大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

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大分の名所めぐり その2(大分市)

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。まだまだ、行きたいところ・行ったことのないところがたくさんあります。今年もたくさんめぐって、記録していきたいと思います。

 さて、前回南太平寺の伽藍大明神周辺の名所旧跡を少し紹介しました。今回はその続きからのスタートになりますから、先に前回の記事を読んでいただいた方がより分かりやすいと思います。

 

4 南太平寺の観音霊場と石塔群

 伽藍石仏のすぐ下から右に折れて、枝道を下ります(分岐点に標識があるのですぐ分かります)。写真はありませんが、下り切ったところの右側に横穴墓と思しき横穴が数基確認できます。今は藪に埋もれがちで、細部の確認は困難を極めます。あるいは防空壕の可能性もあります。

 その横穴のすぐ先から石仏・石塔が並んでいます。右に折れて奥に行きますとお観音様が33体ずらりと並び、寄せ西国の様相を呈しています。標識に「千体仏」とありますのは、この区域の仏様も石塔もすべてひっくるめての象徴的な呼称であろうと考えます。数が多いことを表す比喩的な表現としては、百○○が一般的な範疇でしょう。千○○と申しますと、よほど大規模な感じがいたします。こちらも百体仏ならまだしも千体仏とは、やや誇張が過ぎるような気もいたしました。けれども昔はもっとたくさんあった可能性もありますし、そうでなかったとしてもよほどの信仰を集めたということなのでしょう。とまれ、「千体仏」の文言のみを目にしますと誤解を招く惧れがありますので、項目名は実態に即した表現にしたつもりです。

 このように半肉彫りのお観音様が3列に、計33体安置されています。このうち1体のみ1段高くなっておりまして、これも含めての33体です。札所の番号はありませんでした。めいめいに、みんな形が異なります。手前にはお地蔵さんが3対並んでいます。いつの時代のことか分かりませんが、お屋根をかけて鄭重にお祀りされています。人里からほど近く、昔から地域の信仰が絶大なのでしょう。

 きわめて良好な状態を保っている宝篋印塔です。塔身が2段重ねになり、上段の四面には梵字がくっきりと残っています。下段には四面に回向文を彫ってあります。このように塔身が2階建てになった宝篋印塔は、その境目に別石で反花を挿んでいるのを見たことがあります。ところがこちらは別石ではなく、下段の上面に直に花弁を彫り込んであります。基壇との間には大型の反花・請花を挟み、めいめいの花弁が大造で、ふっくらと二重花弁の様相を呈しつつも矩形の輪郭に沿うており、この部分にも形式化が感じられます。笠を見ますと隅飾りが発達し外向きに張り出し、露盤の形式化が顕著です。反花を隅飾りと相似になるようにこしらえてあるのは、国東半島の宝篋印塔でもときどき見かけます。相輪は上に行くほどすぼまります。古式の重厚さ・豪壮さは影を潜め、ほっそりと華奢な面影が強くなっています。この形状の特徴から推して、江戸時代を下らないであろうと判断いたしました。

 下段の文言を分かる範囲で転記しておきます。

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願以此功徳
普及於一切
我等與衆生
皆共成佛道

文●向句 ※●は回あるいは廻の異体字と思われます
宝篋印塔
放大光明

願主
勝道定縁居士
勝室妙縁真如
為菩提造立焉

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十月十一日 寛政丙辰孟(以下不明)
奉読誦法華経一千部供養塔
(左の行読取困難)

 このお塔は紀年銘の書き方が風変りです。寛政の文字の上に、明らかに後補ではあるまいかと思われるようなバランスで十月十一日と彫ってありました。塔身の形状もずいぶん変わっています。基壇の蓮花にも注目してください。

四国秩父西国坂東 大乗妙典

 秩父三十四所、西国三十三所、坂東三十四所を合わせて日本百観音と申します。それと四国八十八所、しめて188もの霊場を全てまわるのはなかなか難しいことです。以前、宇目町の記事でもこのように四国、秩父、西国、坂東を並べた銘を持つ供養塔を紹介ししました。こちらは、全部巡拝した紀念の供養塔でしょうか?よし代参講があったとて、全部まわるのはかなり難しかったのではないかと思うので違うかもしれません。

