今回は西新町・古野・北新町・新屋敷をめぐります。この一帯は「城下町」として再整備されておりませんので観光客は見かけませんが、昔のおもかげをよう残す、わたしの好きな地域です。
16 旭楼と旧歓楽街
前回の最後に紹介した久保の坂を上り、上久保の半ばを右折すれば西新町に出ます。このあたりは、今は人通りもなくなっていますが、昔は近隣在郷きっての歓楽街であったそうです。その歓楽街は福岡堂の辻から古野、北新町、新屋敷にまで広がり、戦前までは芸娼妓も多く貸席(かっせき…妓楼のこと)や料亭、銘酒屋、検番、仕出し屋等が軒を連ねていました。今では、その頃の面影を残す建物は旧旭楼(貸席)と柳家(旧料亭)程度になっています。
何はともあれ、このシリーズで最も紹介したかったのがこの界隈の町並みであります。まず手始めに旭楼を紹介します。この建物は3階建にてあちこちから目に入りますが、今回は下ン丁から見た旭楼を掲載します(冒頭の写真)
上久保から横丁を経て西新町に出たら右折して、上町筋を北台方面に後戻ります。西新町と西町の境界あたり、左側に金光教の教会があります。その直前を左折して、下ン丁に入ります。なだらかな下り坂になって、道が鉤型に折れ曲がっています。その辺りから左側の空き地の向こう側に、中ン丁に面した旭楼が見えます。
旭楼は大店で、最盛期には新屋敷、仲町など近距離に次々と支店を出し、実に5~6軒を数えまして夫々第〇旭楼の屋号がありました。ここに紹介する旭楼は本店で、当時は3階建ては珍しかったので通称を「三階」と申します。藤原義江の母親が奉公に出ていたとのことで、幼少期に藤原義江自身も一時居住していました。ここは私有地にて中を見学することはできません。旭楼のうち北新町に面した側はカフエー風と申しましょうか、洋館づくりになっておりましてその部分は後に近藤産婦人科になっていましたが、残念ながら最近取り壊されてしまい、今や旧の「三階」が残るのみとなっています。杵築の昔を今に伝える歴史的建造物でありますから、保存の手立てを講じることが望まれます。
17 下ン丁
古野は、旧藩時代には下級武士の住居が軒を連ねていた地域であったそうです。そのうち西新町寄りの地域は先ほど申しましたように歓楽街になり、戦前まではたいへんな賑わいでした。古野の道路は碁盤の目になっていて、3本の縦通りと2本の横丁からなります。主要な通りは西新町は福岡堂の角から清水寺の坂に至る上ン丁で、このうち西新町寄りの区画は北新町として分立していました。中ン丁は城のり子ペット美容室の背戸を入る細道です。下ン丁は先ほど申しました。この一帯はゆるやかな傾斜地にて、縦通りを結ぶ横丁がなだらかな坂道になっていますので、ただの碁盤の目の町並みとはまた違う風情があります。
下ン丁の一角です。軽自動車がやっとの幅しかありません。建物は一般の民家ばかりになっていますけれども、この道筋に昔の面影がよう残っています。今回はこの先の角を左折して、中ン丁の十字路を右折しました。
18 中ン丁の両宮様
中ン丁に面して、「両社宮」の鳥居が立っています。ここはお稲荷様と秋葉様をお祀りした神社で、通称を「両宮様」と申します。昔から近隣の方の信仰が篤く、いつも掃除が行き届いています。
拝殿はなく、狭い社地に対の灯籠、鳥居、めいめいの石祠のみの小規模な神社です。お稲荷様は商売繁盛の神様で、この一帯の昔の賑わいを今に伝えます。秋葉様は火伏の神様です。古野一帯は江戸時代に何回も大火に見舞われました。家屋が密集しており、延焼し易かったと思われます。それで秋葉様を勧請し、地域の方におかれましては火伏祈願はもとより平素の火の用心にもことさらに留意されまして、それ以来大規模な火災は発生していないそうです。
19 古野の庚申塔
両宮様を過ぎて、突き当りを左折します。上ン丁に上がる手前、右側角の民家の手前の背戸を入り、やや荒れ気味の細道を奥に進みますと畑の横に出ます。その辺りの道端に庚申塔が1基倒れかかっています。
青面金剛4臂(3眼!)、2猿?
