大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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北杵築の名所めぐり その10(杵築市)

 久しぶりに北杵築のシリーズの続きを書きます。以前から、このシリーズの中でたびたび波多方峠の旧道や妙見様について言及してきました。先日久しぶりに参拝いたしましたので、今回やっと紹介することができます。道順が分かりづらいところもありますので、詳しく説明します。なお、妙見様の項は大田村の一部を含みますが、便宜的に北杵築のシリーズでまとめて紹介することにしました。

 

29 上村の棚田

 以前、大字大片平は境木(さかいぎ)の大日堂を紹介しました(その7の27番)。境木の公民館を左に見て下り、左折します。少し行くと右側に急傾斜の棚田が見えます。今は棚田の下を道路が通っていますがこれは新道で、昔は棚田がはじまるかかりから右に上がる細道を通っていました。軽自動車ならどうにか通れますが崖道でとても危ないので一旦新道を行き、棚田が終わるところから鋭角に右折して旧道に進入します。道なりに行けば上村(かんむら)部落で、棚田の上の細長い平場に数軒の家屋が連なっています。ここから見事な景観を眺めることができます(冒頭の写真)。ただし道路が狭くて転回に往生しますし、地域の方の迷惑にならないように時季を考える必要があります。

 さて、上村も大字大片平のうちです。以前も申しましたが北杵築地区のほぼ全域が八坂郷であったのに対して、旧大片平村(今の大字大片平)は山香郷(日出領)のうちでした。境木がその境界であったわけです。写真はありませんが、先ほど申しました道順で上村にまいりますと、1軒目の民家の手前から左に上がる山道があります(車不可)。これを登ると庚申塔(自然石)があります。昔山火事があったとき、迫りくる炎が庚申塔のところまでしか来ず、上村の家々や耕地は火災を免れたそうです。それで庚申様の信仰が篤く、お祀りが長く続いていました。

 なお、上村よりも少し平田(ひらんた・八坂地区)寄りから東山香に越す林道(車可)があり、この道を甑岩(こしきわ)越と申しまして、その峠に甑岩池があります。甑岩の池から大片平側に下りますと、半ばで水路が道路から離れて、左方向の山の中に伸びています。高級な機械などがなかった時代に池を築き、水路を引き、石垣を積んで棚田をこしらえ、それを維持してこられた昔の方の苦労は並大抵ではなかったはずです。四季折々の風景を楽しむだけでなくて、そのような背景に思いを致したいものです。

 

30 下村の若宮八幡社

 境木の公民館まで後戻って右折し、芦刈(あしかり)方面へと進みます。ほどなく道路右側に若宮様が鎮座しています。鳥居がありますのですぐ分かります。車は、神社に隣接した公民館の坪に停めるとよいでしょう。

 こちらはいつも清掃が行き届いています。注連縄も、最近よう見かける化繊のものではなくて、昔ながらのものです。お参りをしたら右に行きます。

 摂社がならんでいます。このうち向かって右端は生目様です。また、左端の石祠の右隣には小さな御室に収まった仏様も安置されています。なお、以前は神社・公民館の坪で供養踊りをしていました。

 

31 下村の庚申塔

 若宮様の境内から右に行くと、そのすぐ横の土地に庚申塔が1基立っています。神社の敷地外のように思われましたので一応別項扱いとしましたが、地続きです。

庚申大菩薩

 このお塔は角柱型になっています。このような形状の庚申塔は近隣在郷では稀であると存じます。庚申大菩薩という仰々しい銘には、庚申様の信仰が真に迫るものであったことが覗われます。文化2年の造立です。

 

32 中ノ原の庚申塔・イ

 大片平から溝井に下って、県道49号を市街地方面に行きます。豊後通運のあたり、右側の路肩が広くなっているところに車を停めたら、「ケアマンションとわの桜」の看板のある角を左折して細道に入ります。少し歩くと三叉路の左側に庚申塔が立っています。中ノ原には、別の庚申塔もあります(今は城山公園に移設されています)。区別のために、こちらにはイと付記しました。

青面金剛6臂、2童子、2猿、1鶏、邪鬼

 この塔は入母屋の屋根が急勾配で、まるでお宮の屋根のように見えてまいります。日輪月輪はずいぶん外側に偏り、瑞雲は見えづらくなっています。主尊はお地蔵様のような風貌にて普通の着物姿の体の肩口から強引に4本の腕を外向きに付け足したような表現です。童子も主尊と対の表現にて、青面金剛というよりは一見して三尊形式の仏像のように見えました。

 主尊の足元は正面を向いた大きな邪鬼、その下には、向かって左に正面向きの猿、右には右向きの鶏と四つん這いになった猿とが向かい合うているように見えました。ただしこの部分は風化摩滅が著しいので、見間違いの可能性もあります。