 こちらは御室の傷みがひどく、崩れないように補強してあります。宝珠も欠損しています。でも粗末になることなく、きちんとお祀りされています。

 四面仏の石塔です。おそらく笠塔婆の笠が欠損したものでしょう。傷みが進んでおり残念に思います。もう倒れないようにコンクリートブロックに接着されています。

 

○永興石について

 南太平寺一帯に石造文化財がすこぶる豊富である背景として、永興石の産地であることが挙げられます。南大分からは良質な石材がとれたそうで、南太平寺から大字荏隈(えのくま)は深河内にかけて方々に石切丁場がありました。南太平寺には石屋さんが多く、技量の優れた石工さんにより加工された石材を永興石と申しまして、近隣在郷の石垣をはじめ鳥居、石塔の部材、像などがたくさん作られました。おそらく先ほど紹介した宝篋印塔も、そのひとつでしょう。

 なお、永興石については渡辺克己著『大分今昔』に詳しいので、興味のある方は一読をお勧めします。近くの図書館に蔵書がなくても、ウェブサイト「NAN-NAN」で無料で閲覧できます。大分市の民俗の記録として貴重であるばかりか、ご高齢の方の思い出話を引き出す際の助けにもなりますので、家庭や福祉施設などにおけるコミュニケーションにも最適の本です。

 

5 南太平寺の石櫃と新四国札所

 横穴のところまで戻って簡易舗装の小道を下っていけば、伽藍大明神から道なりに下る坂道に突き当たります。右折してさらに下りますと、突き当りの民家の坪に石幢が立っています。左折してすぐさま右折、左後方からの道に合流して最初の角をまた右折して上りにかかります。

 道路右側にこのような標柱が立っています。「石櫃(牛祀殿) 大分四国73番札所 御本尊釈迦如来」とあります。階段を上って少し進み、右方向に上がればすぐです。

 大岩に洞穴をなして各種石仏を安置してあります。左のコンクリートブロックづくりの建物は新四国の札所です。

 札所には、お釈迦様とお弘法様が対になってお祭りされています。お線香なども用意してくださっています。

 石櫃の中には数体の仏様、花立て、線香立て、三部妙典塔などの石造物がところ狭しとおさめられています。様子を見るに、近年はお参りも少なくなっているようです。

 

6 弥栄神社祇園様)

 石櫃のところから坂道を上れば、美術館に戻ることができます。車に乗って今こそ上ってきた坂道をまた下り、突き当りを左折して踏切を渡ってすぐ左折します。古国府駅を過ぎて左折、踏切を渡って道なりに上れば三叉路になっています。

 三叉路の左には立派な一の鳥居が立っています。扁額には「祇園宮」とあります。もとは祇園宮と称していましたが、明治の神仏分離に際して弥栄(やさか)神社に改称されました。県内では、牛頭宮とか祇園神社を八坂神社に改称した事例が目立ちます。こちらは美称として、縁起のよい用字にしたのでしょう。鳥居の貫の端を欠くのは、道路を通行する車高の高いトラック等に干渉することを懼れたと思われます。なお、車は三叉路を右に行ったところの駐車場に停めてください。

県社弥栄神社

 祇園社宝亀2年の創建で、旧岩屋寺に鎮座していました。その後、建久年間の疫病退散を願うて大友能直公が京の祇園社から勧請し再興、兵火により消失しましたが元和4年に府内藩主により現地に遷座し再興し今に至ります。

 一の鳥居をくぐって右に折れますと、一直線の参道が続いています。二の鳥居のあたりにはいくつもの灯籠が並び、境内林とよう馴染んで素晴らしい景観です。

 右側には神馬が並んでいます。たいへん愛らしいお顔立ちで、色も紅白にておめでたい感じがいたします。見学をお勧めいたします。

 弥栄神社で必ず見学すべきは、この随神門です。今市の丸山八幡の楼門に比肩する素晴らしい建築で、細部に至るまで工夫が行き届いています。それは全体としての造りのみならで、たとえば瓦や軒口のお細工など、何をとっても見事なものです。しかも破風をはじめとして門内に数々残る、鮮やかな彩色を伴う見事な彫刻や、木彫りの狛犬など、見所がたくさんあります。