残念ながら碑面の荒れが著しく、諸像の姿が薄れてしまっています。信仰が絶えて久しいのか枯笹などに覆われ、塔身と笠の隙間からも笹が生えているような始末でありましたので、粗末にならないようにゴミを除去して笹もできる範囲で引き抜きました。
主尊は、火焔輪を伴います。頬かむりをしたような頭部を見ますと、大きな鼻の真上には目が3つもあります。このように3つ眼になっている青面金剛は何回か見かけたことがあります。こちらはその他の部位に比べて目と鼻だけはくっきり残っていますので、その特徴的な表情がよう分かりました。下部には、猿と鶏が1つずつ刻まれているように見えたのですが、もうぼんやりとしか分からず、見間違いかもしれません。『杵築市誌資料編』には「二猿、鶏なし」の旨の記載がありました。
20 どんどん石の坂
庚申塔から引き返して、上ン丁に出たら右折します。少し行くと下り坂になります。この坂道が清水寺(せいすいじ)の坂です(後で紹介します)。清水寺の坂の下りはなより右方向に別の坂道が分かれています。この道を「どんどん石の坂」と申します。
このように民家の背戸を下る細道で、舗装されており昔の面影はありません。半ばより左に畑の石垣を見ながら下りますが、この下の県道45号に接続するところで不自然に屈曲しています。この部分は地形の改変により作り変えられたものと思われます。
坂道の半ばに、昔「どんどん石」という石があったそうです。その名前の由来は存じませんが、実物を見れば何か分かるかもしれないと思い約30年ぶりにこの道を歩いて下ってみました。ところがそれらしい石はなくなってしまっていて、詳細はわかりませんでした。
21 清水寺の坂
どんどん石の坂を下って県道45号に出たら左折します。この道は軽便(国東線)の廃線跡に拓かれた新道です。少し進んで、左方向に折り返すように清水寺の坂を上ります。なお、この分岐点の少し先から、若宮八幡方面への道が分かれています。昔、若宮の市の最盛期には露店が境内からこの辺りまで並び、その時季には臨時の停車場も設けられていたそうですが、今では全く面影がなくなっています。若宮の市については、またいつか若宮八幡を紹介する際に詳しく説明いたします。
清水寺の坂は拡幅されて、自動車が楽に通れる幅があります。昔の風情はなくなっていますが、軽便跡の新道が通る以前は上町筋が主要な道路でありましたので、かつては若宮や鴨川方面との往来に盛んに通行された坂道でした。
22 清水寺跡
清水寺の坂道の半ば、右側1軒目の民家の手前に古い石段が残っています。こちらは旧清水寺の参道です。
今は荒れ気味ですが、以前はこれを登り詰めたところに山門が残っていました。清水寺跡には庚申塔などの石造物がいくつか残っています。それを訪ねる場合、この石段を登り詰めてしまうと竹藪に阻まれて難渋します。石段沿いのお墓の手前を左に折れて小道を辿れば、庚申塔のところまで一本道なので簡単に行き着くことができます。
このとおり清水寺跡は竹林になっていて、今や数基の石造物にその面影を留めるのみになっているのです。詳しくは存じませんが、廃寺になって久しいのでしょう。
屋根の立派な石祠も草に埋もれがちです。何の神様かは分かりませんでした。
もともとの彫りが薄かったのか、今では諸像の姿が薄れてやっと痕跡を残す程度にまで風化してしまっています。写真では分かりにくいと思いますが、実物を拝見しますと一応、夫々の所作などは今のところ判別できるレベルです。まず、大きな唐破風を伴う重厚な笠が目を引きます。これは後家合わせのような気がいたします。主尊は火焔輪を伴い、御髪を登頂にてまとめて玉ねぎ型にしています。小さい目をキッと吊り上げていますけれども、なんとなく愛嬌が感じられました。
童子は三角帽子を被って合掌し、神妙な面持ちで佇んでいます。しゃがみ込んで「見ざる・言わざる・聞かざる」の格好をした猿は行儀よう横並びになって、ほんにかわいらしい雰囲気でございます。
23 上ン丁・北新町
