようですが、魚町筋からの参道が大ホキ道でたいへん危なかったので時代の流れとともにお参りが稀になりました。近年その参道が津波避難路として再整備されましたので、今は昔のような危ない道ではありませんが、やはりお参りは少ないようです。

 秋葉様の横には3基の石祠が並んでいます。何の神様か分かりませんが、めいめいの前にはおてしょを置いてあり、お祀りが続いていることが覗われました。

 境内脇には煉瓦で龕をこしらえ、胸から上の破損した仏様が1体安置されています。台座の様子から察するに、かつては2体並んでいたと思われます。同行二人、お弘法様がお祀りされていたのではないでしょうか?また、その手前には宝塔の宝珠(火焔)のみ安置しています。詳細は分かりません。

南無妙法蓮華経三十番神

 一見して、意味が分かりませんでした。帰宅後に調べたところ、1か月(30日)の間、30柱の神様が番代わりで守って下さるという信仰とのことで、日蓮宗に関係があるようです。これに似た信仰としては、三十仏信仰があげられます。

 本来の入口はこちらです。用地が荒れ気味で、右の灯籠は倒れてしまっていました。この場所に秋葉様をお祀りしたのは、昔、魚町は片側町でしたから埋め立て前は土地に余裕がなかったのと、高いところに鄭重にお祀りしたかったのと、どちらも理由として考えられます。

 秋葉様からは魚町の家並み(手前)と、須崎の家並み(川向かい)を見晴らします。ここから参道を経由して魚町に下るのは遠慮しました。20年以上前に魚町筋から秋葉様に上がったとき、民家の敷地を横切って裏に回り込むような参道にて通行が憚られたのを思い出したためです。もし秋葉様にお参りする場合は、南台からがよいと思います。

 

55 裏丁

 秋葉様から家老丁に戻り、志保屋の坂が階段になる手前を左折します。

 この通りが裏丁です。普通車までならどうにか通れますが通学路になっていますし、お年寄りが歩いていたりするので車では入らない方がよいでしょう。舗装がきれいになっており、石垣と生垣の雰囲気がなかなかようございます。

 

56 裏丁のお稲荷様

 裏丁を進めば右手に飴屋の坂がありますが、一旦通り過ぎて道なりに行きます。右側に市役所の駐車場があって、その中ほど、道路端にお稲荷様の石祠があります。

 1基の灯籠を伴い、立派な基壇をこしらえた上に石祠が鎮座しています。お供えもあがり、鄭重にお祀りされていました。いま、左の石祠は壊れてしまっていますが、昔は2基の石祠が並び、赤い鳥居もあったのを覚えています。こちらのお稲荷様は、もとは弓丁の映画館横に鎮座していたそうです。裏丁に遷座してからも地域の信仰が篤く、通る人ごとにお参りするのを見かけます。

 

57 飴屋の坂

 お稲荷様から引き返して飴屋の坂を下ります。

 この坂は緩やかな石段がS字に屈曲しているのが特徴で、須屋の坂や勘定場の坂に比べると規模は小そうございますものの、見事な景観です。以前は石畳が傷んでいましたが、町並み整備の一環で往年の面影が蘇りました。

 

今回は以上です。次回も杵築の旧市街散策の記事を書きます。

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