大分県の名所・旧跡・史跡のブログ

カテゴリから「索引」ページを開いてください。地域別にまとめています。

三芳の名所めぐり その2(日田市)

 予定を変更して、もう1回だけ三芳地区のシリーズの続きを書きます。今回は刃連町(ゆきいまち)にあります鬼塚だけなので、短い記事になります。

 

6 鬼塚

 こちらは著名な観光名所ではありませんが、今回の日田観光でぜひ立ち寄りたかったところのひとつです。たくさんの仏様にお参りされています。主はお弘法様であり、地域の弘法大師霊場とみてよいでしょう。ほかに、宝篋印塔や五輪塔もあります。参道は、下井手町および刃連町(ゆきいまち)から伸びています。いずれも田んぼの畦道です。もちろん車は入りませんし、付近に適当な駐車場所がありません。

 田んぼの向こうに塚になった場所があります。ここが鬼塚です。近づけばそれと分かりますし、畦道をどう辿ればよいのかも明白です。しかし、車の通る道からこの塚を見つけるのは難しいかもしれません。

 入口に説明板が立っています。内容を転記します。

~~~

鬼塚

咸宜園の南東、水田の中に立っているので広瀬淡窓は郊外散歩にも五馬・佐伯・杖立等の旅行にも眺めたであらう。殊に小ヶ瀬井手工事の見物にもこの附近を通ったと思われる。文政11年(1828)2月17日には弟の仲平・謙吉等十余人散歩してこの山に登った。
「小山全く剥落し 巨石尚穹窿あり 鬼塚は何人の塚ぞ 人は伝ふ 是鬼の工なりと」の詩がある。

広瀬淡窓先生生誕200年記念
昭和56年11月 日田市教育委員会
協賛 日田ライオンズクラブ
   日田すいめいライオンズクラブ

~~~

 説明書きを読んでも、鬼塚の由来には何一つ言及されておらず、何が何やら分かりません。一応、補足しておきます。

 

○ 民話「鬼塚の由来」

 昔の玖珠川は会所宮の下を流れていたが、長い年月を経て徐々に流れが変わり、今の流れに落ち着いた。もと川が流れていたところの小石を取り除けて田畑を造成した際、その石を積み上げて今の鬼塚が形成された。その場所で鬼火(どんど焼き)を焚いていたので、鬼塚という。昔は、大きな鬼が棲んでいた。のちに明王寺の分院が開かれ、お婆さんが堂様のお守りをしていた。

 

 入口からすぐのところで、塚の崖下を行く通路と外周を回り込んで上る通路に分かれています。その上り口のところの龕といいますか、岩屋状になったところにお屋根をかけて、お不動様を中心にたくさんの仏様がお祀りされています。

 この二股のところに、「落石のおそれあり関係者以外立入禁止」の立札が立っていました。逡巡しましたが、道を教えてくださった方は特に何も言われなかったのと、見たところ危なそうな様子はなかったのでさっと参拝・見学しました。もしかしたら以前、地震などで落石ないし小規模の崩落が生じたことがあるのかもしれません。

 以前、本匠村は因尾地区のシリーズの中で串団子状になった五輪塔を紹介しました。あれほどではありませんけれども、こちらの五輪塔も団子型に近い形状です。

 岩陰にはお弘法様がお祀りされています。その後ろに並んだ丸い石は何でしょうか?きっと、何らかの信仰を伴うものでしょう。

 崖下には横長の祭壇にずらりと仏様が並び、お屋根をかけて立派にお祀りしてあります。その中心はお弘法様です。横には六地蔵様などです。リンや線香立て、お賽銭箱などを据えるなど、整備が行き届いていました。

 こちらは多種多様な仏様が一堂に会しており、壮観です。台座に薬師如来文殊菩薩…など個々の尊名が彫ってあります。このように仏様が並んでいればさてもありがたいうえに、見学すれば夫々の像容の特徴を学ぶことができます。破損個所がほとんどなく、曲線の表現や込み入ったところなど、たいへんよう整うています。お顔の表情なども素晴らしい。

 一連の仏様の中で、毘沙門天とお弘法様だけは対になっていて、特別に高級にお祀りされていました。台座には寄進者のお名前が彫ってあります。

 写真はありませんが、崖下から少し離れたところには小さな堂様も建っています。そして入口まで引き返して通路を上れば、たいへん個性的な像が立っています。

 ずいぶん平面的にこしらえたお恵比須様は、にっこりとした笑まいに何とも言えない独特の雰囲気がございます。しかもお帽子には、梵字のようなものが3つ彫ってあります。腕などほとんど線彫りに近いものを、手だけやや立体的にこしらえて錫杖を握らせてある点など、自由奔放を極める表現に呆気にとられました。個性的で、ほんにおもしろいではありませんか。

 頂上には特別に高級な基壇をこしらえて、その上に修行大師像が堂々たるお姿で立ち、麓を見守ってくれています。お数珠など細部に至るまで丁寧な彫りで、この種の像としては手の込んだ造りであると感じました。頭身比なども違和感がありません。秀作だと思います。

 手前のお塔は、宝篋印塔と五輪塔の後家合わせでしょうか。段々になっているところが不安定に見えますけれども、接着されているので倒壊の心配はありません。本来の姿ではありませんけれども、立派な造形です。後ろの高いところに立っている灯籠は重そうな笠や中台に対して火袋のところは小さめで不釣り合いな感じがしますし、まして竿の細いこと細いこと、中台との接合部があまりにも小さくて何かのはずみに壊れはすまいかと心配になります。

 宝篋印塔は塔身が単層になっています。おそらく元は2階建てであったものが倒壊してしまい、手前と奥に分けて別々に積み直し、2つの塔に分けたのでしょう。そうでなければ、手前に写っている側の塔のバランスのおかしさが説明できません。破損個所が多く、元の積み方に復元するのが難しかったのではないでしょうか?このお塔は、船場の観音様の項でも出て来ました豪潮律師の宝篋印塔のひとつと思われます。大きくひびが入ったり欠けたりしていますが、壊れたまま粗末になっておらず何よりでございます。

 

今回は以上です。次回こそ、日田市街のシリーズに移ります。