大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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杵築の旧市街散策 その5(杵築市)

 杵築の旧市街散策のシリーズも最終回を迎えました。今回は飴屋の坂下の駐車場から城内にかけてのコースです。少し長くなりますが一気に紹介します。なお、城山公園に市内各地から集められた石造文化財については、別のシリーズで紹介しますので今回は省きます。

 

58 谷町の戎様

 飴屋の坂の向かい側に、このシリーズの初回で紹介しました岩鼻の坂と井戸があります。その右隣りに、岩壁に龕をこしらえて戎様の石祠をお祀りしてあります。戎様は商売繁盛の神様ですから、特に近隣の商家の信仰が篤いようです。

 垂木を彫り出した立派な石祠で、いつもお供えが上がっています。以前は近隣にて戎講が組織されていましたが、現状は分かりません。戎講は県内各地で見られたもので、十日戎の小唄を唄った思い出のあるお年寄りも多いと思います。

十日戎の売り物は はぜ袋にとり鉢、銭かます
 小判に金箱、立烏帽子 茹で蓮、才槌ゃ束ね熨斗
 オヤ おささをかたげて千鳥足
〽手拍子揃えて華やかに 舞の手に囃す〆太鼓
 誰しも見に行く花の山 ちらと見初めし幕の内
 オヤ その花かたげて千鳥足

 さて、谷町は道路拡幅により町並みが一新して往時の面影をほとんど残しておりません。谷町はその名の通り北台と南台の谷間で、道が狭かった頃は道路ぎりぎりに大店小店が軒並びにて、昭和の中頃までは特に賑やかだった地域です。

 いま、昔の建物と申しますと綾部味噌くらいなものです。ほかに昔からのお店は、建物は変わりましたが神田米穀店、岐部酒店、吉松楽器店、萬力屋、松山堂などが残っています。小森蒲鉾店や酒見書店などたくさんのお店が閉めてしまい、杵築カメラや松井理髪店などは移転しましたので、昔よりも商店がずいぶん少なくなりました。今は道が拡がって自動車が安全に通れますし、城下町風の意匠の建物で統一されていますからきれいな町並みになっています。けれども道路拡幅前の、昭和30年代~40年代頃の面影を残す町並みもまたよかったと思います。以前の風景が懐かしく思い出されます。

 

○ 油屋水道について

 弓丁から谷町にかけて道路端に川は流れておりませんのに、以前は松山堂と志保屋の坂の間から水辺に下りられました。これは白水の池の落て水を引いた水路(谷川と呼んでいます)で、谷町筋を暗渠で通り八坂川へと流れています。それを志保屋の坂のところで堰き止めて左に分水し、北台の地下を通して北浜口の坂の方に通した水路を油屋水道と申します。宝永6年、北浜新田の灌水のために油屋孫左衛門さんの出資により間歩(水路隧道)をこしらえたとのことです。土木技術の幼稚な時代のことですからその工事は容易なことではなかったはずです。目立ちませんが、杵築の発展を支えてきた重要な史蹟です。

 

59 志保屋の坂

 谷町の中ほどで、酢屋の坂と志保屋(しおや)の坂が向かい合わせになっています。酢屋の坂はシリーズの初回で紹介しました。今回は志保屋の坂を掲載します。この坂は、塩屋の用字も通用しています。

 さていつ頃だったでしょう、商店街の道路拡幅工事の頃であったと思いますが、石畳風のきれいな坂道に改修されました。そもそも志保屋の坂は、大昔は急傾斜の石段であったそうです。ところが消防車などの緊急車両がこの道を通れないと障りがあるとのことで、昭和の中頃に車の通れる坂道に改修されました。ところがものすごい急坂で、しかも商店街の道路が狭かった頃は急坂を下った先が突き当りになっていてとても危なく、小学生など自転車に乗って下らないようにやかましく言われていたことを思い出します。今は階段になって車が通れませんけれども、ほかの道の整備が進んだので、ここを消防車が通れなくても特に支障がないのでしょう。

 志保屋の坂から見る酢屋の坂の景観はまた格別です。観光の際、酢屋を歩くだけでは片手落ちです。必ず両方を上り下りして、双方の景観を楽しんでいただきたいと思います。

 

60 改修前の志保屋の坂

 志保屋の坂を改修する前、車が通れていた頃に撮った写真がありますので、写りはよくないのですが掲載します。

 平成半ばまではこんな道でした。車も自転車も行き来していましたが急勾配で、危ない道でした。商店街の道が狭かったときは下りきってから僅かに余地があったものを、道が拡がったためにその余地がなくなりました。ですから階段に造り替えて車輌が通れなくなったのも道理でございます。