 ところで、この庚申塔の手前が大字馬場尾、奥は大字鴨川です。この辺りの地域区分は少し複雑で、庚申塔の手前、道路の左側は、大字馬場尾の中でも中ノ原(なかんばる)区にあたります。中ノ原区はみかん園の開拓地であり、大字馬場尾・溝井・本庄の鼎立する地域にて大字境を跨ぎますが、通常北杵築地区に含みます。庚申塔の手前、道路の右側も中ノ原ですが、こちらは中ノ原区ではなくて馬場尾区のうちです。また、庚申塔の奥は大字鴨川は迫の開拓地です。迫の本村は高山川べり(右岸)で、以前は庚申塔の三叉路を直進してみかん園の手前を右に下って高山川べりに至る道が利用されていましたが、最近は半ば廃道の様相を呈しており、一般には溝井経由で大回りして行き来しているそうです。

 庚申塔は無銘ですがどう考えても戦後の造立ではないことから、この塔はみかん園の開拓以前のものであり、馬場尾側の庚申講による造立と考えられます。しかしその立地から、このブログでは北杵築のシリーズの中で紹介することにしました。

 

33 向橋のお地蔵様

 庚申塔のところを左折します。突き当りを右に行ってすぐ左折すれば、台地のへりに沿うて溝井方面に下っていきます。この道は軽自動車であればどうにか通れそうな幅がありますが、現状として車輌の通行は困難です。

 坂道の途中で振り返って撮影した写真です。簡易舗装の路面を土や落ち葉が覆い隠して、何とも風情のある景色になっていました。今はお墓まいりの人くらいしか通らないような道ですが、以前は歩いて行き来する人があったのでしょう。

 坂道を下り切り、向橋の手前に1体のお地蔵様が安置されています。銘がなく詳細は分かりませんけれども、きっと昔から往来の安全を見守ってこられたのでしょう。素朴なお顔が、とても心に残りました。

 

34 波多方峠旧道と駕籠立場

 県道49号を大田方面に行き、尾上(おかみ)にて旧道県道に下りて、払川(無住)を経由して旧県道を上り詰めれば新道の波多方(はだかた)峠に着きます。今回はここに車を停めて、旧道の峠道や妙見様を訪ねてみました。

元禄七年春四月
貝原益軒
羽田方峠を木付へ越へる

 新道の峠からは杵築市街から守江湾の大展望が望めます。近年、この展望地に記念碑が立てられました。これは後世への記録のために、財前金利さんが建立されたものです。貝原益軒が越したのは旧道のはずですが、この場所は旧道からもほど近いし、皆さんが分かり易いようにこの展望地に建立されたと思われます。なお、「羽田方」は古い用字で、方々の石造物の銘で確認できます。

 さて、車を停めたら、いまきた車道を下ります。少し行くと右方向に簡易舗装の細道が分かれているので、これを上がります。この道は軽自動車なら途中まで通れますが転回できる場所がないので、徒歩が無難です。ほどなく鋭角に右折します(1つ目の角)。

 これが波多方峠の旧道です。さすが旧往還だけあって立派な道です。今の峠道が開通したのがいつ頃か存じておりませんが、もしかしたらこの旧道も車輌を通したかもしれません。勾配は申し分ない緩やかさです。或いはこの道幅は、旧往還の所以ではなく車を通すのための拡幅によるのかもしれないと推量いたしました。杉を植える前は、もっと幅がとれたと思います。

 坂道を上り詰めたところが旧の波多方峠です。峠には藩主が一服する駕籠立場が設けられていたのですが、牧場の造成等により盛土が削り取られたそうで、今やその面影も薄くなっています。また、旧道の峠から先(大田側)は牧草地になっています。この先は波多方高原と申しまして、かつてはバス遠足やハイキングの目的地として広く親しまれていました。今は鉄条網で区切られていますので通り抜けることはできません。写真の風景を楽しんだら引き返します。

 

35 波多方峠の六部の墓

 旧道沿いの斜面にお六部さんの墓標が残っています。銘もよう残っていますので、見学をお勧めします。右に気を付けながら元来た道を下れば、すぐ分かります。

 このように、右の斜面半ばにお六部さんの墓碑がポツンと立っています。斜面を斜めに上がる通路がついていますので、容易に見学できます。

廻國覚峰休圓信士

 正面には位牌型の彫り込みがなされ、その中に戒名を彫ってあります。枠の下には蓮の花も線彫りにしてあります。転倒を防ぐために小石を噛ませてあり、今でも気にかける方がおいでになることが分かります。

上野國那波郡連取邑住
於此所行倒村中之人悼之為造

(反対側)
享保八癸卯正月二日小暮清兵衛

 銘から、上野(こうづけ)国(今の群馬県あたり)は那波(なわ)郡、連取(つなとり)村出身の行者がこの場所で行き倒れになり、それを三尾平(みのひら)や払川の方々が悼んでお供養のために墓碑を造立したことが分かります。この行者は行き倒れといっても殺されたのであるという伝承もあり、朝田から芋尾経由で波多方峠を越そうとしていたところ、無残にも殺されてしまったとのを村人が見つけたと聞いたことがあります。

 