 写真はありませんがお社もたいへん立派です。説明板の内容を転記します。

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弥栄神社略記

鎮座地
 大分市大字上野738番地

御祭神
 須佐之男
 稲田姫命
 大国主命

由緒
 当神社(旧名祇園社)は奈良時代宝亀2年(771年)、国府の鎮護寺であった岩屋寺(現在廃寺)の境内に鎮座したことに始まる。
 鎌倉時代の建久年間(1190~1199年)に大友氏初代大友能直が京都祇園社(八坂神社)を勧請、再興した。大友時代は祇園祭祇園会)を大友氏が奨励して大いににぎわったが、天正14年(1586年)、島津軍の府内侵攻により社殿は焼失した。
 荒廃した社殿を江戸時代の始め、元和4年(1618年)、時の府内藩主竹中重義が律院村(現在地)に移して再建し、里郷の氏神、総鎮守とした。祇園祭も歴代府内藩主(竹中家・日根野家・大給松平家)が奨励したため賑わい、浜の市と祇園祭が府内城下の二大祭りと呼ばれた。
 明治4年1871年)、弥栄神社と改称し郷社となる。大正5年(1916年)県社に昇格した。社殿(平成8年に楼門大修理)や祇園祭(古国府夏祭り)は、今も古国府の人々により大切に受け継がれている。

境内神社
 貴船社厳島社、御坂社、八雷神社、稲荷社

平成29年10月吉日 弥栄神社・大国社総代会

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〇 祇園祭とお獅子さまについて

 祇園祭について補足いたしますと、明治末期までは盛大に行われておりましたが今は衰退著しいようです。かつては立派な山鉾が出て御神幸が行われたほか、境内には露店が軒並びで参詣者も押すな押すなの大賑わい、特に布買市が有名でした。境内で浪花節がかかったり、駄ノ原の人により能の奉納もあったそうです。遠方から訪れる人も多く近隣にはそのような人を泊める小屋まで建ったといいます。

 このような賑やかなお祭りも大正以降は衰退しましたが、祇園様の「お獅子様」は昭和40年代まで昔ながらのやり方をかたくなに守り、お獅子が決まった道順で決まった家々を、徒歩でまわっていました。昔の道がなくなってもお構いなしに藪を突っ切っていたようです。

 

 さて、弥栄神社の境内には庚申塔が5基も立っています。わたしが気付かなかっただけでもっとあるかもしれません。いずれも猿田彦の文字塔です。もとから境内にあったものもあれば、宅地開発その他により近隣の道路端から移されたものもありましょう。

猿田彦大神 ※猿は異体字

 安政6年の銘があります。じつに堂々たる字体で、朱がよう残っておりますので余計に力強さを感じました。

明治廿七年午三月吉日 ※廿は異体字
猿田彦大神
岩屋寺

 近隣在郷の庚申塔の中でも、特に年代が新しい部類と思われます。岩屋寺組と申しますのは、かつて岩屋寺跡付近にあった土居でしょう。

猿田彦命

 この塔は上部が斜めになっているのが風変りです。下部が埋もれてしまっています。

 これも庚申塔です。正面からの写真を撮り忘れてしまいました。左側の面が正面で、猿田彦の銘があります。

文政十丁亥天
猿田彦大神
   去田命釈孫宇治(以下読み取り困難)
二月祭日

 左の行、「二月祭日」の「日」のすぐ右下から、「去田命…」云々をごく小さな字で彫ってあります。これは後補ではあるまいかと推量いたしました。

 弥栄神社は、同じ大分市春日神社、柞原八幡、西寒田神社護国神社などに比べますとやや知名度が低いように思います。容易にお参りできますので、みなさんに参拝をお勧めいたします。

 

今回は以上です。次回は久しぶりに、北杵築の名所シリーズの続きを書きます。

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