 

61 本町の道標

 酢屋の坂・志保屋の坂を過ぎて少し行けば三叉路になっています。これを右折すれば魚町経由で、前回掲載した据場へ。直進すれば広小路です。大昔はこの辺りを下町と称したそうですが、今は一般に、この三叉路辺りから広小路までの狭い区間を本町と呼んでいます。三叉路に古い道標が立っています。

鶴川驛へ 六里拾五町二拾二間
下原驛へ 三里二拾町五拾三間
立石驛へ 五里拾二町二拾間
 杵築驛

 杵築駅と申しますのはもちろん鉄道の駅のことではなく、宿場のようなものです。写真には写っていませんが左の面には、宇佐駅への道程が彫ってあります。また、鶴川は国東町、下原は安岐町、立石は山香町の地名で、夫々繁栄していました。

 

62 魚町

 本町の三叉路から魚町方面に行きます。魚町は城外で、三叉路のところに番所がありました。ところがこの町は拡大の一途を続けた城下町と一体の地域でありましたので、番所の外でありながらも特別に町方の扱いを受けていました。それで、暮れ六つに番所が閉ざされても、魚町の人は通用口からの出入りを許されていたとのことです。当初は片側町であったものを、八坂川を埋め立てて道路の両側に町屋が並ぶようになりました。今も伊藤皮膚科、近藤パンなどいくつかの医院・店舗が残っています。昔は生花店、米穀店、畳店などたくさんのお店がありました。

 今は静かな町ですが、杵築大橋がかかるまでは車通りがすこぶる多かった道です。先述しましたが慢性的な交通渋滞が問題になっていました。江戸時代には崖下に牢屋があったそうです。その痕跡は全く分かりません。魚町の秋葉様は前回、南台からのルートで紹介しましたので参照してください。

 

63 周防屋跡(野上家)

 伊藤皮膚科の隣に、周防屋という旅館の建物が残っていました。これは歴史的な建築物でしたが老朽化がひどかったので解体に至りました。庭園の再整備や東屋の復元を経て、今は地域の憩いの場として、また観光スポットとして、一般に公開されています。

 道路から地続きで、特に塀で仕切られたりしていません。誰でも自由に散策・見学することができます。

 説明板の内容を転記します。

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野上家(周防屋)

 野上家(周防屋)は、昭和期に旅館を営んでいた商家のひとつであり、敷地内には巨石や青石を巧みに配置した借景庭園が当時の面影を今に伝えています。
 旧所有者であった野上氏は明治23年(1890)に敷地を購入し、卸売市場を営んでいました。昭和4年(1929)の土地記録によれば、2階建て旅館2棟が建てられ、本格的な旅館経営に転向したことがわかっています。旅館の名称には江戸時代の『町役所日記』(県指定文化財)にも記載されている屋号「周防屋」を用いています。
 平成26年(2014)、所有者から杵築市に寄贈され、老朽化が進んでいた建物は全て解体されましたが、使える建材を利用し東屋を復元しました。
 また、敷地名の庭園は、福岡県久留米市出身で明治から昭和初期にかけて九州一円を中心に庭園を手掛けた庭師 東森堂氏(1870~1950)による築庭です。庭園からは八坂川の河口を一望することができ、新たな市民との交流の場や観光スポットとして利用されています。

杵築市

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 見事なお庭です。こんなに立派なお庭があることを、わたしは全く知りませんでした。まだ観光スポットとしての認知度は低いようですが、これから散策される方が増えてくると思います。

 

64 広小路

 魚町から本町三叉路に引き返して右折します。その先でまた三叉路になっていて、直進すれば六軒町経由で城ノ鼻へ、左折すれば大手前経由で北浜へと至ります。この辺りを広小路といいます。今は「中央」という行政区のうちですけれども、一般には広小路という昔からの町名の方が通用しています。

 振り返って撮った写真です。左奥へ進めば本町へ、右折すれば北浜へ。今もガソリンスタンド、生花店ほか数店舗が営業を続けていますし、洋食店「おわたり」も人気を呼んでいます。また、天神祭りのときこのあたりはたいへん賑わいます。山車がぶつかり合い、鉦囃子も乱調子のものすごさにて、その熱気はものすごうございます。今回は奥から手前へと進んでまいります。

 