清水寺跡を過ぎてほどなく、先ほど下ったどんどん石の坂の分岐に出ます。少し行って右側の分岐を上がれば古野の公民館があって、その坪に上ン丁の両宮様(秋葉様・稲荷様)があります。今回は立ち寄りませんでしたので写真がありません。
左に横丁の分岐を見てから、西新町まで一直線の道になります。この道が古野の上ン丁で、10年ほど前まではかなり古い家も残っていたのですが次々に取り壊され、今は空き地が目立ちます。
上ン丁の中程に、小さなお弘法様がお祀りされています。近隣の方のお世話が続いているようで、お花があがっていました。この一帯は個人でお接待を出す家が多くて、当日には次から次に赤い幟が立っています。お接待行事にあたっては数軒組の座元が家ずりになっている地域が多くなっている中で、古野界隈ほど個別のお接待が多く出る地域は珍しうございます。子供の喜ぶ行事なので、旧の3月21日ばかりは昔を思い出すような大賑わいになります。
このお弘法様の辻を左折して小路を下れば中ン丁、下ン丁へ、右折すれば新屋敷を経て祇園町へ、直進すれば西新町に至ります。この辻から上町筋までの間を北新町と申しまして、冒頭にて申しましたとおりかつては紅灯の賑わいでございました。その中ほどに近藤産婦人科の洋館(旧旭楼の一部)が建っていましたが、先ほど申しましたとおり残念ながら取り壊されました。でも、その空き地の向こう側には旭楼の丸窓などがよう見えます。今回はこの辻を右折して新屋敷に進みました。
24 宮地嶽神社
北新町のはずれ、お弘法様の辻から人と人のすれ違いにも難渋するような小路を上がれば、左手に宮地嶽神社がございます。ここは北新町と新屋敷の境界です。
逆光でうまく撮影できませんでした。大変立派な石祠です。こちらは近隣の芸者の信仰が篤かったそうです。この近くには検番があって、「芸者が踊りや三味線の稽古をしているのを子供の頃に見たことがある」旨を90歳台の方から聞いたことがあります。その検番から料亭「柳家」や六軒町にあった料亭「亀井荘」(のちの旧JA葬祭場)あたりまで芸者を派遣していたそうで、別の方からは「子供の頃に人力車に乗って亀井荘に行く芸者を何度も見かけた」と聞きました。その方曰く、昭和10年頃の検番においては、芸者のみならず近隣の一般家庭の娘さんにも、希望があれば踊りの稽古をつけていたそうです(将来芸者にするための仕込みではなく一般的な習い事として)。
花街、遊郭というものは一般の地域とは隔絶されていた事例も多かったと思われますが、このあたりは杵築随一の歓楽街とはいえ、一般の商家や民家(旧士族を含む)と水商売の店が混在していました。当時、娘に踊りを習わせるのはある程度暮らし向きのよい家であったと思うのですが、そのような家の娘さんが検番に出入りして舞踊などを習っていたというのも、このあたりの土地柄でありましょう。
なお、両脇の石祠は秋葉様と稲荷様です。この3社は、馬場尾の善神王社(通称ぜぜんのさま)の御旅所でした。昔、善神王様のお祭りが賑やかであった頃は城下まで御神幸の行列が出ていたそうです。
25 新屋敷
宮地嶽神社から先が新屋敷です。「しん」を高く、「やしき」を低く発音します。新屋敷を通って札ノ辻は祇園様のところに抜ける通りは、幅が狭くて車が通れません。
古い建物が一つ、また一つと取り壊されて、空き地が目立ちます。昔はこの辺りにも貸席があって、旭楼と妍を競っていたそうです。
この先が十字路になっています。直進すれば札ノ辻(祇園様のところ)に抜けます。左折すれば札ノ辻と西新町の境界、冨坂町に出ます。今回は右折してすぐ左折し、北祇園町に抜ける道を通りました。この道は車も通れます。
26 豊川稲荷
新屋敷と北祇園町の境界、道路端にお稲荷様の赤い鳥居が立っています。
昔から新屋敷の方の信仰が篤く、狭い境内には石燈籠、手水鉢などの石造物がございます。この辺りは道路の拡幅により昔の面影が乏しくなっておりますが、新屋敷の昔を今に伝える神社です。
今回は以上です。次回は祇園様、札ノ辻、冨坂町、天神様までを紹介しようと思います。