36 波多方峠の狼煙場跡と妙見様

 さて、今度は波多方峠の妙見様を目指しましょう。旧道を舗装路まで後戻ったら右折します(県道からなら直進)。

 しばらく歩くとこのような二股に出ます。これを左に行けば三尾平部落に至ります(途中の崖上に庚申塔あり)。妙見様に行くときは、これを右にとります。しばらく道なりにくねくねと進みます。だんだん舗装が荒れてきて半ばより未舗装になりますが、歩いて通る分には全く問題ありません。

 くねくねと進んできて、杉林に入ったところでまた二股になっています。ここが最も間違い易いところで、つい道なりに直進してしまいそうになりますが、右折します。この先がひっくり返るようなものすごい急坂なので、道が合うているか不安になるような分岐ですが、とにかく右折してください。

 杉木立の様子から、確かにここが道であることが分かります。でも、写真では分かりにくいと思いますが尋常ならざる急勾配で、そう遠くはないのに息が上がりました。昔からこの道を上がってお参りをしたのでしょうか。こんな急坂を歩いたのは久しぶりです。

 やっとの思いで頂上の広場に上がり着きました。まったく同じような3基セットの石祠が、手前と奥に並んでいます。これは、手前が払川村・三尾平村(北杵築地区)による祭祀で、奥が波多方村(朝田地区)による祭祀であり、その中間に境界があるのです。前者は杵築藩、後者は島原藩支配下におかれていましたので、境界を飛び越えて一緒に祭祀を行うことには障りがあったのでしょう。

 手前右側には狼煙場跡があります。

 無名の岩に注連をかけています。何らかの信仰の対象なのでしょう。この後ろが、不自然に小高くなっています。今は荒れ放題で痕跡も僅かですが、こちらが狼煙場跡です。江戸時代以前、緊急時の伝達に狼煙をあげたところであると申します。

 この山の中で道も悪いので、粗末になっているのではないかと心配しました。でも杞憂に終わり、ほっといたしました。境内は掃除が行き届き、めいめいの石祠や岩には新しい御幣・注連をかけています。お正月前に地域の方が手入れをされたのだと思います。

三尾平村
  氏子中
拂川村

 この灯籠は三尾平および払川からの寄進であることが分かりました。もともとは払川が本村で、三尾平はその枝村であったと申します。ところが両者は形勢逆転して久しく、払川は無住の地となっており家屋も残っていません。払川部落の場所は尾上と三尾平入口(上)の中間あたりで、戦前までは僅かに2~3軒残っていたそうです。

妙見宮

三尾平村
    氏子中
拂川

 この灯籠は天保5年の造立です。その時点で、枝村である三尾平の方が主になっていたことが分かります。払川には「村」がついていません。単に省略しただけかもしれませんが、もしかしたら人口の減少が著しく払川のみをもって村として維持することが困難になり、実質的には三尾平あるいは尾上に吸収されていたのではあるまいかと推量いたします。

 明治8年の合併で、尾上村・船部村・中津屋村・払川村・三尾平村の5か村が合併して船部村が発足しました。このときまで払川の村名は残っていたわけですが、その実態・独立性がどうであったかのか、甚だ疑問です。

 こちらは、払川・三尾平でお祀りした方の石祠です。全部に鏡が収められていたそうです。妙見様は北斗七星を神格化した信仰であり、戦、地域の安寧、牛馬の安泰などいろいろな御利益を言われていました。

 こちらは波多方でお祀りした妙見様です。石祠の正面が波多方の村々の方ではなく、手前の払川・三尾平の妙見様と同様に杵築方面を向いていることに気付きました。これはどういうことかいなとつくづく考えるに、いずれも杵築方面を向かせるというよりは、南面させているのでしょう。つまり妙見様にお参りをする際には北を向くことになります。北斗七星の遥拝所のような位置づけなのではないでしょうか?

安政五年十一月十七日

妙見宮御寶前

 壊れている灯籠が多く、残念に思います。この高所にあっては台風のときなど風が強いのでしょう。転倒・倒壊したことがあるのだと思います。

羽田方村 幸兵ヱ
  施主
     庄吉

 古い用字である「羽田方」が使われています。2人の施主のうち幸兵ヱさんの「ヱ」は「衛」の略字です。~兵衛さんという名前のとき、ふつう「~べえ」と詠みますけれども、昔の人はたまに「~ひょ(う)え」とか「~びょ(う)え」と読む人もいました。もっともそれは「~」が1音の場合だけで、2音以上の場合は「~べえ」がほとんどであると存じます。

 波多方側の自然石にも注連をかけてあります。これらは、結界を示すものでありましょう。

 

37 波多方高原

 妙見様から波多方側は、またぞろ鉄条網で仕切られています。そのへりに沿うて右の方に行き、電波塔の近くから草原を下りて行けば旧道に出会うそうです。

 鉄条網の向こうは広い放牧地です。懐かしい波多方高原の風景を、少しですけれども楽しむことができました。バス遠足やハイキングの思い出をお持ちの方は、ぜひ教えてください。

 

今回は以上です。次回の予定は今のところ立っていません。

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