65 六軒町

 広小路の三叉路を直進した先の町が六軒町(ろっけんまち)です。どう考えても、たった六軒しか家がないような町でありませんのに、どうしてこう呼んだのでしょう。六軒町には「亀井荘」がありました。新屋敷の置屋から人力車に乗って芸者が来るのを子供の頃に見たという話を、お年寄りから聞いたことがあります。亀井荘は閉店後にJAの葬祭場として利用されていました。今は葬祭場も北浜に移転し、空き店舗になっています。

 六軒町は、古い建物がどんどん減り空き地が目立ちます。一般の民家がほとんどで、商店は牛乳屋さんなどごく僅かしかありません。

 

66 城ノ鼻

 六軒町筋を道なりに行けば、左に台山(杵築城)への坂道(裏道)が分かれています。その上り口を通り過ぎれば城ノ鼻(しろのはな)で、「しろんはな」とも呼んでいます。北浜新田から塩田にかけての埋め立て以前は、城ノ鼻の先は海でした。「鼻」と申しますのは突き出た陸地をあらわす言葉です。

 城ノ鼻の町並みです。古い長屋(御舟手長屋)が数軒残っています。また、この先の山手、崖下には「おての山」という築山がありました。築山にはいくつかの石祠がありましたが、「おての山」がなくなった今では、その石祠は左の道を入った先に移転してあるはずです。杵築城下にはほかにも「○○山」と称す築山がいくつかありまして、御殿の庭に残る築山もそのひとつです。

 杵築大橋が架かる以前、この辺りから対岸の須崎部落へと渡し舟が出ていました。戦後しばらくまでは、大字片野(旧東村)と杵築市街との往来に盛んに利用されていたそうです。八坂川河口には澪標の跡がありましたが、今は分からなくなっているのが残念です。渡し場跡の説明板の整備が望まれます。

 

67 杵築藩船入場跡

 城ノ鼻は、江戸時代には港がありました。八坂川の流れにより土砂が堆積して川が浅くなり、港としての用をなさなくなるまでは、出船入船の賑わいであったそうです。

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杵築藩船入場跡

江戸時代に杵築藩主御座船の船入場が、ここを起点に西に約100m、南は川まで約45mにありました。

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68 台山(杵築城址

 さて、いよいよ杵築城址でございます。杵築城址の山を、台山とか城山と申します。竹ノ尾城(鴨川)と区別するために、こちらを台山城を呼ぶこともあります。また、台山の形から臥牛城という美称もあり、杵築小学校の校歌に 〽臥牛の丘の松のかげ、うつす錦江日にあらた…と歌われています。

 今回は道順の都合で、正面からではなく六軒町から裏道を上がりました。この裏道は普通車までならどうにか通れますが地域の方の迷惑になりそうなので、歩いて行く方がよいでしょう。車のときは広小路から上ります。

 台山は城山公園として整備されております。遊具のある広場や青筵神社、石造文化財を集めた区域、模擬天守(資料館を兼ねた展望台)などが整備されているほか、平成半ばまでは市民会館も利用されていました。今は老朽化により閉鎖され、廃墟と化しています。費用の問題が大きいとは存じますけれども、廃墟が三ノ丸跡の一角を占めて景観を著しく損ねておりますので、早期の解体撤去が望まれます。

 公園の駐車場に詳細な説明板が整備されています。その内容を転記します。

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国指定史跡 杵築城跡
指定日:令和2年3月10日
指定理由:
豊臣政権から江戸幕府の成立、安定へと向かう社会・政治情勢の変化に応じて、その構造を大きく変えることが確認された城跡。「一国一城令」による破却以前の城の建物構成や構造が分かるなど、江戸時代初期の城郭の実態を知る上でも重要。守江湾に面する丘陵に位置し、その変遷は戦国時代から江戸時代の社会・政治情勢の変化によく対応している。

○ 杵築城の概要
 杵築(木付)城の成立は、応永元年(1394)に木付頼直(豊後国守大友氏一族)が、この場所から北西へ2km程の内陸の竹ノ尾城より、この場所周辺に本拠を移したのがはじまりです。
 文禄2年(1593)の大友氏豊後(今の大分県の大半)没収に伴い、豊後(約41万8千石)には、豊臣秀吉の腹心・縁者等の家臣が1万石~12万石で配され、豊後国は細切れに領有されることになります。
 慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いを経て、豊前小倉~豊後木付にかけての39万9千石は細川忠興が領有することになり、同6年(1601に木付城代には家臣中でも別格の松井康之を2万5千石で配置することになります。
 配置の年、台山に3層の天守が造られますが、慶長13年(1608)の落雷により天守は焼失します。その後再建されますが、元和元年(1615)の一国一城令により台山の城郭は壊され、その後、杵築城の中心は台山北麓に移動します(後の藩主御殿)。寛永7年(1630)までにはその移動が完了すると思われます。
 その後、寛永9年(1632)に、細川氏の肥後(熊本県)への領地替えに伴い、小笠原忠知が4万石で城主となります。正保2年(1645)には、忠知の三河吉田(愛知県豊橋市)への領地替えに伴い、甥の松平英親が豊後高田より3万7千石で配されます。
 以後、途中5千石を分地し、3万2千石になるものの、幕末まで能観松平氏が杵築藩主として続きます。

○ 杵築城の立地と構造
 杵築(木付)城は、北を高山川、南を八坂川にはさまれた河口付近、最大標高30m弱の独立丘陵である台山部分と、台山北麓の藩主御殿部分の2つに大きく分けることができます。
 前者は、木付氏時代に中世城館として築かれ、大友氏の豊後没収後、豊臣系の領主らにより石垣をもつ近世城郭に改修されました。元和元年(1615)に一国一城令で壊されるまで、城の中心部でした。後者は、台山北麓に築かれた中世居館を経て、一国一城令後に御殿(藩主御殿跡)などが建てられました。前者が壊された後、城の中心機能を担いました。
 この両者を含めた範囲が杵築城の中心部です。城を含めた城下町全体には大きく起伏があり、その自然地形を巧みに利用して、堀や土塁と同様の防御の役目を持たせています。
 ぜひ、起伏に富んだ独特な地形の城下町をご堪能ください。

○ 杵築城の範囲 東西約2km×南北約1km
 杵築城の最大範囲は、武家屋敷がある南北の台地とその間の比高差15~33m弱の谷にある町屋や南西の緩斜面を固める寺町などの杵築城下町を含めた範囲です。

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 詳細な絵図の看板もあります。現地を訪れた際には、必ず目を通していただきたいと思います。今とは全く地形が異なることがよう分かります。ぐるりを海に囲まれています。

 駐車場から少し上れば二ノ丸跡で、今は遊具の整備された公園になっています。吉野桜がたくさん植わり、春はお花見で賑わいます。昭和の中頃には一角にゲームの並ぶ小屋がありましたので、遊んだ記憶のある方も多いことでしょう。

 公園を過ぎて門をくぐれば市内の石造文化財をたくさん集めた区画があります。冒頭にて申しましたように、この石造文化財は別のシリーズでまたの機会に紹介しますので今回は省きます。

 台山の突端には3層構造の模擬天守が立っています。これは昭和45年に竣工したものです。記念式典には市内から大勢の人々が参加し、樫山文枝が招かれるなど大賑わいであったと聞きます。それ以来、城下町杵築のランドマークとしてたくさんの人に親しまれています。模擬天守の内部は観覧料がかかりますが、貴重な資料が展示されていますし、上層からの見晴らしはまた格別です。

 模擬天守に上がらなくても、展望台からの景色を楽しむことができます。北浜新田の埋立地の沿岸部は、元はその名の通り塩田でした。塩田が廃ってからは畑地が広がり水耕栽培が営まれておりましたが、今はその多くが宅地化して写真のような風景になっています。行政区としては元は北浜のうちでしたが、軒数の増加により独立して塩田と称しています。

 二ノ丸跡から杵築中学校方面に下る階段があります。その道の入口に忠魂碑が立っており、近くには台場跡があります。

 

69 青筵神社

 駐車場まで引き返して三ノ丸方面(旧市民会館)へと歩を進めますと、右側に立派な神社があります。青筵(せいえん)神社です。

 こちらは七島藺(しっとうい…一般に「しっと」と呼んでいます)の生産に貢献した杵築藩主、日出藩主、橋本五郎右衛門さんを祀って昭和11年に創建した神社で、昭和42年には市内の戦歿者を合祀し今に至ります。橋本五郎右衛門さんについては盆口説「七島藺の由来」に詳しく、以前別府市内成地区の記事で紹介しましたので参照してください。七島藺(しっと)の栽培の隆盛により、杵築藩は多いに潤いました。以前にも申しましたがその栽培は大変な手間がかかり、しかも一つひとつわいて筵に織って、10枚揃え(1荷、いっか)で出荷ですから刈取り後の手間も大きかったものの、農家にとっても貴重な現金収入源として、昭和40年代までは盛んに栽培されていたものです。

 立派な造りのお社で、整備が行き届いています。狛犬のお顔も個性的ですから、参拝の際に確認してみてください。

 

70 深濠跡

 旧市民会館から正面の坂道を下りますとお濠に至ります。

 この階段は旧市民会館の軒を通る通路です。左の車道を下った方がよいでしょう。

 かなりの深さのお濠の一部が残っています。藻が繁殖しているのか水が濁り、気味が悪うございます。

 

71 大手前

 お濠にかかる橋を渡れば左側に杵築中央病院、右側には扇屋旅館があり、その先が突き当りになっています。今は広小路の町筋のうちですが、この辺りを特に大手前と申します。町方になったのは明治以降と思われます。

 突き当りを右折した振り返った写真です。左に行けば台山、少し先を右折すれば勘定場の坂経由で北山へ、正面奥の突き当りを左折すれば六軒町、右折すれば本町です。大手前ではまたみ生花店、八坂理髪店などいくつかのお店が営業を続けています。でも橋本商店、小深田靴店、堀福栄堂(お菓子)など昔懐かしいお店がたくさん閉めてしまい、この町筋はずいぶん寂しくなりました。以前は道の両側に商店が軒並びで、商店街の中でも特に賑やかであった区域のひとつです。

 

72 杵築神社

 大手前の突き当りから北浜方面に少し行き、杵築中学校方面へと右折します。ほどなく、左側に広場を伴う神社が鎮座しています。こちらは、さきほど台山の項にて説明板を引用しましたとおり、台山城を取り壊して以降お城の役割を果たした藩主の御殿跡の一角です。杵築神社は城内の鎮守として旧士族によりお祀りされてきましたが、今は錦城(きんじょう)区の方々により維持されています。

 正面の拝殿左側より1段上がったところにも金毘羅様などが鎮座しています。広々として気持ちがよいところですし、秋は銀杏が色づいてとても雰囲気がよいので、お参りをお勧めいたします。

 天神様のお旅所もあります。天神祭りの行列がここまで来ます。

 

73 御殿の庭の観音堂

 杵築神社から地続きで御殿の庭跡に至ります。鶴の庭と申しまして、琵琶湖を模して池をつくり、橋をかけ、その横には築山(二島山と愛宕山)があり、見事な回遊式庭園でした。以前からやや荒れ気味でしたが、先日20年ぶりに訪れて唖然としました。まったく、見る影もない荒れ具合です。草も何もかも伸び放題、滅茶苦茶に荒れてしまい、とんでもない状況でした。よくもこんな始末になるまで放置していたものぞと呆れかえります。台山の説明板によれば、この区域も国指定史跡の範囲のうちであるはずです。早期の再整備が望まれます。

 鶴の庭の一角、築山を背にして写真のような観音堂が建っています。これまたものすごい荒れ様で、倒壊が懸念されるような状況であります。上の階には、以前は左側から梯子で上がりましたが、今は傷みがひどくてとても上がられません。大昔はこの並びに別棟があり、そこから階でつながっていたそうです。そして上層階の戸を開けた奥の岩壁(築山上部)には磨崖仏が彫られていますが、風化摩滅でほとんど分からなくなっています。

 懐かしい町並みを歩いて、最後の最後にとても残念な気持ちになりました。御殿の庭を再整備して、みなさんが安心して散策できるようにしていただきたいものです。

 

○ このシリーズの足跡

その1 岩鼻の井戸、岩鼻の坂、酢屋の坂、武家屋敷群、藩校の門、勘定場の坂、杵築幼稚園の石段、袋町、北浜口の坂、臥雲の坂、臥雲新道の稲荷様、上町、西町、神明様、紺屋町の坂、横丁、一つ屋の坂、下久保、久保の坂

その2 上久保、西新町、旭楼、下ン丁、中ン丁の両宮様、古野の庚申塔、どんどん石の坂、清水寺の坂、清水寺跡、上ン丁、北新町、宮地嶽神社、新屋敷、豊川稲荷

その3 祇園町、八坂神社、馬場尾口番所跡、札ノ辻の堂様、柳家、冨坂町、新町、弓丁、天神坂、天満社

その4 寺町、カブト石の坂、錦町、旧錦江橋跡、天満社元宮、据場、お茶屋の坂、台の茶屋跡、家老丁、魚町の秋葉様、裏丁、裏丁のお稲荷様、飴屋の坂

その5 谷町の戎様、志保屋の坂、本町の道標、魚町、周防屋跡、広小路、六軒町、城ノ鼻、御舟手跡、台山城址、青筵神社、深濠跡、大手前、杵築神社、御殿の庭

 

今回は以上です。次回より、宇目町庚申塔めぐりのシリーズを再開します。すばらしいお塔が目白押しです。どうぞご期待くださいませ。